『無名の大傑作』
鯉昇
第1話
1
その大きな絵を一目見て、女はそれが持つ生生しい魅力に自分が憑りつかれたのを感じた。それは身体中に電流が走ったとか、あるいは身体が光に包まれたとか天からの声を聴いたとか、そう言った類の陳腐な事ではなかった。静かに深く、心の内側にじんわりと沁み込むように――最も大切な秘所に侵入し、犯すように――女を魅了したのだ。実際、女はその絵に自分の身を任せたい感覚に捕らわれた。下腹部から股間に向けて得も言われぬ愉楽が下り、そこから身体中に熱が広がっていくのを感じていた。
見る者の感覚を冒す絵なんだわ……女はその危険で背徳的な考えと、微かに香ってくる自分自身の淫靡な匂いに脳が痺れて蕩けそうだった。
「お気に召されたようですね、マリカ嬢」と白髪頭の画商が、大作を食い入るように見つめる令嬢に静かに話しかけた。令嬢の、若くして亡くなった父の代から付き合いのある、馴染みの画商なのだ。
「えぇ、とっても。でも、見た事のない筆使い……それに、銘が書き込まれていないみたいだけど……ねぇ、いったいどんな方がお描きになったのかしら?」
頬を仄かに紅潮させた令嬢は、絵から目を離せないままに画商にそう尋ねた。
「名もない絵描きですよ。この絵は十九世紀末のパリで描かれたらしいのですが……実は興味深い、ある曰く付きでしてね」と画商が茶目っ気たっぷりにウィンクをし、もったいぶるように声を潜める。その様はまるで、怪談話で孫娘を怖がらせようとする好々爺のようだ――実際この画商は令嬢にとって、気の置けない祖父のようなものだった。
「いったいどんなお話ですの? 面白いお話でしたら言い値で買いますわ」
令嬢は怯む様子もなく、目を輝かせるようにそう言った。彼女はそういった類の話が大好きなのだ。画商はしたり顔でその絵の来歴を話し始める。とても奇妙で不気味で、妖しい色彩を帯びたお話を。
2
彼は失望していました。自分自身の才能と作品を認めてくれない世間の人々や画商に。そして自分よりも才能も技術も無いのに、生まれが良くて見てくれも良いだけの男が売れっ子画家になっていく事に。
なんだって誰も俺を認めてくれないんだ? 誰よりも才能も技術もあるのに。あの男の描く絵など、てんで話にならない……あいつは口先ばかり上手いだけじゃあないか? 絵なんか描けず、達者なのは口ばかりじゃあないか? いっそのこと政治家にでもなってしまえば良かろうに――彼はいつもそんな事ばかりを酒場で口説いた女に愚痴っては酒を仰ぎ、その鬱憤を紛らわせようとしていました。ですがそれでも彼の不満は溜まっていく一方で、遂に彼は阿片窟に入り浸るようになりました。
むせ返るような阿片の匂いに酔いしれながらも、彼は自分の絵が名高い数々の画家達の絵の隣に、堂々と並ぶのを夢見ていました。ですが彼自身も彼の作品も、なかなか日の目を見る事はありませんでした。彼がそうやって酒と阿片に溺れている間に、あの口の上手い男の方はどんどん売れていきました。
自暴自棄。彼はまさに自暴自棄に陥りました。金は無くツケだけが溜まり、馴染みの女からは愛想をつかされて逃げられました。死ぬ事すら考えました。ピストルを口に咥えて、引き金を引こうか引くまいか考えあぐねていました。
あぁ……ここでこうして死んでしまえば、いっその事楽なんだろうな。何も考えず、悩まずに済むんだからな。だが、口惜しいのは俺の絵だ。まるで一枚だって売れないじゃあないか……せめて一枚だけでも、死ぬ前に売れやしないだろうか。
彼はいつもそう考えて引き金を引くのを躊躇いました。せめて一枚だけでも、誰かが買ってくれはしないかと。そう思い始めると、自殺するという考えも彼の頭の中から消えてしまうのでした。
伯爵と名乗る男が彼の前に現れたのは、そんな時でした。色とりどりの気色の悪い柄の服を着た、青白い肌の不気味な男でした。名を名乗らず、ただ〝伯爵〟とだけ名乗りました。
伯爵はやおら無造作に大金を彼に差し出しました。それが手付金だったのです。伯爵は彼にこう言いました。
「君は地獄というものを知っているかね? 無論知っているだろう。だが、見た事はあるかね? そこがどんな様か、君には想像できるかね? なぁに話しは簡単さ。君に〝地獄〟を描いて欲しいんだ。誰も見た事のない程に写実的に、そして誰も想像した事がない程に恐ろしくおぞましくだ……できるかね? もし私の注文通りに満足できるものを描く事ができれば、その絵と共にここにある君の絵を全て買おう。君の言い値で構わん。どうかね、やってみるかね?」
画家は伯爵の申し出に驚きました。戸惑いと疑念が少しばかり頭をもたげましたが、彼はそれを脇に追いやって伯爵の話に飛びつきました。上手くすれば、一枚どころか全部の絵を買ってくれるというのですから。
伯爵は画家にまたこうも言いました。
「ひと月で描いてくれ。ひと月後にまたやってくる。それまでに描いてくれたまえ。もし描けなければ、その手付金は返してくれよ。もし一フランでも不足していれば、君の大切なものを代わりに貰って行く。良いね?」
その言葉に画家は少し不安になりました。手付金の額が、溜まったツケを払って絵の具や画材を買うのに丁度良かったからです。ですが彼は問題ないと答えて了承しました。自分の腕には絶対の自信があったからです。伯爵の言葉に奇妙な不安感はあったものの、画家には大金が必要だったのです。
伯爵が帰った後、画家はすぐに大金を持ってツケをすっかり支払い、絵の具と画材を購入しました。そして寝食を忘れて新しい作品の制作に取り掛かりました。一週間程で下書きを終え、翌週にはキャンバスに色を入れ始めました。
伯爵の言っていた、『誰も見た事のない程に写実的に、そして誰も想像した事がない程に恐ろしくおぞましく』という注文にはさすがに頭を悩ませましたが、画家は色を入れ始めてから二週間程で一応完成させました。それから約束の日までの一週間は、多少の手直しで過ぎていきました。
約束の日の前日。画家は最後の手直しを終え、完成した作品に満足しました。キャンバスには画家が想像できる限りの、恐ろしくおどろおどろしい〝地獄〟が描かれていました。
これにはあの伯爵もきっと気に入るはず。画家はそう思い、疲れ切ったその身体をベッドに横たえました。日はまだずいぶんと高かったのですが、ひと眠りする事にしたのです。この一か月間というもの、画家は満足に睡眠をとっていなかったからです。
3
ぐっすり眠りこんでしまった画家の身体を、伯爵が揺すって起こしました。すっかり日は高く昇り、どうやら丸一日寝込んでしまっていたようでした。画家は寝ぼけた顔に冷水を浴びせかけ、タオルで拭きながら伯爵に謝りました。みっともない所を見せてしまったからです。伯爵はたいして気にするでもなく、さっそく完成した絵を見せて欲しいと言いました。画家は得意げな顔で、完成した大きな絵にかけてあった亜麻布を取りました。画家にとっては渾身の力作だったのです。自信満々の顔で伯爵の反応を見ました。絶対に満足するはずだと思っていたのですから。
ですが、実際、伯爵はまったく満足いった顔にはならなかったのです。それどころか、まったく気に食わない様子だったのです。
「いったいこれは何かね?」と伯爵が鋭く問いました。その声には怒気を孕んでいました。
「君の想像する地獄というのは、こんなにも灼熱も酷寒も感じられない、怨嗟も狂気の叫びも聞こえてこないようなものなのかね? これでは行楽地の温泉のようにまるで生ぬるいではないかね? 見たまえここに君が描いたこの女の表情。これが永遠の責め苦を受ける女の表情かね? これではパリやロンドンの娼館にいる、被虐性愛者の顔ではないかね? こっちの炎に責め苛まされる男はどうだ? これが業火に焼かれる男の顔かね? まるで日向ぼっこ中に居眠りしてしまった顔ではないかね? 悪魔の方はどうだ? なんだねこれは? 背筋を凍り付かせる程の、恐怖もおぞましさもまるで無いではないか。誰が風刺新聞の挿絵を描けと言ったのかね? これではサルの体に猫の頭を取って付けただけではないかね? 君は私をからかっているのかね? 誰が滑稽な絵を描けと言った? 私の注文をまったく聞いていなかったのかね?」
伯爵の批評はその後も延々と続き、苛烈で容赦なく――まるで短剣のように画家の心とプライドを切り裂いていきました。
画家は見る見るうちに狼狽えました。顔は青ざめ、大粒の汗を血のように吹き出して落としました。ガタガタと体が震え、上下の歯がかち合わず、カタカタと音を立てていました。画家は自分でも気付かぬ間に両膝を床について、祈るように両手を胸の前で組み合わせていました。それ程までに伯爵の剣幕が恐ろしかったのです。まさしく初めて彼が見た、〝悪魔〟そのものに思えたのです。
ですが不思議な事に、画家は奇妙な満足感を得てもいました。実は画家は、それまで誰からも面と向かって自分の作品を批評された事がなかったのです。いえ、正確に言えば、自分の作品に対する批評を、面と向かって聞いたことがなかったのです。
彼が幼い時に描いた拙い絵を彼の両親が褒めて以来、彼は自分には才能があると思い込んでいました。実際彼には確かに才能はあり、学校でも先生や友人達からはもてはやされました。
ただそれだけで、彼は増長してしまっていたのです。学校を出て本格的に絵描きになっても、彼は人からの批評には耳を塞ぎ続けていたのです。自分を褒める言葉にしか耳を貸さなかったのです。それが理由で、人々も画商も彼に対して良い感情も評価も持たなくなったのです。
人々も画商も、実際にはこの画家の事を正しく評価していたのです。間違った評価をしていたのは、実は画家自身だったのです。
一通りの激烈な批評がようやく終わり、画家は内心自分の甘さ、未熟さ、傲慢さに気付いて恥じ入りました。そしてこの伯爵の自分の作品に対する真摯で真剣な批評に関心もしていたのです。伯爵の言葉は厳しくも的確で、実に示唆に富むものだったからです。ですから彼は、伯爵と交わした約束の事をすっかり忘れていたのです。
「こんな絵では到底買えんな。約束した通り、先に渡した手付金は返してもらうぞ」
画家はその言葉で一気に血の気が引きました。手付金は全て、とっくに使い切ってしまったからです。一フランだって残っていなかったのです。画家は誠心誠意、伯爵に事情を説明しました。ツケを支払い、画材を買う為に手付金をすべて使ってしまった事をです。そして伯爵に、もう一度改めて絵を描かせてほしいと頼み込んだのです。
伯爵は最初、首を縦には振りませんでした。ですが画家の必死の頼みに、遂に根負けしました。
「良いだろう、もうひと月だけやろう。ひと月後にまたここに来る。良いか? これが最後だぞ。もうひと月だけ待ってやる……だが約束は約束だ。お前の大切なものを一つ担保として持って行く」
そう言い終わるが早いか、伯爵はなんと画家の左耳に手を当て、そのまま引き千切ったのです。画家は痛みで叫びを上げ、突然の事に頭の中は真っ白になりました。
「安心しろ、もう止血はした。血はもう出ていない。ひと月後、私がお前の描く絵を気に入れば、この耳も付けて治してやる。お前の絵も全て買い取ってやろう。どうだ? できるな?」
画家はあまりの恐ろしさに声が出ず、引き千切られた耳があった個所を押さえながら、ウンウンと懸命に首を縦に振りました。伯爵はその画家の様子に満足し、画家から引き千切った左耳を丁寧にハンカチに包んでポケットにしまいました。そして身を翻して、画家の目の前からふっと消えてしまったのです。
画家は恐怖に打ち震えながら、自分の耳があった個所を押さえていた手を見ました。確かに血はすでに止まっているようでした。
あの男はいったい何者なのだろうか? 画家の頭の中にその疑問が湧き上がって参りました。本物の悪魔なのではないだろうか? そう考えたら恐ろしくなりました。なんだってこんな大変な依頼を引き受けてしまったのだろうかと。ですが新しい約束の日まではひと月しかありません。画家は気を取り直し、新しい絵を描き直すしかありませんでした。それが容易ではない事は、画家にも分かっていました。伯爵の求めるもの、満足できる作品を描くためにはどうしたらいいのか? 画家はその日からキャンバスに向かっては苦悶しました。見るも恐ろしい地獄の風景も、その地獄で永遠の責め苦を受ける人々の表情も、納得のいく下書きすら描けなかったのですから。
「あぁ、いったいどうすれば良いのだ? 悪魔の表情は、あの伯爵の、あの時の恐ろしい剣幕を参考にしてみたのだが、地獄というものがまるで解らぬ。責め苦に苛まれる人々の表情がまったく解らぬ……いったいどうすれば良いのだ?」
画家は悩み苦しみ、そうしてあっという間に二週間が過ぎてしまったのです。
4
その日、画家はいつものようにキャンバスの前で苦悶していました。どうしても手が動かず、いまだに下書きすら完成していませんでした。彼は憔悴し切った顔で、テーブルの上の新聞をチラッと見ました。そして、そこに書かれていたある記事に心を奪われたのです。
そこには去る八月三十一日と九月八日に――恐らくは同一犯によって――ロンドンで二人の中年の女性が残忍な手口で殺害され、一人は内臓の一部が切り取られて持ち去られた、という衝撃的な内容の事が書かれていました。そうです。何を隠そう十九世紀末にロンドンを震撼させた、例の切り裂き魔の事件だったのです。
画家は新聞を手に取り、一心不乱にその記事を読み込みました。その記事には、如何にして被害者の女性二人が惨殺されたのかが詳しく書かれていたからです。
これだ、と画家は直感しました。残酷に殺されたこの二人の死の瞬間の顔は、きっと地獄の責め苦を受ける人々のように、恐怖や苦痛に歪んでいたに違いない。彼はそう思ったのです。どうにかしてその顔を一目見れないかと、そう思ったのです。そしてもしできれば、その死に行く様を観察できやしないかと。
それは恐ろしい考えでした。画家はハッとなって、すぐにその考えを打ち消しました。そんな事を考えるなんてどうかしている。彼はそう思ってキャンバスに再び向かいました。
「そんな事を考えるなんて、本当にどうかしている」
画家は殆どまっさらなキャンバスを見つめながら、しかしずっとその事について考えていました。
もし、このまま絵が描けなかったら、あの伯爵は次には俺から何を持って行くのだろう? そう考え始めたら恐ろしくもなりました。『大切なものを代わりに貰って行く』伯爵はそう言っていました。画家は伯爵が、自分の命を奪っていくのではないかと疑いました。すでに左耳を取っていったのです。ありえない話ではありません。その考えに憑りつかれ始めると、画家はどうすれば良いのか解らなくなっていきました。
彼は白いキャンバスをジッとしばらく見つめ、やがて決心しました。おもむろに机の引き出しからピストルと、台所から大きめの包丁を取り出しました。
約束の日まで、もう二週間もありません。画家は誰も見た事のないような、本当の〝地獄〟を描くために、実際にその目で見る事にしたのです。
5
老いた画商の話をジッと静かの聞いていたマリカ嬢は、そこでもったいぶるように一息ついた画商に口を挟む。
「彼は殺したの? その絵を描くために、〝地獄〟の情景や人々の苦悶の表情をリアルに肌で感じる為に?」
その問いに画商は不気味にほくそ笑む。すっかり話に夢中になった令嬢の様子に、上手くいったと思ったのだ。もちろん彼が今している話は彼の創作ではないのだが。
「マリカ嬢も〝チェーホフの銃〟というものをご存じでしょう? 物語に出て来た小道具や人物、伏線は必ず回収されなければならない……このお話の場合、まさしくピストルと包丁ですな」
「それじゃあやっぱり……」とマリカ嬢は声を潜めた。好奇心と恐怖心の入り混じった瞳を輝かせ、令嬢は細く繊細な指をひらひらと宙を舞わせ、画商に話の続きをせがんだ。
画商は一つ咳払いをし、調子を整えて話し始めた。
6
画家の筆はその残酷な考えが頭に浮かんだ時よりも、はるかに進んでいました。彼は目の前のキャンバスに、苦痛と恐怖に冒され、涙と血に塗れて慈悲と助けを求める娼婦や乞食の顔をありありと描くことができたのです。
「これだ。これこそが恐怖なんだ。これこそが罪を犯した人間が受けるべき、永劫の責め苦と断罪なんだ。だけどまだ……まだなんだ。何かが足りない。なんだろうか? 恐怖の表情? 違う。助けを懇願する表情? いいや、違う。恐慌、畏怖、禍々しい熱狂、生々しい叫び、血肉に飢え残忍で狡猾な悪魔達……人の肉の焼ける臭い……血や脳漿や髄液、体液、汚物の海に浮かぶ脳や目玉や、臓物の一つ一つ……もっと……もっとだ……そうだ、ここに血や臓器の一部を擦り付けるのはどうだろうか? 精液や女の愛液を混ぜた絵の具を塗ったらどうなるだろうか? そうしたらもっと血と肉が必要だ……火も必要だ……人の肉も罪も燃やし尽くす、容赦ない呵責の熱が……そうだ、あのおんぼろ教会に火を放ったらどうだろうか? あそこには沢山の、汚らわしい乞食どもが寝床を求めて集まってくる……あそこを焼き払ったら、きっとまさしく〝地獄〟の有り様になるに違いない。よし、そうしよう。今晩にも焼き払おう……そうすればまさに、誰も見た事のない程に写実的で、誰も想像した事がない程に恐ろしくおぞましい〝地獄〟が描けるはずだ」
そうです。画家はすでに、悪魔に憑りつかれていたのです。それも自分自身が〝創造した悪魔〟にです。自分自身の脳が生み出した悪魔に、彼はとっくにその魂を売り渡していたのです。
夜が更けました。画家は例のおんぼろ教会に油を撒き、そして火を着けました。渇いた空気と風が、小さな〝誘い火〟をあっという間に〝炎の柱〟にしてしまいました。画家は離れた場所まで逃げ、そしてジッと巨大な松明となったおんぼろ教会を見つめました。中からは叫び声が漏れ聞こえてきました。何十人もの人々の悲痛な合唱は、炎に纏わりつかれた木組みの教会の中で反響し、不思議な事に、彼にはそれが人間の声には聞こえませんでした。それはまるで出航する大型客船の、汽笛のように聞こえました。そしてその汽笛が聞こえる度に、画家はケラケラと笑いだしました。
「まるで死出の旅への出航の合図じゃあないか」と言って、ゲラゲラと大笑いしました。その様は狂気そのものでした。画家は燃え朽ちていくおんぼろ教会の様子を、文字通りその目に焼き付けました。そうして彼は、これでようやく誰も見た事がないような、本物の〝地獄〟を描けると満足したのです。
7
約束の日になりました。画家はすっかり完成した大作を見つめ、その出来栄えに大いに満足していました。これにはさすがのあの伯爵も満足するはずだ。そう思っていました。
果たして伯爵が音も無く画家の目の前に現れました。そして言いました。
「絵を見せてもらおうか? 約束通り、完成しているのだろう?」
画家は得意絶頂の顔で、例の絵を見せました。そして伯爵の表情を注意深く、自信をもって見つめました。
伯爵は例の大作を見て、息を飲みました。その顔には、すっかり感心したような表情が浮かんでいました。
画家はしてやったりと思いました。今回はケチのつけようがあるまい、そう思いました。これほどの絵は、後にも先にも俺しか描けまい……そう思いました。
「なるほど確かに大した出来だ……すっかり感心したよ。人間にここまでの〝地獄〟が描けるとはね。恐れ入ったよ……だが、一つだけ足りないものがあるな。まさしく画竜点睛を欠く、だな」
画家は伯爵のその言葉に息が止まりました。あり得ない、と思いました。彼は自分の作品に欠けているものなど、絶対に無いと思いました。
「バカな! そんな訳があるか! 俺の絵は完璧だ! あんたはただそうやって、くだらないケチをつけたいだけだろうに!」
画家は思わずそう叫んでいました。彼はこの大作のために、またこの一か月間ろくに食事も睡眠もとっていなかったのです。ですからその精神は、すでに極限にまで磨り減っていたのです。
伯爵はその乱暴な言葉使いに怒るでもなく、静かに話し始めます。
「まぁまぁ、そうカッカするなよ。確かにこの絵は素晴らしい。よくぞひと月で仕上げたものだ。実によく、人間の心の奥底にある根源的な恐怖心や猜疑心、苦痛、狂気、絶望、悲嘆、憤怒、自惚れ、嫉妬が描かれている。まさしく〝地獄〟に相応しい、希望も信仰のへったくれもない大作だな。だがなぁ、ここには最も肝心なものが描かれていないんだよ……自分には才能があると過信し、他人を妬んで嘲り、自堕落で臆病な生活をしていた癖に、自身の絵が売れるために、命が救われるために、平気で自分よりも弱い者を嬲り苦しめ殺す……何よりも醜く唾棄すべき汚らわしい悪だ……解るな? それはお前の魂だ」
画家はその言葉に気を失いそうになりました。両脚が震え、立っていられずその場にへたりと座り込みました。伯爵は画家のその様子に気を留めるでもなく話を続けます。
「お前のその薄汚い魂を私がこの絵に描き込んでやろう。文字通りな。そうすれば、この絵はお前が望んだように……いや、お前の望む以上に世界に評価されるだろうよ」
そう言って伯爵が画家に近づきました。画家の頭の中は恐怖に満ち、ガチガチと歯を振るわせて助けを求めました。
「お前は同じように助けを求めた娼婦や乞食に慈悲を与えたのか? お前はあのおんぼろ教会に火を放つ前に、その中にいる四十九人の人間達の事を考えたのか? 彼らがあの赤熱した教会の中で、悶え苦しみ助けを叫んでいる間、お前は何をしていた? ゲラゲラと笑っていたのだろう? どうだ? それでもお前は、自分が死を前にした今この時にも、慈悲を求める言葉が言えるのか?」
画家は言葉を失いました。噴き出した汗と込み上げる涙に顔はぐしゃぐしゃになりました。両手を胸の前で合わせ、罪を償わせて下さいと、そう言おうとして喉を痙攣させ、口をパクパクとさせました。
「残念だ。実に残念だ……いくらでもやり直す事はできたのに……あの時に、あのままずっと寝てしまったからこうなったのだ。あの時に、すぐに起きて描き直せば、こうはならなかっただろうに」
そう言って伯爵は画家の胸に手を当てました。するとその手がズルッと、画家の胸の中に入っていきました。画家は自分の胸の中に入った伯爵の手が、自分の〝何か〟を思い切り掴んでグイッと引っ張るのを感じました。
ズブッ、ズブッ、と〝何か〟が画家の胸から引きずり出されていきます。それはどす黒く虚ろな、画家自身の魂でした。その不気味で汚らわしいものが自分の胸から、ブチブチと音を立てて引き離されるのを見て、画家は断末魔の叫びを上げました。そうして彼は、その魂を伯爵に取られてしまったのでした。
8
部屋はシンと静まり返った。聞こえてくるのは、画商の迫力ある語り口にすっかり興奮して高鳴った、マリカ嬢の心拍と荒く短く、甘い呼吸音だけだった。だがマリカ嬢は、画家の辿った恐ろしい運命、物語の結末に少しだけ疑問を抱いていた。
「それで本当に終わりなの? その画家の魂が描き込まれたのが、本当にこの絵なの?……でも、それってまったくおかしいわ。それにそれで終わりなら、どうしてその話をあなたが知っているの? いったい誰がその話を伝えたの? それにその伯爵、最後に気になる事を言っていたわ……いったいどういう事なの?」
その疑問に、画商はむしろ満足していた。大笑いを一つして、聡明な令嬢の疑問に答える。
「実はこの話にはまだ続きがあるんです。いわゆる本当のオチって奴ですな……これは、さっきの話の終わり方に満足できない人のための話でもあるんですよ。だから、さっきの終わり方で満足した人には決して話さないんです。まったく違う終わり方になりますからね。それでも構わないのでしたら、本当のオチをお話ししましょう」
マリカ嬢は画商のその言葉に、ますます興味を惹かれた。お願い話して、とマリカ嬢は画商にその本当のオチを催促した。
画商は大きく笑って頷き、話の本当の顛末を語り始めた。
9
大きな叫びが部屋中に響きました。その恐ろしい断末魔の叫びで、画家は我に返って目を覚ましました。
画家はベッドの上でした。身体中に大汗をかき、心臓は早鐘のように鳴り響き、呼吸は乱れ肺が酸素を求めて痙攣を起こしているようでした。
画家は大きく一つ息を吸い、自分の頭も心臓も落ち着かせようとしました。何が起こったのか? あたりを見回して、それを確認しようとしました。
大きな明り取りの窓からは、赤い西日が差していました。部屋には伯爵はいませんでした。自身が描いたあの大作も。部屋の中央にあったのは、大きな亜麻布がかけられた二つのイーゼルでした。画家は恐る恐る、その二つのイーゼルに架けられた布を取りました。果たしてそこにあったのは、画家が最初に描き上げた、伯爵に酷評されたあの大きな〝地獄〟の絵でした。
画家は混乱しながら、更に部屋の中を見渡しました。特に変わった様子はありませんでした。ですが、部屋の隅の、洗面台の上の壁に付けられた鏡を見た時、画家はハッとしました。左耳がちゃんと付いているのです。画家は思わず自分の左耳を触り、本当にそれが自分のものか確かめました。左耳に感じる自分の手の感触に驚き戸惑いながら、画家は自分が、すっかり夢を見ていたのだと気付いたのです。
そうです。伯爵はまだ、あの絵を見に来ていないのです。画家が夢から覚めた時はまだ、あの最初の約束の日の前日だったのです。
画家はすっかり安心すると共に、ジッとあの絵を見つめて考え始めました。夢の中で伯爵が言った言葉を思い出していたのです。
画家は決心しました。描き終わった最初の絵をナイフで切り裂いて捨て、真新しいキャンバスに猛烈な勢いで下書きを始めました。そうして下書きが終わると、すぐさまそこに色を入れ始めました。まったく手を休める事もなく、画家はキャンバスにまさに自分の魂を描き込むように、絵を描いていきました。
夜が明け、朝になりました。すっかり太陽が高く昇った時、画家は遂にその手を止めました。完成したのです。新しい〝地獄絵図〟が。そしてちょうど、誰かが玄関のドアをノックしました。画家はそれが伯爵に違いないと思いました。返事をし、そして迎え入れました。伯爵は例の色とりどりの柄の付いた、趣味の悪い奇妙な服を着ていました。
「完成したかね?」
伯爵が落ち着いた紳士的な口調でそう尋ねました。画家は礼儀を正してそれに答えました。その顔は達成感で輝き、声には生気と覇気がありました。伯爵は画家のその様子に、なぜだか満足げな表情を浮かべました。そして、画家の描いた、新しい〝地獄絵図〟に見入りました。
「君は私の注文をまったく聞いていなかったのかね?」
しばらく画家の絵を見ていた伯爵がそう言いました。ですがその声には、まったく怒気は孕んでいませんでした。むしろそれは、良くやったと言わんばかりの、感嘆の言葉でした。
「まったくこれでは〝地獄〟では無いではないか」
伯爵は大笑いしながらそう言いました。
それもそのはずです。そこに描かれていたのは、柔らかく温かな陽光の下、清らかで穏やかな流れの小川、深い緑の森と鮮やかな花々に覆われた野、包み込むような優しいそよ風に身を任せ、大きく屈託の無い笑みを浮かべる人々、慈しみと愛に満ちた表情で人々を見守る天使達。その絵からは、天使達の奏でる美しい調べに乗って舞い踊り、楽しみ笑う声が聞こえ、また人々の飢えや渇きを癒す、天界の食物の香しい匂いが漂ってくるようでした。
そうです。その絵こそが、あの大きな『無名の大傑作』なのです。画家はその魂を込めて、確かにかつて誰も見た事のない程に写実的で、そして誰も想像した事がないような〝地獄〟を描き出したのです。このいまだかつてない〝大傑作〟に、さしもの伯爵も大笑いするしかなかったのです。まさか〝地獄〟と言う名の、〝楽園〟を描くとは思わなかったからです。
「良いだろう。確かにこれは誰も見た事も、想像もした事も無いような見事な〝地獄〟だ。実に素晴らしい。感心したよ。それに君は、どうやら改心したようだしな……だが実際、私が求めたものとはちょっと違う。そうだろう? だからそこでだ。こうしよう。この絵を持っては行かない。その代わりに君の大切なものを頂く……この〝地獄絵〟以外の、この部屋にある君の絵全てだ。だが、見たところだいぶ量があるようだ。ざっと見たところ……どうやら君に最初に渡した手付金よりも、ずっと価値がありそうだ……だから、その不足分を君に支払おう」
伯爵のその申し出に画家は驚きました。実際、画家は伯爵から烈火の如く怒鳴られ、手付金を返せと言われると思っていたのです。ですから、伯爵がその懐から小切手の束を取り出し、その内の一枚に一年間慎ましく暮らしていけるだけの金額を書き込み始めるのを見て、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「決して多くはない……が、向こう一年間は、これで絵の具や画材を買っても十分生きていけるだけの額だ……もうツケは無いんだろう? 酒や阿片をやらなければ、一年間は絵だけを描いて生きていけるはずだ……良いか? これが最後の機会だと思うのだぞ? そう思って絵を描く事だけに専念するんだ。そうすれば君の絵は、いずれ売れるようになる。名だたる芸術家達のようにはいかないかも知れんがな。だが、未来がどうなるかは、実際丸っきり君次第だ。そうだろう? 私の言っている事が解るな?」
画家は伯爵のその心のこもった言葉に感銘を受け、泣き崩れました。膝をつき、震える両手で小切手を受け取り、それを大切に胸に抱きました。そうして感極まって、感謝の言葉を涙ながらに伯爵に伝えました。画家にとっては、伯爵はまさしく神の御使いに思えたのです。
「さぁ、もう泣くのはやめなさい。立ち上がりなさい。私はもう行く。ここにある絵は、明日私の召使達に取りに来させる。それまでにできるだけ纏めておいてくれるか? 良いな? すぐにとりかかるのだぞ?」
そう言って伯爵は画家を無理矢理立たせると、すっかり満足したような大笑いをしながら帰っていきました。
画家はしばらくずっと泣いていました。そしてようやく、伯爵に言われた通りに自分が今までに描いた絵を全て纏めました。あの『無名の大傑作』以外の全てです。
10
マリカ嬢はその話の急展開に呆気に取られていた。そんな事って本当にあるの? と、そのきれいに整った顔には書かれていた。
「次の日、伯爵の数名の召使達が画家の描き留めた大量の絵を引き取りました。そして画家はそれからの一年間、必死に懸命に、精力的に集中的に絵を描きました。酒も阿片も一切やりませんでした……徐々に、一枚ずつ、画家の絵は売れ始め、人々からも画商からも、次第に評価され、いつしか人気の画家になっていきました。ですが画家は、どれだけ多くの画商から、どれだけの高値を提示されてあの『無名の大傑作』を売ってくれと言われても、決してあの絵だけは売りませんでした……画家の晩年、『なぜあの絵を売らないのです?』と、ある友人の画商が聞いたことがありました。それに対して画家は、こう答えました。『あの伯爵が、いつ気が変わってあの絵を買いに来るかも知れないだろう?……だから誰にも売らないんだ。だけどもし、このまま伯爵が姿を現さないうちに私が死んだら、あの絵は君にあげよう』と……」
「もしかして、その友人の画商って……?」
「えぇ、そうです。私の祖父です。そう言う訳で、この『無名の大傑作』が私達の目の前にあるのです。私の祖父は画家の死後に引き取ったこの絵を、大切に保管してきました。例の伯爵が現れるかも知れないと思っていたのです。それは私の父も同じでした。もしかしたら伯爵自身か、あるいはその子孫が現れるかも……そう思っていたのです」
それを聞いて、マリカ嬢は不思議に思った。なぜその絵を私に売ってくれるのだろうかと。画商はその疑問を見透かし、答えるように言う。
「あなたのお父様とお付き合いするようになってから、大変驚かされた事があるのです。それはあなたのお父様が、この画家の最初期の作品を大量に――それも大変に保存状態の良いままでお持ちだった事です。画家が売れる前の作品ばかりをです……それで、もしかしたらと思い、お尋ねした事があったのです」
それを聞いてマリカ嬢はまた息を飲んだ。
「それじゃあまさか……?」
老いた画商はにこりと笑い、そしてその疑問に答える。
「あなたのお父様の家系は、もともとはドイツ帝国の貴族の出だったそうですね? 〝伯爵〟の爵位をお持ちだったとか……恐らくなのですが――あなたのお父様の曽祖父か祖父の方が、あの〝伯爵〟だったのでは?……私はそう思ったのです。それで、さっきしたお話を生前のあなたのお父様にもした事がありました」
「父は、あなたになんと言ったの?」とマリカ嬢は興奮したままに聞いた。
「この絵を大変お気に召されましてね。大きく豪快にお笑いになり、そしてあなたの二十歳の誕生日に、あなたに譲ってくれないかと頼まれました」
マリカ嬢はその言葉に驚き、あの『無名の大傑作』を再び見つめた。自分の父が、死ぬ前にそんな事をこの画商に頼んでいたとは思ってもいなかったのだ。幼い時に死別した、厳格な父の事を想った。
「そんな訳ですから、この絵はあなたのものなのです。『言い値で買う』とおっしゃっていましたが、とんでもない。お代は頂けません。この『無名の大傑作』は、あなたの一族のものなのですから」
そう言って画商は快活に笑った。まるで孫娘の二十歳の誕生日に、想像以上のサプライズプレゼントをした気の良い祖父のように。
マリカ嬢は、大きく息を吸って、ただでさえ大きな目を更に大きく見開いた。あまりの事に、どう反応したらいいのか解らなかったのだ。
「とっても素敵な贈り物だわ。こんなに嬉しい誕生日プレゼントは今まで無かったわ……本当にありがとう」
そう言ってマリカ嬢は、老いた画商の身体をいたわり慈しむように抱擁した。
思いがけない誕生日プレゼントに、彼女の心は大きく揺さぶられていた。自身の才能を驕り、自堕落で背徳的な生活を送っていた一人の画家と、その画家が立ち直るきっかけを与えた一人の〝伯爵〟の奇妙な物語に。そして『無名の大傑作』という、見る者を惹き付けてやまない一つの絵と、不思議な縁で今日こうして巡り合えた事に。
マリカ嬢は老いた画商から静かに身体を離し、改めて『無名の大傑作』を見つめた。彼女はそこに描かれた天使達の一人の顔に、どことなく亡き父の面影を見たような気がした。そして、その天使が優しい表情で見つめる先にいる、一人の若者――きっとその若者が、あの画家なのだろうと思った。その顔はとても穏やかで、生き生きとして清々しい、爽やかな笑みを浮かべていたからだ。この絵を伯爵に初めて見せた時の画家の顔は、きっとこんな表情だったんだわ……マリカ嬢はそう思いながら、その美しい青年の顔にいつまでも見惚れていた。
『無名の大傑作』 鯉昇 @koi-nobori
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