5
――子供の頃の、あの日のことを思い出すんです――
花屋を後にしてからも、ずっと彼女の言葉が頭に浮かんでいた。あれから随分歩いて、時間も過ぎたのに。
「あの日のことを思い出すんです」
口に衝く、ひとりごと。
――あの日――
どことなく芝居掛かって、切実そうな彼女の声。
――あの日――
あの日っていつだ。彼女は何も知らないはずなのに。知っているのは私の方なのに。
歩き疲れて、公園のベンチに腰を下ろした。
初めて来る、知らない公園。雪が積もっていないといっても、冬のことだから、誰もいないし、誰も来ない。俯いて目を閉じた。こんな時ふと思い出すのは、大抵脈絡のないことだ。覚えていなくてもいいような、覚えていても仕方のない、どうでもいいこと。
子供の頃のことだ。
母親がうるさくて。その声に耐えられず。嫌気が差して。晩御飯も食べず。部屋に閉じ籠っていた。何をするでもなく。横になり。天井やテレビを眺めたり。宿題はもう終わっていた。宿題だけは絶対に出そう。今まで通りにやろう。先生は無理をしなくていいと言っていた。でもその時の私は意地になっていた。特別扱いされるのは本当に惨めだった。腫れ物扱いはごめんだった。
突然、乾いた銃声。
少し遅れて悲鳴。
それを皮切りに、たくさんの銃声が巻き起こる。
テレビではギャング映画が流れていた。血で血を洗う殺し合い。数式を解いていくように人が少なくなっていく。まるで引き算や割り算みたいに。
単調なストーリーに、大仰な演出。ただ赤鉛筆で方程式を書いただけのような、くだらなくて、つまらない映画。だから、テレビは付けっぱなしで、天井ばかり眺めるようになっていた。天井の木目の方が面白いくらい。やかましいはずなのに、聞こえてくる音はどこか遠かった。
――分かるか? 一度、手を血で汚しちまったら、一生こびりついて、落とせやしない――
そんな劇中のセリフが、やけにはっきりと聞こえた。
一瞬、自分に言われたような錯覚。思わず顔を起しテレビの方を見る。会食の場面、何処にでもいそうな男と主人公が向かい合っている。何げない会話が続いていく。さっきのセリフもその1つだったのだろう。
自分の手を見た。何だか、手がいつもよりも黒ずんでいるように感じた。錯覚だろうと自分でも思う。だけど何故か、爪の間が気になって、机の照明で手を照らすと、何だか、自分の手じゃないみたいで怖くて、金気臭いような気すらしてきて、その時の私はどうしてか、机から消しゴムを取り出して、それで手の隅々を擦った。階下で手を洗うのが普通だろうけど、その時の私は洗っても落ちないと思ったんだ。水じゃ落ちないんだ。血で洗ったって落とせない。消しゴムじゃなきゃ駄目だ。爪の間が気になって、新しい消しゴムの封を切り、その角で、爪の間を丁寧に擦った。こんなに擦ってるのに、こんなに消しゴムを掛けているのに、手はますます赤くなって、それが許せなくて、更に強く消しゴムで手を擦った。爪の間も、手の甲も、手の平も、指の間も。このままずっと続けていったら、どうなるんだろう。
突然、有機的なにおいが鼻についた。甘ったるく、何かを誘惑しようとしているかのよう。
顔を上げ、辺りを見回すが何もない、誰もいないし、誰も来ない。かさぶたのようなペンキが塗られた遊具や、付け合わせみたいな木々が見えるだけ。
そこで気づく。
これは隣に置いていた花のにおいだ。風がにおいを運んだんだろう。
花に手を伸ばす。大人の手。子供の頃とは、似ても似つかないほど様変わりしている。なのに手はうっすらと赤みを帯びていた。寒さのせいだろう。ただそれだけだ。
また花が香る。肌でも感じられない微風。それを花がにおいで知らせてくれる。何だか花に「風が出てきたね」と話し掛けられたような気がした。お節介な花だ。
花に意思というものはあるんだろうか。
植物は、動物にはない様々な感覚を備えているという。それは、ただ感じているだけなんだろうか。感受性が鋭いなら、それだけで知性なんだろうか。私たちは普段、植物は生き物だという認識が薄い。知性などないと見くびる相手は、想像も付かないほど高度な知性を備えているかもしれない。
子供はどうだろう。
子供だからと、甘く見ている。子供だからと、見下している。昔の自分すら見下している。子供だったからと軽視している。昔の自分を、まるで他人のように考えている。昔にどんな不思議なことがあっても、子供だったからと済ませてしまう。
子供は、気が付いたらこの世にいて、どうやって自分が生まれてきたかもしらない。子供は、この世ではない場所に、限りなく近い存在だ。生まれたばかりなのだから。
子供は永遠に生きる気でいる。それは私たちからすれば、とんでもない考えだ。だけど子供は本気でそう信じている。思い込んでいる間、それは当人にとっては真実そのものだ。だったなら子供は、もっとも神様に近い所にいるのではないだろうか。
子供の頃に抱いた観念や空想は、神様の考えに近いんじゃないか。真理に限りなく近いものなんじゃないか。
自分はいつか死ぬんだと自覚する時、子供はやっと人間になる。そして、神様の外套はいつの間にか消えてしまう。まるでサンタクロースの幻想が、何の前触れもなく消えるように。
だとしたら、あの映画のセリフを聞いたあの日の私は、もう人間だった。丁度、ある事を切っ掛けに、自分もいつか死ぬんだと自覚した頃だった。知ってはいた。人間はいつか死ぬと知識として頭にはあった。でも、それは自覚とは違うもの。
でもまだ半信半疑だったかもしれない。自分もいつかあんな風になる。いや、そんなはずない。
なら、あの日の私は半分神様で、半分人間だった?
世の中に移行期間ほど厄介なことはない。何かが移り変わる、そんなとき、必ず良からぬことが起こるものだ。制度、感情、役目、季節、常識、すべてそうだ。2つのものが交ざるとき、反応が高くなるのは当然のことだ。中途半端や同時進行が物事を狂わせる。
幽霊だって、逢魔が刻に顔をだす。
最近のヨシヤは背伸びしたがっている。少しずつ大人になろうとしている。
私はどうだろう。私は大人だ。でもこのままじゃいけないような気がする。私だって、もっと大人にならなければいけないんじゃないか。
私はベンチから立ち上り、公園を後にした。
早くプレゼントを決めなければいけない。
明日はもう、クリスマスイブだ。
今日と明日の内に、プレゼントを買わなければ。
まだ日は高い。厚着をしているから、少し歩くと暑くなり、息が上がる。
デパートや複合施設、商店街や、専門店。目についた店に手当たりしだい入ってみる。
街を縫うように彷徨う。街は益々クリスマス一色に染まっていた。赤と、白と、緑。
街にはサンタが何人もいる。外にも、建物の中にも、何処にでもいる。
そして、必ず、私の方を向く。私と目が合うと笑顔を返すか、目線を逸らすかする。しばらく歩いて後ろを振り向くと、サンタは私を見ていて、何だか値踏みするような目付きをしている。それが堪らなく気持ち悪い。
サンタが怖かった。
もう、大人なはずなのに。サンタが怖いなんて。子供の頃の気持ちを拂拭できないなんて。そうした気持ちを見透かすように、サンタは慈愛の眼差しを向けてくる。そんな顔で見られても、却って惨めになるだけだ。
お前らなんて、死んでしまえ。何でお前らが生きてるんだ。
歩いても、歩いても、サンタがこっちを見てる。
正面からは笑って、後ろからは値踏みするように。心臓が激しく鼓動する。
――ピコン――ピコン――
えっ?
ピコンピコン?
心臓の音はピコンピコンだったっけ?
違う、違う、違う! そんなわけないドクンドクンだよ、心臓は!
心臓はドクンドクンだろ! ピコンピコンなんて鳴るわけないだろ!
ピコンピコンは心臓じゃない!
ふざけるな! ばかにしやがって!
心臓はドクンドクン! 心臓はドクンドクン!
心臓はドクンドクンだろ!
こめかみが脈打つほど、頭に血が昇る。息が乱れて、動悸がする。辺りを見る。ピコンピコン鳴っていたのは、歩行者用の信号機だった。
青信号の終わりを知らせるメロディー。歩行者を、急げ急げと、急き立てる。
いつの間にか私は大きな十字路にいた。人や車が、たくさん行き交っている。
ここは駅前通り。街で一番大きな駅の、その前を横切る目抜き通り。
少しふらつくほど息が上がっていた。手に持つ花を取り落としそうになる。近くに立つ道路標識の鉄柱に寄り掛かり、息を整える。
少し休もう、そう思い、信号待ちをしながら、喫茶店でもないかと辺りを見回す。
突然、頭上から人間の声が聞こえた。身がすくむほど驚く。心臓はもちろんドクンドクンと鳴っている。速いけど、一定のリズムで、鳴っている。
上を見る。私の後ろに建つビルの壁に、大きな画面が取り付けられていた。近辺の飲食店の広告や、交通安全の啓蒙を、大音量で流していた。こうして正体が分かって聞いてもなお動悸がするほどの大音量だ。車が多く、その他の雑多な音でうるさいとはいえ、大音量がすぎる。
急に画面が切り替わる。
映し出される女のサンタ。何故か太ももと二の腕は丸出しの、長い黒髪をなびかせた、真っ赤な口紅引いた女のサンタ。まるで巨人のようなサンタクロース。それがこちらを見下ろしている。感じのいい笑顔を浮かべながら。気取ってポーズを決めながら。
テレビのコマーシャル。テレビの中のテレビのコマーシャル。
女の傍らにはお洒落なハイテーブル。その上に置かれたテレビ。
テレビの中のテレビにひとりでに電源が入る。
映し出される美しい映像。そして女の声が、辺りをまとめて震わせた。
――最近のピコンピコンはとにかく凄いんです、なにせピコンピコンがピコンピコンもあるんです、だから、ピコンピコンがピコンピコンでピコンピコンしちゃうんです、おまけにピコンピコンが搭載されていて、ピコンピコンなこともできるんです、ほら、こんなにピコンピコンでしょ、本当にこのピコンピコンはピコンピコンなんです、だからこのピコンピコンはピコンピコンです、是非、ピコンピコンしてくださいね――
そして最後に一言。
――私を大きなピコンピコンでピコンピコンしてください――
視界が揺れて薄暗くなっていく。立っていられなくなり、私はその場にうずくまり目を閉じた。辺りの音がたわんで、世界が回っているようで、自分の内側さえも流動しているようで、段々と意識が遠退いていく。
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