8・氣
「うるさい。うるさい」
心の底から湧き凝る恐れを押さえながら、武村が声を荒くする。
「はあ? なにヒステリック起こしているんだよ。むかついているのはこっちのほうだ。てめえの為に器を準備した店長や協力してくれている杉原たちに申し訳なくないのか? こら?」
武村は後退していく。
「うるさい。あんたらがちんたらするから、麻美さんは拙者にものにはならなんだよ」
武村は失っていない左手を朝矢に掲げた。直後、無数の黒い蝶が朝矢へと襲い掛かる。朝矢は両腕で自分の顔を覆い隠すが、ただの気休めに過ぎない。たちまち、蝶に覆われてしまった。
「だから、あの娘。江川樹里を生贄にして麻美さんを拙者のものにする。食らえ。あの男の霊気を全部食らってしまえ」
武村は目を見開き勝ち誇ったように笑う。
「テメエはバカか」
蝶の群れの中から朝矢の声が響く。同時に蝶が朝矢から離れていき、まるでなにかを探すかのように朝矢の周辺をグルグル回っている。
朝矢が武村の前に現れる。
その姿形こそ朝矢そのものというのに、そこから醸し出す気配はどこか違っていた。
「霊気……じゃない……」
武村はその異様な雰囲気に足がすくむ。
「あのくそムカつく蝶のせいで霊気が吸われちまったからな」
そういいながら、朝矢は武村との間を挟む蝶たちを持っていた刀で切り裂いていく。
その直後に、朝矢たちの背後からなにかが倒れる音が聞こえる。
振り向くと、そこには一人の女がいた。黒い髪と黒い瞳した女。朝矢を捕らえようとした女だ。
一度俯せに倒れた女は、顔だけを上げて朝矢を見る。
「くそおおお。まさか、すでに先着がいたとは……」
女は忌々しげにいう。
「まあいい。ならば、そいつもろとも葬りさるまでだ」
女は突然朝矢へと飛びかかろうとする。
「うぜえよ。てめえは、黙ってろ!」
女はたじろぐ。
そのすきに朝矢は刀を女の胸元に突き刺した。血は出ない。女の姿は徐々に消え去り、蝶たちが舞う。
消えそうになりながら、女は朝矢と目が合う。朝矢の瞳は異常に赤く、まるで獣のような細い瞳孔をしていた。そして、口元には不気味な笑みを浮かべている。
「消えろよ。雑魚」
「貴様は……」
女は朝矢を忌々しげに見る。その姿は徐々に黒い蝶の塊へと変化していき、顔さえも形を失いかけたとき、黒い瞳が舞台のほうへと向かう。
「……。この男は……。この男は……」
女はすでに黒く塗りつぶされた腕を舞台に伸ばしながら、震える声でなにかを訴えようとしている。すべてを言い切るよりも早く、女だったものは黒い蝶の群れへと変わり果てる。蝶たちは逃げるように多方へと分散していき、砂のように消え去った。
消えゆく女と朝矢の後ろ姿を愕然と見ていた武村の口が開く。
「君はだれ?」
朝矢はその言葉に振り返る。
一瞬かすかな笑みを浮かべていたように見えた彼だったが、たちまち困惑の色を浮かべた。
「くそったれが」
朝矢は舌打ちをすると、武村のほうへと近づき、その黒い瞳を向ける。
「武村。俺はすっかり霊気を吸われてしまったらしい。だから、制御できるかわからねえ。どうする? お前」
朝矢は持っていた刀を尻餅をついている武村に突き立てる。その刀から異様な気が漂う。
朝矢のその言葉の意味が真実であることは武村にもわかる。まったく霊気が感じない。まるであの刑事のように霊気がその器から消え去っているのだ。もしも、そうならば少なくとも彼はいま立ってはいられない。少なくとも立ち眩みぐらいは起こしそうなものなのに凛として立っている。その突きつけられた刀に狂いはない。
そのわけを武村が知るまでには、まったく時間を要しなかった。
朝矢の体内からかすかに妖気が漏れていたからだ。
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