風を待つ者

月の見える丘

第1話

「あ、風が変わった」

それが元カノ、涼子さんの口癖だった。


涼子さんは俺の三つ上で、もともとは幼馴染だったが徐々に恋心を抱くようになり、中学進学と同時に一大決心をして告白をし、OKをもらった感じだ。とは言ってもお互い学校も違く、挙句の果てに俺は野球部の朝練があり放課後もほぼ毎日練習で絞られているのでいわゆる青春、という感じの恋ではないが、夜に電話をしたり練習のない日にデートに行ったりと充実した日々を送っている。ちなみに今日がそのデートの日。


日曜日の桜木町駅、京浜東北線のホームを下り南口の改札を抜けると彼女は待っていた。息を一つ吐き歩み寄るといきなり「遅い!なんで十五分前にはいないの」と怒られた。俺と涼子さんは近所なのだが、初デートの時に迎えに行くと伝えたところ「デート感がないからヤダ、普通に待ち合わせしよ」と一蹴されてしまったのでこういうカオスな状況になっている。一度だけ同じ電車に乗ってしまったことがあるのだがその時の気まずさったら…。それ以来俺は涼子さんが出発したのを確認してから家を出るのだが、そのせいでデートの度に「遅い!」と怒られるのは納得がいかない。でもすぐ「それじゃ、行こうか」と腕を組んでくるんだからずるいんだよなぁ。涼子さんは人生何周したんっだってレベルで余裕がある人なので付け入るスキが全くないのだ。俺も年下だけど一応彼氏なのでかっこいいところを見せようと思って、容姿や振る舞いとか工夫するんだけど全然敵わない。例えば初めてヘアセットして行った日も「おっ、髪頑張ったねー。でもまだまだじゃ」といって頭を撫でてぐちゃぐちゃにしたかと思えば、公園のベンチに移動してめちゃくちゃカッコ良くしてくれたり、数え出したらキリが無い。あと、涼子さんは絶対に奢らせてくれない。遊園地のアイスとかお祭りの綿飴とかお金出そうとするんだけど「それ颯太のお金じゃないでしょ、自分で稼いだお金持ってきてくれたら奢られてあげる」と言って軽くあしらわれてしまう。早く高校生になってバイトしてぇ。

歩き出してしばらくすると涼子さんが口を開いた。

「颯太さ、どんどんヘアセット上手くなってるね」

「どこかの誰かさんにぐしゃぐしゃにされたのがトラウマになってるから」

「誰のことだろ。まあいいや、じゃあ颯太はその人に感謝だね」

「なぜ」

「だって私のおかげでうまくなってるわけで」

「自覚あんじゃん、そして罪悪感はないの」

「もう食べちゃった」

「これでも一応彼氏としてのプライドはあるんだよ」

「年下君が無理しなさんな、そのひとつまみのプライドも食べちゃうよ」

「あんまり舐めてると俺も狼になるよ」

「ほー、それは楽しみだ。それなら今夜は私が襲ってやろうか」

「そういうことを堂々と街中で言うなよ...」

...おわかりいただけただろうか、完敗である。これがいつものことなのだから諦めたくもなるわ。

この日のデートは映画。駅前の映画館に入り話題の映画を見た。ちなみに彼女が映画の途中に寝なかったことはほぼない。今日も、絶対に寝ないように釘を刺したにもかかわらず開始十五分で爆睡なのだから呆れる。しかも終わった後に起こしたら

「ねえねえ颯太、今夢で道端でナンパされてたの!すごい怖かった...。現実では絶対守ってよね」

と劇中のヒロインと同じ状況になっているのだからつくづく彼女には敵わないと思い知らされるのであった。

その後昼食をとった後ショッピングモールに移動し彼女の買い物に付き合わされていると気づけば夕方の五時。この時期だとそろそろ暗くなり始める頃だ。ショッピングモールを出発した俺らの足は迷わずある場所へと向かっていた。涼子さんはデートの終わりに必ず公園に行く。理由は大好きな風を浴びるため、またその時間が唯一彼女がおふざけなしで真面目になる時間でもある。ベンチに座るなりいきなりガチなお話が始まる。

「颯太最近部活はどうなの」

「うん、もうずっと三番ショートで固定してもらってるから大丈夫だよ」

「そっか。結果もちゃんと出てるのか」

「一応ね、でも最近はちょっと落ちてきてるかな」

「私がチューすればもっといい結果出る?」

「ちょ、いや、自力で出すよ」

「ちぇっ、チャンスだったのに」

「そんなん外でやるもんじゃ...」

と言いかけると彼女は俺を手で制し話を遮った。

「...風が変わった」

この言葉が彼女から発せられた以上俺はもう何もしゃべれない。なぜかって?彼女が自分の話をし始めるからだ。風向きや季節特有の風に敏感な彼女にはどうやら風ごとに意味合いが違うらしい。おそらく今は南東の風が吹いたんだろう。多分。

「私さ、やっと夢が決まったんだ」

「夢...」

「そう。なんだと思う?」

今の彼女に茶化しはご法度なので正直に答える。

「わからない、たぶん涼子さんが何を言っても驚くと思う」

「うん。私ね、先生になりたいの。自分みたいに道に迷って長いトンネルに入っちゃった生徒を救ってあげたい」

「え、涼子さんが迷い?」

「あれ、気付かなかったの?私の演技力も捨てたもんじゃないわね」

「...」

言葉にならなかった。自分の理想の人間像に最も近い、成績もよくて言葉遣いも大人っぽい、そして色々な人から愛されている涼子さんが長い間悩んでいることがあるなんて...

「それ、俺にも相談してほしいな」

「ふふっ、ありがとう。でも大丈夫よ。きっとまだ颯太にはわからないことだから」

「彼氏にも言えないことなの?」

「え?」

「確かに俺は年下だし頼りないけど、でも...俺、涼子の力になりたいんだ」

「...わかった」

彼女が話し始めた瞬間風が、もっと言えばその場の空気自体が変わったのがわかった。...寒い。北風が十一月の横浜の空気を切り裂いてゆく。

「...実はね、教師になりたいと思ったのは一年以上も前のことなんだ。でもずっと親に反対されていて。この前の三者面談で担任の先生が味方してくれてなんとか親も認めてくれたんだけどそれ以来なんか家の空気が悪くてさ、これじゃ夢を持った私が悪いのかなって...」

「...」

言葉が、綺麗事でしかない短く頼りない無数の言葉が胸に浮かんでは消えてゆく。こんなにも彼女は悩んでいるのに俺は気の利いたことを言ってあげられない。”お前に涼子の彼氏は務まらん”と風に囁かれているような感じがした。

「ごめん、空気重くしちゃったね」

違う。

「颯太に言ってどうなる訳じゃないのに」

違う、そんなことを言わせたかったんじゃない。

「また何かあったら相談させてよ」

違う、気を遣わせたかったんじゃない。気づけば涼子さんの背後を虹色に彩っていた観覧車が滲んできた。

「よし、そろそろ帰ろっか。って、泣いてる?」

「泣いてない」

「でもほら」

「泣いてないよ!」

言葉とは裏腹に涙が止まらない。悔しい。情けない。どんなに外見を取り繕たって、どんなにカッコつけたって所詮俺はガキで頼りない年下くんなんだな。

初めて来た公園じゃないのに今までで一番波音が大きく感じられた。


それから涼子さんの年下扱いは減ったし、相談もしてくれるようになったけど、話を聞いてあげられる実力も資格も無いことに気づいてしまっていたのでなんだかもどかしい気持ちがしばらく続いた。

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