ダンジョンマスターは菓子を食べる

くれは

第三十七・五話 アダンはエメと菓子を食べる

 メテオールに菓子の店ができるということを、アダンはエメから聞いていた。




 エメは少し前まで、収入のほとんどを魔虹石錬成に注ぎ込んで、そうやって得た魔虹石で召喚ガチャをやっていた。一時期は食費も生活費も切り詰めて、一人前も食べられない程に胃が小さくなっていたエメだけれど、アダンが世話を焼いているうちに、最近ようやく元の通りに食べるようになってきていた。

 お菓子を買って食べようなんて、ちょっと前のエメだったら考えもしなかっただろう。そんな金があったら魔虹石になっていた。でも、菓子の店ができるとアダンに教えてくれたエメは、それを楽しみにしている様子だった。

 それはつまり、エメの生活がだいぶ改善されているということだろう。アダンはそのことに少し安堵する。


 アダン自身は、菓子にはさほど興味がなかった。百五十年前も、今も、あまり食べたことがない。アダンにとって何かを食べるというのは腹が膨れるかどうかが大事なことで、食べ物の好みもあまり考えたことがない。強いて言えば、肉を食べたいと思うことが多い気がする、くらいの認識しかなかった。

 菓子はそれで言うと効率が悪い気がしている。だからアダンは、自分から菓子を買って食べようと思ったことがない。エメに食べさせるためにナッツを買ったりはしたけど、あれは菓子に含まれるのだろうか。


 それでも、エメがにこにこと笑って「楽しみですね」なんて言うから、アダンはうっかりと、たまには菓子を買ってみるのも悪くないのかもしれないなんて思ってしまったのだった。




 百五十年以上前にダンジョンが活動を停止して以降、メテオールは山間やまあいの小さな村だった。それが最近になってダンジョンの活動が再開して、冒険者ギルドがやってきて、そして冒険者ギルドが中心になってメテオールはダンジョン街へと急激な発展を遂げた。

 急激な発展のために、娯楽はずっと後回しにされていた。そして、菓子もその後回しにされたものの一つだった。

 食堂のメニューの片隅に、素朴な田舎のお菓子が並んだりはしていたけれど、日々増える冒険者やダンジョン街の機能を支える人たちの腹を満たすことを最優先にここまできた。

 メテオールも人が増えて、店も増えて、拡大は少し落ち着いてきていた。そろそろ娯楽についても考えることができるようになってきたということだろう。今回の菓子の店は、きっとその手始めだ。




 昼下がりも過ぎて、もうじき夕暮れになろうかという頃に起き出して、アダンは街に出る。昼間の街は人が多くて苦手だけれど、経済活動は必要なので仕方がない。

 昨夜のダンジョン探索で手に入ったドロップアイテムを売り払って、ポーションを補充する。店を出たところで、その甘いにおいに気付いた。

 甘いにおいを辿って行った先には、菓子屋らしき店があって、あれがエメの言っていた店だなとアダンは思った。それまでは、アダンだってちょっと何か買っていこうかなんて考えていたのだけれど、その店先に冒険者や近所で働く人たちが何人も群がっている様子を見て、アダンは舌打ちした。

 アダンは足を止めて、甘いにおいを受け取って帰っていく人たちを見ながら、あの中に入っていって何かを買う気にはなれないなと思う。もともとそこまで強く食べたいものでもなかったのだしと、諦めかけたときに、エメの弾んだ声がした。


「アダンさん」


 呼ばれる声に振り向くと、ぱたぱたと駆け寄ってきたエメがアダンの前に立って、何が嬉しいのかふわふわと笑った。深い緑色の瞳が、アダンを真っ直ぐに見上げている。


「アダンさんも、お菓子を買いにきたんですか?」


 エメはもともと買うつもりだったのだろう。アダンはちらりと菓子屋の店先を見て、だったら自分で買う必要もないかと考える。


「いや、通りかかって……買ってみるかと思ってたけど、人が多いからやめた」


 やる気がなさそうに、アダンは後頭部をかく。後ろで一つにまとめられている黒い髪の毛が、肩の上で揺れる。人が多いことにうんざりして、目付きはいつもより悪いし、猫背具合もひどい有様だ。


「わたしは……飴がらめカラメリゼがあるって聞いて、楽しみにしてたんです」


 エメがそう言って、ふふっと笑った。

 エメのMPマナの方がよっぽど良いにおいだったと思い出してしまって、アダンはまた小さく舌打ちした。甘いにおいの中で、今目の前にエメがいて、その状態であの頃・・・のことを思い出すのは、よくない気がした。

 この感情をなかったことにできる気はしないけれど、全面的に受け入れられるほどの覚悟もまだない。

 アダンは銀貨を一枚出してエメの手に握らせる。


「俺も食うから、多めに買っといてくれ。種類もいくつか」

「え……あ、はい。え、でも、こんなにだと多すぎます」

「後で釣り銭を返してくれれば良いよ。俺は夕飯買って帰るから、あんたは菓子だけ買ってこい」


 アダンはエメの肩を軽く叩いて歩き出す。そんな僅かな触れ合いでも、エメの身体から溢れ出るMPマナはアダンの中に入ってきた。

 他人のMPマナが入ってくるのは、気分の悪いことだというのに、エメのMPマナにはすっかり慣れてしまった。慣れたどころか、心地良いとすら感じてしまう。近くにいるのが当たり前になり過ぎてしまった。

 アダンはアダンらしくもなく、この訳のわからない感情を抱えながら、エメのすぐ近くにいる。そんな自分に苛立ちを覚えることもあるけれど、かといってこの感情を手放すのは嫌で、エメから離れるのはもっと嫌だった。




 夕飯は、肉をたっぷりと挟んだサンドイッチにした。それと、ベーコンをたっぷり使ったスープ。二人分を買って、家に戻る。

 アダンの家には、エメの方が先に来ていた。アダンの家の扉には、エメの職員ギルドタグを登録してあるから、エメは自由に出入りできるようになっている。


 エメはアダンが戻ってソファに落ち着くなり、お釣りだと言って半銀貨一枚と銅貨を31枚アダンに渡した。アダンは戻ってきた金額と、エメが買ってきた菓子の包みを見比べた。


「もっといっぱい買ってくれば良かったのに、食べたかったんだろ」

「そんなに買っても食べられないですよ」


 テーブルに置かれた菓子の包みの大きさを見ても、アダンにはそれほどには思えなかった。

 アダンが釣り銭をしまう間に、エメが早速菓子の包みを開けようとする。アダンはそれを止めて、自分が買ってきた食べ物弁当の包みをエメの方に押しやるようにした。


「先に飯食いたい」

「そっか、そうですね。すみません、お菓子が楽しみすぎて」


 アダンに止められたと言うのに、エメはなぜか幸せそうに笑った。お菓子の包みをテーブルの脇に避けて、アダンにもその笑顔を向ける。

 アダンはエメから目を逸らして舌打ちをする。エメがそんなに楽しみにしてるなら先に菓子を食っても良かったかもしれないなんて思ってしまいながら、アダンは夕飯の包みを開いた。




 エメは食べるのが遅い。ちまちまと噛みちぎってちまちまと食べる。アダンがサンドイッチを食べ終わる頃、エメはまだ半分も食べ終わってない。スープを食べ終わってようやく半分だ。

 食べるのが遅いくせに、合間にお喋りなんかをするものだから、進みはますます遅くなる。


「アダンさんは、どういうお菓子が良かったんですか。全然わからないから、すごく迷いました」

「んー、いや、別に……菓子とかあんまり食ったことないから、よくわからないし、なんでも良いよ。どうせ甘いくらいしかわからないだろうし」


 アダンの投げやりな言い方に、エメはぱちぱちと瞬きをする。


「ええと、ひょっとして、百五十年前ってお菓子があまりなかったとかですか?」

「いや、あっただろ。あったとは思うけど、今と同じかは知らない。あんまり興味なかったから、よく覚えてないんだよな」

「ええっと、じゃあ、食べたことあるお菓子ってどんなものですか?」


 エメの問い掛けに、アダンは困惑したように眉を寄せた。記憶を辿るように目を閉じる。エメは、アダンが静かに考えている間に、サンドイッチを食べ進める。

 やがて、アダンは目を開いて、小さくぽつりと呟いた。


「野いちご」


 エメがまた手を止めて、首を傾ける。アダンの琥珀色の瞳は、いつもの鋭さがなく、どこかぼんやりとしたままテーブルの上を見ている。


「野いちご、ですか?」

「レオノブルの外れに家があって、その家の裏に野いちごがあったんだ。枝が棘だらけで、近付くと傷だらけになったし、すごく酸っぱかったけど。実がなる頃に、こっそりと食べに行ってた」

「うちの近所にもありましたよ、野いちご。いっぱいとって、ジャムにしたりしてました」


 エメはきっと、その野いちご摘みや、ジャムを作った時のことや、ジャムの味を思い出しているのだろう。いつものように、幸せそうな笑顔をアダンに向ける。

 アダンが野いちごを食べていた思い出は、そんなに幸せなものではない。他に食べるものがなかった時のことだ。人から隠れるように、野いちごの茨の茂みに身を潜めて、顔や手足に傷を作りながら、空腹を紛らわせるために食べていただけのことで、もしかしたらそんなのは菓子とは言えないのかもしれない。


 アダンは他の記憶を辿ってみる。興味がなかったとはいえ、食べたことくらいはあったはずだ。いつだったか、なんだったか。どこでだったか。

 幼い頃、レオノブルで一人で暮らし始める前の記憶が、わずかに掠ったような気がしたけれど、それは一瞬で霧散してしまった。誰かと一緒に暮らしていた記憶はあって、それは多分親なのだろうけれど、アダンにはもうその顔も声も思い出せない。その誰かの手が、素朴な焼き菓子をくれたような気がするけど、それ以上のことは何も思い出せなかった。

 アダンは軽く頭を振る。誰かの手の記憶を上書きするように、もっと後の記憶を思い出す。思い出して、思わず苦笑した。


「ああ、そうだ、メテオールだ」


 エメがまた食べるのを中断して、アダンを見た。エメはさっきから、一向に食べ終わる気配がない。


「メテオール……が、どうかしたんですか?」

「前……俺の前のダンジョンマスター。あいつが、菓子をくれたことがあったなって。あー、でも、なんか喉に詰まりそうだったことと、甘かったことしか覚えてない」

「アダンさんの前のダンジョンマスター……初めて聞きました」

「俺も初めて言ったよ。MPマナ操作は、半分くらいはあいつに教わったんだ。それで、ダンジョンマスターを俺に全部押し付けて、さっさと旅に出てって。自分勝手なやつでさ……あれから、どうしたんだろうな。結構いい歳だったから、さっさと死んだのかもしれないけど」


 アダンの目が、懐かしそうに細められるのをエメは見た。アダンはもうその人にも会えないし、その後の消息だってきっと知ることはないだろう。

 百五十年前のことはあまり良い思い出がないらしい。だからあまり語りたがらないアダンだけれど、その中にもこうやって懐かしむ記憶があったのだと、エメは知った。

 エメがアダンの心の内を思って何も言えないでいると、アダンは溜息をついた。


「いいからあんたはさっさと食えよ。いつ食い終わるんだよ」


 アダンの声に、エメは慌てて一口噛みちぎる。それを咀嚼して飲み込んでから、アダンを見た。


「あの……食べられないわけじゃないんですけど。これ以上食べるとお菓子が食べられなくなるので、残りは明日食べますね。ちゃんと食べますから」


 エメが食事を抜いていた頃に、アダンが「ちゃんと食え」と言い続けた効果か、エメはそんな言い訳をはじめた。

 そんなに菓子が楽しみなのかと苦笑して、アダンはエメに手を差し出した。


「残り、食うから」




 エメが食べ残したサンドイッチとスープをアダンは綺麗にたいらげた。

 そしてようやく、菓子の包みを開ける時がきた。エメは包みの中から、菓子を出してテーブルに並べてゆく。

 片手のひらに乗るほどのカップケーキが二つ。四角く焼き固められたずっしりとしたビスケットが二つ。そのビスケットよりも小ぶりな、ふわりと軽いバターケーキが二つ。そして、扁桃アーモンド飴がらめカラメリゼが一袋。


「アダンさん、どういうのが好きかわからないし、いっぱい買っちゃったんですよ」


 アダンが何か言う前に、エメは言い訳のようにそんなことを言った。


「もっと買えば良かったのに」


 アダンは手を伸ばして、カップケーキを手にした。どれを食べるか迷っていた様子のエメも、それに釣られてカップケーキを手に取る。


「もっと食べたかったですか?」

「あんたが、楽しみにしてたみたいだったから」


 アダンはそう言って、カップケーキを一口食べた。

 カップケーキの生地はどっしりと重く、アダンが想像していたよりも食べ応えがあった。柔らかいようでいて、確かな噛み応えがあり、噛み締めると口の中が甘いにおいでいっぱいになる。


「それは、楽しみにしてましたけど……」


 エメは落ち着かなげに視線をさまよわせた後、思いがけず真剣な顔付きでアダンを見た。


「前に話した時、アダンさんは興味がなさそうだなって思ってたんです。わたしが楽しみにしてたから、こうして付き合ってくれてるんですよね。お菓子も買ってもらっちゃったし、ありがとうございます」


 アダンは口の中のカップケーキ生地を飲み込むと、ちょっと不服そうにエメを見た。


「別に、俺も食べてみようかと思っただけだ。菓子なんて、今まであんまり食ったこともなかったから、ちょっと気になって」

「ええと、それでも、わたしはこうやって一緒にお菓子を食べてて嬉しいので、なので、ありがとうございます」


 そう言うと、エメの真剣な顔付きが、くるりと笑顔になった。

 そのにこにこした顔のまま、エメはカップケーキに口を付けた。エメの歯が、カップケーキの表面に入り込んで、エメの唇がその生地の塊を含んで持ってゆく。そして、唇の端に細かな生地の欠片かけらをくっつけたまま、その甘さにうっとりと目を細めて咀嚼している。

 アダンは視線を逸らして小さく舌打ちをすると、またカップケーキに噛み付いた。




 ビスケットはずっしりと重くて、塩気もあって、しっかりと食事をした気分になった。口に入れて噛むとざくざくとした食感の後にほろほろと崩れる。しょっぱさを感じるたびに、噛み締めた時の甘さを新鮮に感じる。飽きることなくいくらでも食べられそうだった。

 バターケーキは逆に、ふわふわと軽く、口の中でさらりとほどけるような食感だった。バターのにおいが香ばしい。あっという間になくなってしまった。


「菓子ってうまいんだな」


 ようやく出てきたアダンの感想が、それだった。菓子の甘さは暴力的で、アダンの脳みそに慣れない幸福感を叩き込んでくる。まるでエメのMPマナみたいだ。

 こんなことで自分が幸せを感じるなんて思ってもいなかったアダンは、周囲に漂う甘いにおいに居心地の悪さを感じていた。

 エメはカップケーキの最後の一口を飲み込むと、嬉しそうに身を乗り出した。


「美味しいですよね! 美味しいんですよ! 飴がらめカラメリゼも食べてください! これも美味しいんです!」


 エメは扁桃アーモンド飴がらめカラメリゼの袋を開けて、中から何粒かを出してアダンの手のひらに乗せる。エメ自身も中から一粒出して、口に含んだ。


「これ、好きなんです」


 扁桃アーモンドの表面を覆っている飴が、アダンの口の中でぱりんと割れた。それから、扁桃アーモンドのかりかりとした歯ごたえ。飴を煮詰めた甘さの中に少しの苦味があって、それが香ばしくて美味しい。

 歯ごたえが気持ち良くて、噛んでいるうちに口の中から消えていくのが寂しくて、次々と口に放り込んでしまう。

 アダンが、手のひらに乗った扁桃アーモンドを全部食べたのを見て、エメは飴がらめカラメリゼの小袋をアダンに渡してきた。


「アダンさん、今夜もダンジョン探索するんですよね。これ、おやつに持っていってください」

「あんたが食べたくて買ったんだろ。好きなんだったら、あんたが食えよ」


 エメはアダンの言葉に、ちょっと考えるように動きを止めると、アダンが手に持った小袋から扁桃アーモンドを一粒摘み上げた。


「じゃあ、あと一粒だけ。もうお腹いっぱいになっちゃったので、これで大丈夫です。だからそれは、アダンさんが食べてください。

 あ、でも、ビスケットとバターケーキはダメです。これは明日食べます。絶対食べますから」


 エメはその扁桃アーモンドを口に含んで、それから自分の分のビスケットとバターケーキを包みなおす。アダンは困惑気味に手の中の扁桃アーモンドの小袋を眺める。


「まあ、また買えば良いか」


 アダンの言葉に、エメはちょっとびっくりしたようにアダンを見て、それから上目遣いでアダンを見る。アダンの感情を窺うような視線だった。


「あの……じゃあ、またお菓子を買って……一緒に食べましょう、食べてくれますか?」


 エメのその視線は、菓子の甘さのように、アダンの感情を揺さぶって幸せというものを投げかけてくる。

 アダンは幸せというものにはまだ慣れていないけれど、それでも今は、たまにはこうやって菓子を食べるのも悪くないかもしれない程度には思うことができた。

 それは、菓子の甘さに幸福感を突き付けられたせいだし、まだ周囲に漂う甘いにおいのせいだ。


 返事の代わりに、アダンは蜜を煮詰めたような琥珀色の瞳でとろりと微笑んだ。

 それを見たエメの表情は、それこそ甘い菓子のようだった。

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