きみのバスケットの中の、トマトで濡れたサンドウィッチの内側を、ぼくに見せてよ
1
翌朝、目が覚め、トイレに行こうと廊下を歩いていると、どこからか異音が聞こえてきた。音のする方へ向かう。
洗面所で何かが唸っている。
覗き込むと、妻ががらがらと音を立てうがいをしていた。まるで鶏みたいな音をさせている。
妻の手には黄色いコップ。洗面台には、黄色い毛巻きに、黄色い歯ブラシ、黄色いドライヤー。
「本当に黄色いものが好きだね」
私は妻に声を掛けた。妻は音を立てずに上品に水を吐き出して、まるで女優のように、優雅にこちらに振り返った。
「あれかもね、私のおばあちゃんの義理のおじは関西人だったらしいから、その血が流れてるのかもね」
「そうなんだ、……ん? でもそれって……、義理なら血は繋がってないんじゃないか?」
「ぶっ殺したる! えへん虫をぶっ殺したる! イチコロやで! もののあわれの世界やで!」
妻は誤魔化すようにそう言うと、うがいを再開した。
関西の人への偏見が凄まじい。関西の人は多分、そんなこと言わない。
後ろから小さな気配。
扉の陰からヨシヤが覗いていた。ヨシヤは真顔で佇んでいる。余程驚いたのだろうか。
私はヨシヤに近付き、腰を落として、
「ごめんな、ヨシヤ、びっくりしたろう?」
と言った。するとヨシヤは、
「別に、ママだなーって思うだけ」
けろりとしたものだった。
確かに私も、妻だなーと思っただけだった、それもどうなのだろうと思わないでもなかったが、思わないでもないことはすぐ忘れてしまう。
「で、どうしたヨシヤ?」
「ううん、ただママの大声が聞こえたから、何か楽しいことかなって思って」
「……」
「トイレのついでだよ」
「ほんなら、はよ行きや」
うがいを終えて妻は言った。
ヨシヤは、
「へい、お待ち!」
と応じて、駆けていった。
「そんで、あんさんは何用よ?」
「別に用はないけど、俺もトイレだよ。そしたら鶏の声がしたもんだから」
「うわ、あかんわ、それ、鶏て。そんで、そろいもそろって、あっしの相手は厠の片手間で充分と、そう言うのかえ、これはあれや、ええと、なんやったっけ……、そうや、もののあわれの世界やがな」
「そうじゃないさ」
「えぇー普通に返されてもなあ」
「分かった分かった……。そんなんちゃいます……」
「ははは、照れすぎよ」
「うるさいな」
「まぁ。でも、おおきに。そろそろヨシヤ終わったんじゃない。はよ、おいきなはれ」
「まいどおおきに、変わらずのご愛顧を」
「こちらこそ、変わらずのご愛顧を。あそうだ、トイレットペーパーなくなってたら、交換してよ?」
妻の言葉に、言外の気配を察知。
「分かった分かった。中途半端はしないよ」
「よかろう」
洗面所を後にして、トイレの扉に近づくと、中からヨシヤが声を掛けてきた。
「大丈夫か、腹でも壊したか」
「助かったよパパ、トイレットペーパーがないんだよ」
「ああ、すまん、多分パパかもしれない」
「いや、犯人はママだよ。さっき入ってたから」
「ま、大目にみてやれ、ほら」
私は扉を少しだけ開けて、ヨシヤへトイレットペーパーを手渡した。
「ありがとう、パパ」
ありふれた日常。うちの家族はまぁだいたいこんな感じだ。
全員集まれば、はしゃいで。
誰か1人が悪くても、他の誰かが、その誰かをかばってあげて。
誰か1人が怒られたなら、他の誰かが、その誰かを慰めてあげて。
どこの家庭もそんなものだろう。そして、学校も、会社も、社会も、世の中は、だいたいが、そんな感じじゃないだろうか。
他の誰かの失敗で、誰かが困る。その誰かに、他の誰かが、手を差し伸べて。そんな風にして世界は廻る。誰かは、誰か。誰でもなりうる、誰か。立場もぐるぐる廻る。昨日の敵は今日の友。昨日の友は今日の仇。こんなに堂々巡りなら、本当は、敵も仇もないのかもしれない。
平和な国の、平和ボケした人間の、平和な考え。でもときに惚けた人間が、真理を口にすることだってあるかもしれない。
平和を感じなきゃ平和を語れない。平和を失わなきゃ平和を語れない。どちらも本当のこと。
幸福な境遇でも、不幸な境遇でも関係ない。平和になれないわけない。幸せになれないわけない。短い人生でも、人とは違う人生でも、幸せになれると信じたい。
そして多分、平和を語らなきゃ平和にはなれないんだ。平和について考えないと平和になれない。平和に思いを馳せなければ、平和にはなれない。
考えてみれば、今の世界は、昔の人が願った世界なのだから。昔の人が思い描いた未来。
私たちは未来の世界に生きている。
平和の願いで作られた便利な世界。
夢追い人は昔より多いのだろうか。
人が増えているのだから、増えてると願いたい。そう、信じたい。
そんな、平和ボケしたことを考えてしまう今日この頃。
明日はどうだろう? それは分からない。
というような、もの思い。
あれこれ考えたところで、吹けば飛ぶようにすぐさま忘れてしまう、軽くて薄い連想の繰り返し。
という風に、水を差してしまった後悔。
しかし実際に、これらは記憶になってしまう。
一連の流れ、事の顛末、それらはすぐさま過去へ。
過ぎ去っては薄まって、薄まっては抜け落ちて、抜け落ちては消えていく。そして、消え去ったら、そこでおしまい。
ふと洗面所を覗いてから、平和と未来に思いを馳せるまで。
何げない日常の光景。
ありふれたエピソード。
歯を磨くよりは特別。
誰かと死別するよりは特別じゃない。
特別。
他とは違うということ。
自分にとって価値のあるもの。
滅多にないこと。
特別じゃない記憶は短命。ネズミみたいに。身軽で、軽い身体。
特別な記憶は長生き。亀のように。重くて、動くのも一苦労。
どんな動物もやがて死んでいく
何もかも消えていく。
紅茶が冷めていくように。ポットカバーを被せても、夏に淹れたとしても、やがて紅茶は必ず冷めてしまう。
それでも漠然とした印象は残るのだろうか。
幸せの、微かな残り香のようなもの。
誰かへの思いというものは、記憶だけを拠り所にしているのだろうか。もしそうだとしたら、少しだけ寂しいような気がする。だから人は、形に残すのだろうか。歌や文字や絵に。記憶だけじゃあ、あまりに頼りなくて。
幸せの欠片くらいは残っていてほしい。残っていると信じたい。
記憶なんかなくても、誰かへの思いはなくならない、と思いたい。
何げない幸せの欠片が、心に蓄積されていると、それらが誰かへの思いになっていると信じたい。
忘れても思いは消えない、と。誰かへの愛や恩、感謝や、大切だという気持ち。たとえ忘れても、せめて感じていたい。
それを証明してくれそうなこと。
憎悪は消えないということ。
恨みや憎しみは消えないということ。
誰かの恨み、自分自身の恨み。それらは溶け合って、一つの悪夢になる。たくさんの気持ちが溶け合った夢。悪夢。怖い夢。
思い出して怖くなり、思い出せなくて怖くなり。
悪夢は終わらない。20数年前の悪夢の続きを夢にみる。誰かの恐怖が、いつの間にか、自分の恐怖になっている。
誰かの悪夢が、他の誰かの悪夢に成り代わる。初めからいたみたいに。いるのが当然みたいに。悪夢は深く根差したものを誇示して、ずっとここにいたと主張する。貴方と私は昔からの付き合いだ、根は深いぞ、と忠告をする。
悪夢は欠片になっても消えない。引き抜かれた雑草が、僅かな根から、再び生えてくるように。悪夢は植物のようなもの。動物の身体は替えが効かないものばかり。反面、植物は、身体全体に様々な役割が分散している。一部分を千切れ食べられようと、他の部分が替わりを務める。悪夢は一つですべてで、すべてで一つ。
幸せで幸せを証明すること。それではトートロジーになってしまう。幸せは幸せである。
悪夢になら、幸せを証明することができるのだろうか?
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