3
ドームの中はその名の通り、迷路になっていた。
天井も床も壁もすべて氷でできている。まるで洞窟のように薄暗い。照明が灯っているが光量は弱く、薄暗さを増強しているとしか思えなかった。前が見通せないほど暗い。私たちは慎重に行進を開始した。
右に、左に、を繰り返す。やはり氷でできた建物だからか、迷路の中はやたらと寒く、風の吹く外よりも寒いくらいだ。床を冷気が漂っていた。そんな中を進んでいく。あるいは戻っているのかも。すでに方位も分からなくなっていた。
無味乾燥な迷路をひたすら歩く。歩いても歩いても出口には一向に辿り着かない。BGMの一つもなく、しんとしていて、2人の乾いた足音だけが迷路に響く。
迷路に入ってから、まったく人に会っていない。何だか、落ち着かなくなってくる。本当に出口があるのかと、そんな馬鹿げたことを考えてしまう。もし、入り口と出口を氷で閉ざされてしまったら、という子供のような想像。ずっと左伝いで進むことにする。馬鹿な想像よりもまず、身体が冷えてきた。ヨシヤに風邪など引かせていられない。早くここから出よう。心なしか温度が下がったような気がする。寒さは、頭よりも先に、身体を蝕んでいく。暑さとは反対だ。口から息を吐くと喉が痙攣するようになってきた。自然と早足になる。
単調な風景がつづく。壁伝いに進んでいるから尚更だ。左折するか、直進するか、そのどちらかだけ。
左折、左折、左折。また、左折。
んっ? 今、もしかして同じ所を一周したか? 立ち止まり考える。当然、いくら考えても答えは出ない。もう一度進んでみれば分かることだ。また左伝いで行進を再開する。
左折、左折、左折。
そして、
右折。
どうやら私の勘違いだったようだ。寒くて頭が鈍っているのかもしれない。更に寒さが増しているのか、冷気は私の腰の辺りまで立ち込めていた。ヨシヤがすっぽり冷気に包まれている。急ごう、壁伝いなら確実に出口に辿り着ける。
突然、単調な風景に変化が表れた。壁の天井近くに何かある。近付き見上げると、それは氷のオブジェだった。氷を掘って作られた、サンタのオブジェ。サンタは上半身だけだった。壁に腰が繋がっていて、胸を反らして上体を起こしている。サンタは両手を広げていた。出迎えてくれているのか、それとも誰かを抱き留めようとしているのだろうか。顔にも、目にも表情はない。
虚ろな目。氷でできているから、頭の中まで丸見え、考えていることもすべて筒抜け。
じっと瞳を見ていると、サンタが語り掛けてくるような気がした。
――脚はな、脚を失った子供にプレゼントしてしまったんじゃ――
――起こさないように施術するのは骨じゃった――
――その子供は朝起きて驚いたじゃろうな――
サンタはこちらをじっと見下ろしている。
――脚がなくて何だか寂しい――
――痛くも痒くもないのに――
――なんとなく寂しい――
――脚が欲しい――
――冷たい脚が――
――氷の脚が――
――脚が――
膝ががくがくと震える。手を伸ばして触ると寒さのせいか、感覚がなかった。ズボンのざらざらした手触りがあるだけ。冗談みたいにがくがくと。がくがく、がくがく。やじろべえみたいに左右にゆれる。こんなに震えていては、使い物にならない。使い物にならない?
虚ろな目、その奥の凍った頭の中、大きく広げられた両手。もし、あの両手に抱きすくめられたら。
目を離せない。目の焦点が合わない。視界がぼやけていく。サンタの目の、奥の奥まで見えてしまう。
――生まれてからこの歳になるまで――ずっとプレゼントを送り続けてきた――わしらは神様に呪われとるんだ――ずっと与え続けてきた――与え続けなければならなかった――他のことには見向きもせずに――それだけの人生じゃ――しかし奪ってならないとは一言も言われていない――だったら――だったなら一度くらい誰かから貰っても――ばちは当たらんのじゃないか――神は与えもするし奪いもする――わしらはそうではないかもしれん――ばちが当たるかもしれん――それは分からん――困った時は神頼み――それしかない――信じること――それが肝要じゃ――信じるとは思い込むこと――メリークリスマス――メリークリスマス――今回だけは逆メリークリスマス――わしは信じる――そう決めたんじゃ――メリークリスマスは逆から読んでもメリークリスマスになる――そうじゃろ――下から読んでも上から読んでもメリークリスマス――そうじゃろ――メリークリスマスは見事な回文――そうじゃろ――それだけじゃない――メリークリスマスは左右対称――そうじゃろ――メリークリスマスは点対象でもある――そうじゃろ――逆メリークリスマス――メリークリスマスは魔法の言葉――逆メリークリスマス――祈れ――あんたが祈れ――唱えろ――メリークリスマスは与える方が唱えるものだ――そうじゃろ――祈れ――わしに奪わせるな――あんたが差し出せ――自らプレゼントしろ――あんたの意思で祈れ――唱えろ――差し出せ――プレゼントを――メリークリスマスを――わしに一度でいいからクリスマスを――
まったくの静寂。何も聞こえない。聞こえるとすれば、耳鳴りだけ。静寂が、耳鳴りが、迷路に反響していく、折り重なって遠退いて。
突然、隣から足音が聞こえた。誰だろう。誰かが近付いてくる気配なんてしなかった。まるで、地面から誰かが生えてきたみたいじゃないか。そこのサンタみたいに。
足音のする方を向くと、ヨシヤが歩き出していた。私がずっとサンタを眺めているので痺れを切らしたのだろう。
ヨシヤは薄靄に包まれている。少し離れただけでその姿は見えなくなる。
「あんまり先に行くな。迷うぞ」
「もう迷ってるよ。パパもね」
なるほど、まったくその通りなので、思わず笑みが溢れた。ヨシヤの後を追う。早足で歩いているが、なかなか追い付けない。
足音が反響し、四方から響いてくる。すぐ後ろから誰かが付いてきているような錯覚。本当に誰かいるのでは。私と同じ歩幅、同じ足音。立ち止まり、振り向きたい。でも人は急に止まれない。ましてや氷の上となると尚更だ。慣性の法則。それにヨシヤはどんどん進んでいく。呼び止めようと声を掛ける。
――ヨシヤ――
声も反響していく。反響しながら遠ざかり、かと思うと近付いてくる。声はぶつかって相殺されるわけではなくて、ただ違和感が増していく。まるで自分の声じゃない、誰かの声のよう。
ヨシヤを追う内に開けた場所に出た。そこはやはり暗く、どれくらいの広さかは分からなかった。
――ヨシヤ、どこだ――
声を掛けるが返事はなかった。反響もない。声は跡形もなく消えた。張り詰める静寂。
壁伝いではなく、真っ直ぐ進んでいく。少し先の天井に灯りがある。取り敢えずそこへ行ってみよう。近付いていくと、灯りの真下に何か落ちているのに気づく。小さいものじゃない。
それは氷でできた人形だった。
丁度、子供くらいの大きさ。屈み込みよく見てみると、その人形は、精巧につくられていて、まるで本物の人間のようだった。顔はびっしりと霜に覆われていた。私はそれを手で擦り、取り払った。
生気のない顔。当たり前だ、人形なんだから。虚ろな目。当たり前だ、人形なんだから。息をしていない。当たり前だ、人形なんだから。まったく温かみがない。当たり前だ、人形なんだから。
でも、人形の顔は、ヨシヤの顔そのものだった。
ヨシヤのはずがない。ヨシヤがこんな風になるわけない。抱き起こし揺さぶる。すると本物の人間のように、手足の関節が曲がった。
本物の人間? そんなわけない。ヨシヤなわけない。
あまりの寒さにこうなったとでもいうのか? 何万年凍っていたとしても、こうはならない。そう思っても、人形の顔は見れば見るほど、ヨシヤそのもので、吐き気すらしてきて、いっそこの人形を滅茶苦茶にぶち壊してやろうかと思うものの、取り返しの付かないことになるのではないかと、怖ろしくなり、そんな馬鹿なと気を取り直しても、吐き気と、震えだけはまったく治まらなくて、吐きそうになる度、身体が震えて吐けなくて、吐き気が治まったと思うと、震えが吐き気に変わっていく。
目も鼻も口も、ヨシヤのそれそのもの。親だから分かってしまう。これはヨシヤだ。人形は、手が貼りつきそうなほど冷たかった。気がつくと、涙が溢れていた。それは人形の頬に落ちた。
ヨシヤが溶けてしまう。
そう思ってすぐに涙を手で擦る。すると人形の頭に何かが見えた。水晶玉のような頭に映像が映し出された。
通路を小さな少年がてくてくと歩いている。
ヨシヤだ。
横顔でもはっきり分かる。無事だったんだ。それはそうだ。ヨシヤがこんな人形になってたまるか。映像はヨシヤを斜め上から映している。思わず、ヨシヤと名前を呼んでしまう。届くはずもないのに。ヨシヤはそのまま歩いていく。顔が見えなくなる。ふいにヨシヤが振り返り、こちらを見上げた。声が届いたのだろうか? ヨシヤはにったりと笑うと、だらしなく舌を出した。ヨシヤがこんな顔をするわけないだろ。怒りが込み上げる。
その時突然、ヨシヤは顔を下げ、先程と同じ方向に向き直ると、後ろ向きに歩きはじめた。往年のポップスターのような華麗で自然な動き。いや、違う。これは逆再生だ。今、地面から、雫がつららに戻っていった。ヨシヤは進んでいく。あるいは戻っていく。しばらくしてヨシヤは、開けた場所に出た。構わずヨシヤは進む。または戻っていく。映像の中が明るくなっていく。照明に近付いているのだろう。
突然、ヨシヤは床に横たわった。それから映像に変化がなくなる。何も起こらない。
痺れを切らしたのに合わせるように、急に映像はヨシヤに寄っていった。ゆっくりとヨシヤにズームしていく。不思議なことにそれに合わせて、人形に色が帯びていった。床が透けて見えるほど透明だったのに、滲むように色が濃くなっていく。映像は、ますますヨシヤに近付いていく。映像の中のヨシヤと、人形の輪郭が重なっていく。
その時、氷の人形が小さく、くしゃみをした。驚いて、思わず目を瞑る。
「ありがとう、パパ」
目の前で声がした。
目を開ける。すると私は腕にヨシヤを抱いていた。人形ではなく、生身のヨシヤを。
「僕としたことが……痛たたた」
ヨシヤは立ち上り、背中に手を回し、霜を払った。
「大丈夫なのか?」
「うん。平気だよ」
「ち、違う」
「えっ?」
「身体はなんともないのか?」
「だから、平気だよ?」
ヨシヤは不思議そうに首を傾げた。
「今までどこにいた?」
「えー? どういうこと?」
ヨシヤにあれこれ何度も尋ねたが、私と離れた記憶はなく、ずっと一緒に歩いていた、とそう繰り返した。
「おかしいな……。僕ずっとパパと一緒だったと思うよ? パパの前で転んだような気がするよ?」
ヨシヤに気を使わせてしまっていた。
「すまん、冗談だよ」
そう言って話を終わらせたが、やり場のない気持ちが残った。
ヨシヤと手を繋ぎ、入ってきた細い通路の所に戻り、開けた場所を壁伝いで進んでいく。
右折、右折、右折。
また、
右折。
この開けた場所は袋小路だったらしい。また、元の狭い通路を進んでいく。
と急にヨシヤは立ち止まり、こちらを振り向いた。ヨシヤはこちらを見上げ、にったりと笑みを作った。
三日月みたいに口角上げてにっこりと。面白がるような悪戯っぽい目。だけど何も言わない。そのまま、じっとこちらを見上げている。
声を掛けようとした瞬間、大音量のクリスマスソングが鳴り響いた。陽気な声に、軽快なリズム。それは迷路で反響し、まるで輪唱のようになる。同じ言葉の繰り返し、まったく同じ間隔で、リズムだけがずれている。
遅いか早いかだけの違いですよ。はあ。
やはり、いやはや、まったく、だから、あなたの父親は……。
ヨシヤの表情は、氷の人形に映っていたヨシヤと、まったく同じだった。まったく、同じなら、これからヨシヤが何をするのか、私はすでに知ってるはずだ。
私を見詰めるヨシヤの顔は笑っているけれど、どこか冷めていた。いつか見たような笑顔。誰かを喜ばせたい、そんな顔。少し作為的な笑顔。
「どうしたんだ、ヨシヤ」
出た声は震えていた。まるで私の声ではないように弱々しく、まるで子供の声のようだった。
突然、
――どうしたんだ、ヨシヤ――
という声が四方から聞こえてきた。
反響を繰り返す私の声。
あれ、おかしいな、声が遅れて聞こえてくるよ。
弱々しく呟いた声の反響ではないように、大きな声。それが徐々に大きくなる。誰かが、迷路の奥の奥で、思い切り叫んでいるような声だ。叫んでいるのに声は震えている。
どうしてそんなに震えているんだろう?
何がそんなに怖いんだろう?
まるでオペラ歌手のような震えよう。決められた歌詞に、決められた旋律で、だけど鬼気迫る歌声。
明日死ぬんです私、気が付いたら今日が最後の日でした、まったく、迂闊でした、そして、これが私の本当のリズムなんです、というような。そんな調子で歌いつづけている。叫ぶように歌って、歌うように叫んでいる。
もう1人の私が叫んでいる。
あり得たかもしれない、もう1人の私。
私はあるいは、女であったかも。
あるいは、オペラ歌手であったかも。
裏の世界の私。
生涯独身で、歌に生きて。
すべてを歌に捧げて。
歌以外をすべて蔑ろにして。
ふと気が付くと、人生は終わりみたいで。
そして、手元には歌しか残らなかった。
そんなとき、何もせずになんていられない。
歌うしか。歌うしか。
自分のことだけ考えなくちゃ、もう死ぬんだもの。
自分のことだけ考えて、歌わなくちゃ。
そんなとき、ふと頭をよぎる、いつかの記憶。
空気が揺らめく夏のこと、遠くに見える逃げ水を追いながら歩いていると、足元で乾いた音、見るとそれは蝉で、私に踏み潰されて虫の息、鳴き声一つ上げてそれっきり、顔を上げると逃げ水は消えていて、再び下を向くと、そこには何もいなくて、いつの間にかほんの小さな水溜まりがあって、こんなにも暑いのに、しばらく雨は降っていないのに、そこには私の顔が映っていて、私を見ていた、不思議そうな顔で、風に静かに揺れながら私を見上げている、私は顔には自信がない、でもそのときの私の顔は綺麗だった、震えるくらい美しかった、鏡よ、鏡、この世で一番美しいのは誰、私は頭の中でそう呟いた、そうしたら、私よ、貴女じゃなくて、私、水面に映る私は唇をそういう風に動かした、声はしない、でも不思議と分かってしまった、そして何故か、ここから先の記憶が途切れている、このあと何があったのか思い出せない、そして、これより前に私が何をしていたのかも思い出せない、この記憶だけ何故か独立していて、この記憶の中の私は、逃げ水を追いながら生まれて、水面に映る自分に声を掛けられて消えてしまう。
私はただ歌いたいのに。何も考えずに歌いたいのに。
こんなにも寒いのに、思い出すのは、何故か、夏の記憶。
蝉の死骸の鳴き声が頭から離れない。死骸なのに、鳴いている。逃げ水が追ってくる。逃げ水なのに、追ってくる。
そして、水面に映る私がこちらをじっと見ている。ずっと語り掛けてくる、私は何も言っていないのに。
でも何を言っているかは聞きとれない。
私の虚像なのに、私より雄弁に、私より流暢に、私より美しく、ずっと何かを囁いてくる。
だから、私は叫び声を上げる。声を掻き消そうと。
すると声はそれに合わせて語気を強める。大声で叫ぶほど、囁きは大きくなっていく。声は消えない。消せない。
反対にそっと耳を澄ます。すると声はたちまち消える。
声は消せないし、何を言っているか分からない。
聞こえる、理解できない、その中間の音量で声は喋る。そっと囁いて、大胆に叫ぶ。
分からない。分からない。分かることは分かるし、分からないことは分からない、それは当たり前のこと。
叫び声を上げるもう1人の私を、私なら救えるような気がした。そして彼女なら私を救ってくれるような気がした。
でも、どんなに迷路を進んでも、そこへは辿り着けない。
もう1人の自分には決して会えない。
もし、会ってしまったなら、おそらくどちらも消えてしまう。
虹が消えるように、逃げ水が消えるように、蜃気楼が消えるように、音もなく、いつの間にか。
だから、この妄想もたちまち消える。
あり得ない記憶はすぐさま消える。
もう1人の自分には、幻想の中でも長くは会っていられない。
もう忘れてしまった。
ヨシヤがこちらを見上げている。もったいぶるような悪戯っ子の顔。どこか懐かしい顔。いつか見たようなおぼろ気な印象。
ヨシヤはふいに唇を突き出した。まるで、ひょっとこみたいだ。
そして、大きく口を開けて舌を垂らした。お医者にとっては理想の大口。喉の奥まで見える。喉の腫れはなし。
ヨシヤの舌は真っ青になっていた。
一瞬、どきりとする、がすぐに思い至る。
「ブルーハワイか」
「ピンポーン。正解」
ヨシヤは嬉しそうに笑う。
「すごいよね。まるでオバケみたい」
ヨシヤは舌を突き出して、自分の舌を見ようとする。でも舌が短いのか、どうやっても見えないようだ。目を剥いて寄り目で、舌を突き出した姿は、多分、ひょっとこも真っ青に違いない。それくらいおかしくて、愛らしかった。
「写真撮ってやるよ」
私は懐から携帯を取り出した。
「なるほど」
とヨシヤ。
携帯を向けるとヨシヤは律儀にピースを作って、それから舌を出した。
――ピピ――
控えめな音が鳴り、少しびっくりするほど強くフラッシュが焚かれた。
2人で写真を見る。
思わず私は吹き出す。ヨシヤも大声で笑い出した。
ヨシヤの笑い声が反響していく。まるで大勢が笑っているみたいだ。
それにしても撮った写真は、驚くほど綺麗に撮れていた。思えばこの携帯に買い替えてから、カメラを使ったのは今さっきが初めてだ。
最近の携帯のカメラはすごいな、思わず頭の中でそう呟いてしまう。ヨシヤの被った帽子の先の白いポンポンのふわふわも、マフラーの毛羽立ちも、くっきりはっきり映っている。
本当に現実を切り取ったみたいだ。
その時、後ろから視線を感じた。
ヨシヤは相変わらず、うふふ、あははと笑っていた。
後ろを振り向くと、そこにはサンタがいた。氷で彫られたサンタクロース。やはり下半身はない。さっき見たのとは違い、顔に笑みが貼り付いていた。楽しそうに笑っている。顎をさすり、お腹に手を当てている。幸せです。下半身はないけれど、幸せです。そんな顔。さっきここを通った時は気が付かなかった。こんなに目立って、ああもあからさまなのに。
「はぁー」
笑い疲れたのか、ヨシヤは溜め息を吐き出した。そして、一言、
「人生で一番笑ったかも」
大袈裟なと言い掛け、考える。私が人生で一番笑ったのは、いつだったろう。思い出せない。取っ掛かりすらないくらい。
一番面白かったこと、一番楽しかったこと、それすら忘れてしまうなんて。そう思うと少し悲しかった。
「ほら!」
私は再び、画像をヨシヤに見せた。
「あはは! もうやめてぇー!」
しばらくの間、迷路には楽しそうな笑い声が響き続けた。
迷いながら迷路を歩く。でも迷わず前進していく。あるいは左折していく。
代わり映えしない風景。たまに聞こえるヨシヤの思い出し笑い。
左折、左折、左折。
そして、
左折。
むっ?
今、同じ所を一周しなかったか?
また、同じ様にすすむ。
左折、左折、左折。
そして、
右折。
どうやら私の思い過ごしのようだ。
進む内、靄がだんだんと晴れていった。寒さも少し和らいだような気がする。
出口が近いのかもしれない。多分、ユミコは待ちくたびれているだろう。
その時、僅かに明るさを感じた。前方の、左の角から光は来ているらしい。その角を左折する。すると通路は長い直線になり、遠くの方に、まるで太陽のような光が見えた。
思わず、助かったと口にしそうになり、可笑しくて笑みが溢れた。
ヨシヤは目を閉じながら歩いていた。眩しくて目を開けていられないのだろう。手をしっかりと繋ぎ直し、進む。
ふと後ろを振り向く、2人の影が夕方のそれのように長く伸びていた。ヨシヤの影はまるで巨人の影のよう。私の影の上半身の大半は、迷路の深い暗闇と繋がったままだった。
その時、手に甲に冷気を感じた。ヨシヤと繋いだ手とは反対の方だ。なんのことはない。ただ壁に近付きすぎただけだった。後ろを見ながら歩けば、真っ直ぐ歩けないのは当然だ。前を見る。出口はもう目の前だ。眩い光が私たちを包み込む。ようやくのゴール。
「やっと出られたな」
薄目を開けながら私は言った。目が痛んで、薄目すら長く開けていられない。
「楽しかったね」
ヨシヤも薄目でこちらを見上げて言った。そして何かを思い出したように、
「あっ」
と声を上げ、続けて、
「迷宮解明~」
と言い、満足そうに笑みを浮かべた。
「あっ、いたいた」
と横合いから声が聞こえてきた。ユミコだった。
「ここは何? 氷のモスク?」
ユミコはドームを見上げた。
「ああ、それに近いかも、方位は滅茶苦茶だけど」
「本当に?」
「冗談、ただの迷路だよ」
「ただの迷路じゃないよ、氷の迷路だよ」
とヨシヤが訂正する。
「どうしたの? 目が痛いの?」
ヨシヤは、まだ目が光に慣れないのか、時折、目を閉じたり擦ったりしていた。ユミコは屈み込み、ヨシヤの顔を覗き込んだ。
「うん。ママが輝いて見える」
「えっ?」
ユミコは絡繰り人形のように口をぱかっと開けた。続けて嬉しそうな顔で、
「えっ? 本当に?」
「うん。眩しくて見てられない」
「まぁ!」
ユミコは立ち上がり、くるりと回転して遠くを眺めた。
そんなユミコを、ヨシヤは薄目で見ていた。
「すごいわ、あのエステ! 冷たいばっかりで、打撲には良さそうぐらいにしか思ってなかったのに」
多分、エステの方を眺めているのだろうか。ここからじゃどうやっても見えないと思うが、それは関係ないらしい。
迷路から出た時はあんなに眩しかったのに、辺りは夕焼けで染まっていた。
「ねぇ、もう一回、行ってきていい?」
夕日を背にしたユミコは無邪気な笑顔を浮かべていて、とびきり綺麗だった。
「いいよ」
「よし!」
ユミコは夕日に向かって早足で歩いていった。今にもスキップでも始めそうな感じだ。
ユミコがあんまり嬉しそうなので、本当のことは言えなかった。思い込みでも、エステの効果があろうとなかろうと、ユミコが笑っていてくれたら、それでいいんじゃないかと思ってしまう。本当のことを黙っている罪悪感も、ユミコのあのとびきりの笑顔を向けられたら消えてしまう。
「ヨシヤ」
「何? パパ?」
「温かいものでも食べて帰ろうな」
「うん。今、一番したいこと」
「だな」
「うん」
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