7・暁に祈る

「蝶子は本当にピアノがお上手ですわねえ」


 蝶子にとってはピアノをうまく弾けることは両親を笑顔にさせることだった。幼いころから音楽に親しみ、いつかは立派なピアニストになることが夢だった。


 だから、毎日何時間も練習して、多くのコンクールで優勝していくうちに、蝶子の通う女学校一のピアノ演奏者となり、先生からも生徒からも期待される存在となっていった。


 しかし、そんな蝶子の命とも呼べる音楽を楽しめる時間は刻一刻と減っていった。


 戦争だ。


 大日本帝国軍の真珠湾攻撃を発端として、米国との戦争を始めてしまった。


 その結果、蝶子たちが音楽を楽しむ機会は失われていき、男は兵隊へ女はその武器をつくるための工場で働かされることになったのだ。


 そのときは百姓だろうと侯爵だろうと関係ない。


 女学校では薙刀片手に戦闘訓練を強いられることとなり、授業もつねに戦争がらみ。

 ラジオ番組のほとんどが娯楽ではなく、戦況を伝えるニュースばかりで、米軍機をいくつ打ち取っただとか。ある戦場で勝利したとかばかりで実際の日本軍がどうなっているのかははっきりと伝えられることはなかった。


 音楽の授業はあるにはあるが、ほとんどが軍歌で、蝶子も軍歌を奏でることが多かった。


 だけど、蝶子が弾きたかったのは、軍歌ではない。もっと愛にあふれたような曲だった。けれど、それを引かせてくれるわけでもない。


 戦争が続くにつれて、蝶子たちの暮らしは悪くなっていく一方。


 伝えられるのはどこどこの家のことが戦死したという話ばかり。ついには蝶子の兄弟さえも戦地へ向かって死んだという通知がきてしまった。


 唯一残った蝶子よりも一つ年下の武も学徒動員で戦地に向かうことになったのだ。


 だれもがひそかに泣いた。


 公で行かないでくれと叫ぶことさえも許されなかったゆえに、声を殺して泣き続けた。


 戦争は長引く。多くの人が死んでいく。爆弾が撃ち込まれ必死に逃げる。いつなるともしれないサイレンに怯えて暮らす日々。


 ただ唯一の救いは時折弾くことができたピアノだけだ。


 いつになったらちゃんと弾けるのだろうか。


 いつになったら、戦乱がおわるのだろうか。


 いつになったら大切なものを失わずに済むのだろうか。


 弾きたい。


 ひかないといけない。


 死んだ人たちの鎮魂歌となる曲を弾いて。生き残ったものたちに希望を与える曲を弾く。


 蝶子の中でそんな希望を抱いていた。


 少しでもいい。


 ピアノを弾くのだ。


 だから時折、皆が寝静まったころに弾くときがあった。電気をつけたら、敵兵に気づかれてしまうから暗闇の中で、蝶子のために用意されたピアノの部屋へいき、手の感覚だけで弾く。長く弾けば、親に見つかってしまうから一日十分程度ど決めて弾いていたのだ。


 その日はいつものように寝静まったころを見計らってこっそり布団から出るといつものようにピアノの部屋にいった。


 ピアノのふたを開けて。弾いてみようとしたときだった。


 突然空襲警報が鳴り響いた。


 それにきづいていながらも蝶子はなぜかピアノからはなれることができなかった。


 弾きたい。



 まだ弾いていない。


「蝶子。どこ。どこなの。早くにげないと」


 母親の声がする。


 いや、離れたくない。


 きっと、誤審よ。


 爆弾なんて落ちてこないわ。


 そう自分に言い聞かせて、蝶子は音楽を奏でだす。


 その音で母親はピアノの部屋へと駆け付けた。


「なにしているのよ。早く逃げないと。やつらがくるわ」


「いや。いやよ。弾くの。ひかないといけないの。」


 蝶子は必死にピアノに縋り付こうとする。


「なにをいっているのよ。早くにげるのよ」


 蝶子は両親から強引にピアノから引きはがされる。そのまま、両親に弾きづられるようにピアノの部屋をでる。


「いや。いやよ。弾くの。私が弾くの。そうしないと報われないわ」


「この子はなにをいっているのよ。とにかく、防空壕へ」


 そのまま防空壕へと向かおうとしたときだった。


 上のほうから何かが投下してくる音が聞こえてくる。


 ほんの一瞬。彼女たちが空を見上げた瞬間。


 すべてが消え去っていった。



 目の前が真っ白になり、彼女の大切にしていたものがすべて消え去っていく。


 いや



 いやよ



 私から取らないで



 私は弾くの。



 弾きづつけるの。



 蝶子が目を覚ましたとき、一人の少女がピアノを弾いていた。


 学校の音楽室の中でコンクールに間に合わないと何度もいいながら弾いていたのだ。



 私と同じ。


 蝶子はそう感じた。


 だから、彼女に話しかけた。


「私が教えてあげる。きっと弾けるようになるわ」


 ほんの親切。いや蝶子の願いを彼女に託送としたのかもしれない。



 それなのに、蝶子は暴走した。


 なにがきっかけだつたのかは定かではない。


 なにかが蝶子を刺激したのだ。



 そうじゃない。


 君のやるべきことは少女のピアノを教えることじゃない。



 すべての魂を支配するための鎮魂歌を奏でることだと誰かが蝶子にささやいたのだ。







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