前々から不穏な動きがあるのは知ってたんだ。

 いやぁなに、気づかれちまってたのよ。どっから湧いてくるんだろぉなぁ、ああいう連中はよぉ。オレが悪魔だってな、勘づいた奴らがコソコソしてやがるのに気づいたのさ、オレぁ。悪魔祓いの連中だ。うっとおしい虫どもさ。

 まぁでもな。ああいう悪さをしてるとなぁ、ああいう連中はその内に湧いてくるもんでよぉ。オレも慣れっこだったからよぉ、大丈夫だろぉと高をくくって放置してたのさ。

 大抵の奴らはオレとやってることは大差ねぇ。ようはインチキさ。ペテンってやつだ。何の力もありゃしねぇ。それでたけぇ金貰ってんだから、どっちが悪魔かって話だよなぁ? たまに本当にすげー奴もいるけどな。普通の奴はそもそもなんにもわかりゃしないんだ。オレらのことなんて見えも聞こえもしねぇんだ。だからよぉ、ちょっと悪魔が見えるとか、その程度ですげーんだよ。でな、つまりだ。しっかりわかってる奴なんざいやしねぇもんだから、大抵はよくわかってねぇで、わかった気になってやってんのよ。色々なことをな。ほらちょうど、前に話した偽聖水売りみたいによ。

 だからよぉ、オレはあん時も高をくくってほっておいたのよ。

 んでな、オレはあの日もいつもと変わらずシャルルと夜の散歩にくり出すつもりだったのさ。あの日も月のない晩だったね。

 オレは教会でシャルルが来るのを待ってたんだ。するとな、教会の窓を、コンコンと叩く音が響いてよ。見ればシャルルがいるじゃねぇか。オレはびっくりしていたよ。

「シャルル? どうしたの」

 シャルルはすぐに口元に立てた人差し指を当てて、静かにするように合図をした。

「大変なんだ。君を悪魔憑きだと疑っている、いや、信じている人たちがいる。彼らは君を殺そうとしているんだ。今晩、その計画を実行しようとしている」

 オレはビリッと体に雷でも走ったみたいな衝撃を受けたね。連中、まさかもうそこまで動き出すとはオレも思っちゃいなかったからよぉ。

 シャルルはさらに続けたさ。

「まだみんな知らない。いや、誰にも知られない内に彼らは君を始末する気なんだ。でなくちゃ邪魔が入るからね」

「それで? シャルルは私を殺しに来たの?」

 無理矢理シャルルの口を塞ぐように言葉を突き出したオレに、シャルルは潜めた声のままではあったけどな。語気を強めて言ったよ。

「馬鹿なこと言わないでくれ! 僕は偶然彼らの会話を聞いて、君を連れ出しに来たんだ。逃げよう。今すぐに」

「……逃げてどうするの?」

「どこか遠くで、一緒に暮らそう。誰も僕らを知らない土地で、二人で一緒に暮らそう」

「……シャルル」

 ククク、ケッ。可笑しいよな? 笑っちまうよな? だってオレは悪魔だぜ? オレは込み上げてくる気持ちを抑えて、静かにシャルルの名前だけ、なんとか呟いたのさ。するとシャルルが言ったね。

「……いや、かい?」

「そんなわけないわ。嬉しいわ、シャルル。本当に……、本当に……」

「……。それじゃあ、すぐにでも行こう。時間がない。さぁ――」

 シャルルはそう言ってオレに手を差し伸べた。オレはその手は取らずに窓枠に手をついて、外へ飛び出すとシャルルの手をとろうとした。でも、シャルルの手はもう、オレに差し出されちゃいなかった。

「行くよ。こっちだ」

 オレはシャルルに続いて夜道を早足に、身を潜めて進んだ。幸いにも空には月どころか星明かりすらほとんどなかったからよ。さほど難しくはなかった。

 でもよぉ、もう遅かったんだ。

 シャルルが突然、立ち止まって手でオレを制した。辺りには沈黙がこだましてるみたいだったよ。

 少しして馬の蹄が地面を蹴る音が聞こえた。一つじゃない。二つ、三つ、もっとかもしれない。抑えちゃいたが、奴らはいつの間にやらオレたちの側にいた。それは音を聞けば明白だったし、その方向は一つや二つじゃなかった。奴らは分かれてオレたちを探してやがったのさ。

 シャルルは無言で辺りを見回すと、近くにあった小屋を指でさした。オレは頷いた。オレたちは歩き出した。

 慎重に小屋に入ると、シャルルは声を潜めて言ったんだ。

「マズいな……。思ったより人数が多い。しらみつぶしに僕らを探しているんだ」

 近づいて見れば思ったよりも大きく広かった木造の小屋の中で、声を殺してオレは答えた。

「どうしましょう……。ねぇ、シャルル。逃げられるかしら。私たち、逃げられるかしら……」

「……」

 シャルルはしばらく黙っていた。オレもしばらく黙っていた。しばらく沈黙が続いたさ。あれは長い沈黙だった。

 その内に、なんだかパチパチと嫌な音が聞こえだした。嫌な臭いが、オレたちの鼻を突いて目を突いた。シャルルは突然、勢いよく立ち上がって窓の外を見た。

「火だ……」

 シャルルは急いで入口まで駆けて行ったよ。それからシャルルは戻ってきた。表情を見てわかったさ。すでにオレたちは火に囲まれてるってね。

「……すまない。もう、逃げられそうにない」

 オレの横に崩れるように腰を下ろして、シャルルは力なくそう言った。

「……シャルル。シャルル。あなただけでも逃げて。あの人たちの狙いは私でしょう? だったら、あなたは大丈夫なはずだわ。そうよ、アイツらは外で様子を見てるはずだわ。外に出て行って大きな声で叫ぶのよ。悪魔に憑かれた女を縛ってきたって。そうすれば、きっとあなたは助けてくれるわ。ねぇ、シャルル。聞いてる? ねえ、シャルルったら!」

 声を大きくしたオレに、シャルルは言った。

「……嫌だよ。もう、もう嫌なんだ。別れるのはもう嫌なんだ。僕だけ残されるのは、もう嫌なんだ。もう、うんざりなんだ。もう、もう嫌なんだよ……」

「シャルル……」

「すまない。君を助けてあげられなくて……。もっと早く気づくことが出来たら……」

「シャルル……。ねぇ。私がこの体に入ってから、あなたは一度も私のことをマリア、って呼んでくれていないわ。ねぇ、覚えてる? 一度もよ? 一度もあなたは私のことを、マリアって呼んでくれなかった。ねぇ。そうよね? シャルル……」

「ああ……」

「じゃあ、なんで? なんでなの? あなたは私のことをマリアだって、今も信じてくれていないんでしょう? だったら私のことなんか置いて逃げたらいいじゃない! なんで?! なんであなたは私と一緒に死のうとしているのよ? ねぇ、シャルル! なんで? なんでなの?!」

 シャルルはオレの方を見て、オレの顔を見て、オレの目を見つめて、静かに言った。

「……愛してるからだよ。君を。僕は君を愛してるからだ」

「……」

 クッ、ククッ、クケェ……。オレは言葉を失ったね。目を丸くして、シャルルの目を見つめ返したさ。だってそうだろ? 笑っちまうよな? 可笑しいだろ? オレは、オレは悪魔だぜ?

 でも、シャルルは言ったんだ。

「確かに僕は君をマリアだとは思っていない。絶対に違うと、そう確信してさえいるんだ。その理由は上手く答えられないけれど、それでも僕は君がマリアじゃないって、そう信じている」

「……」

「でも、それでも僕は君を愛してしまったんだ。君とずっと過ごしている内に、僕は君を愛してしまったんだ……」

「……どうして」

「わからない。わからないけれど、僕が君にひかれたのは、君が僕と似ているような気がしたから……」

 シャルルの言葉は消え入るようにして途切れた。

「……似ている? シャルルと、私が?」

「ああ。これは僕の勘違いかもしれないけれど、君は悲しいんじゃないのかい? 僕にはそんな風に感じられるんだ。君は悲しんでいる。君は、傷ついている。君は、決して満たされない欠けた心を持っている。そんな風に感じるんだ。マリアを失って、心が欠けてしまった僕みたいに……」

「……」

 バチバチと炎が激しく燃える音が段々大きくなってきた。小屋もとっくに燃え始めてやがる。オレは静かにオレの返事を待つみたいに黙ってしまったシャルルを見つめて、思ったんだよ。決めたのさ。この女の体とは、ここでおさらばだってな。

 このままじゃぁ、オレもシャルルもこの女の体も、この小屋と一緒に燃えちまう。そいつはまっぴらごめんだ。オレはこの女の体と心中する気なんかこれっぽっちもねぇからな。早くしねぇと間に合わねぇ。だからオレは一か八か、急いでこの女の体を抜け出すことにしたのさ。

 シャルル、驚くだろうなぁ……。目の前でオレが抜けて、正気に戻ったこの女を見たらよぉ。ヘッ。あの時のオレは、そう思ったよ。ああ、そう思ったのさ。お気楽になぁ。もう、その後のことなんか考えてたさ。その後どう動くかをな。オレは、オレは考えてたのさ。

 でもよぉ、それは殺す前に売ったクマの皮だったのさ。そう、クマの皮だったのさ。オレは、オレはよぉ。あの女の体を抜け出さなかった。いいや、抜け出せなかったのさ。

 オレは目を見開いてただろうね。嫌な汗が流れたよ。チクショウって思ったね。なんでだと思う? 出られなかったんだよ。あの女の体からよぉ。オレはな、オレはよぉ、オレは出られなかったんだよ。あの女の体からよぉ!

 アイツら! アイツら何か小細工してやがったのさ! 腹が立ったね。腹が立ったよ。アイツらはなからこれが狙いだったんだ! この女の体ごとオレを殺すつもりだったんだ! 許せねぇだろ? なぁ、許せねぇ……。何よりも、何よりもなぁ……。オレは、アイツらのことが許せねぇんだ……。許せねぇ……。

「大丈夫かい?」

 シャルルはそう言った。オレに、そう言ったんだ。

 オレはすべてを諦めたね。同時に諦めきれなった。だからな、オレはシャルルに言ったんだ。

「ねぇ、シャルル。私は、……いいや。オレは、オレはな。オレは悪魔だぜ」

「……」

 シャルルは言葉を失くしちまったみたいな顔してオレを見つめてたね。オレはそんなシャルルに畳みかけたよ。

「シャルルの言う通り、オレはマリアじゃねぇ。だが、この女が演じてるわけでもねぇ。オレは悪魔だ。マリアに死なれて悲しみのどん底に落ちた奴らを騙してもてあそんで楽しむために、この女の体に憑りついた、オレは悪魔なんだ。悪魔なんだよ。オレは悪魔だぜ。えぇ? シャルル。シャルルのこともなぁ、オレは騙すつもりだった。騙すつもりだったんだよ」

 でもオレにはもう、オレにはもう嘘はつけなかった。

 だからオレは黙った。黙ったのによぉ、シャルルは訊いてきやがったんだよ。訊いてきやがったのさ。笑っちまうよなぁ。クッ、ククッケッ、クケェ……。

「……君が、悪魔?」

「ああ、そうさ。オレは悪魔だ」

 オレはもうタガが外れちまってよぉ。嘘なんかもう、一つもつけなくなっちまってた。なのによぉ、シャルルは訊くんだよ。訊いたんだよ。

「なんで……」

「ア?」

「なんで、今になってそれを言う気になったんだい。君はなんで、今になってそれを言う気になったんだい?」

「それは……」

 オレは、嘘をつけなかった。

「それは、愛してるからだよ。シャルル。なぁ、オレはシャルルを愛してるからだよ。おかしいだろ? 笑っちまうだろ? オレは悪魔だぜ? オレは悪魔なんだぜ? しかもよぉ、男なんだ。男なんだぜ。オレは男の悪魔で、マリアのふりしてこの女の体に降りてきてよぉ。人間騙して楽しむような、そんな悪魔なんだよ。シャルルのことも騙す気でよぉ。それでずっと、騙す気でよぉ。なあ、シャルル。オレはなのに、なのにいつの間にか、シャルルのことが、シャルルのことが好きになっちまってたんだよ」

 なぁ、可笑しいだろ? 笑っちまうだろ? なぁ? なあ! オレは、オレは悪魔だぜ。悪魔なんだぜ。なのによぉ、オレはシャルルのことを愛しちまってたんだ。なぁ、可笑しいだろ? 可笑しいだろ? なあ、笑ってくれよ。笑ってくれよ! 笑えよぉ! なあ! 笑えよ! 笑えよぉ! ……喜劇だろ? なぁ? なあ! なぁ……。

「なぁ。だから、だからよぉ……。今からでも遅くねぇだろ? なぁ、逃げてくれよ。まだ間に合うだろ? オレは本当に悪魔なんだよ。シャルルの大切なマリアの死を踏みにじって、もてあそんで、笑ってやがった悪魔なんだよ。悪魔なんだよォ! だから。だから、さっさと出て行けよ! ほら! 早く! シャルル! シャルルゥ!」

 いつの間にかオレは泣いてたよ。涙を流してたよ。本気の涙だった。これは、本当の涙だったよ。涙をもたない、泣くことのできない、実体のない悪魔のオレの、本気の涙だったんだよ。

「……信じられないような話だ」

 落ち着いたシャルルの声を聞いて、オレはいくらか落ち着きを取り戻した。

「だろうな。でも本当だ」

「うん。なんだかそんな気がするんだ。君が僕にマリアだと言った時より、ずっと信じられる……」

「そうか。じゃあ、さっさと出てけよ」

「いいや、出ていかない」

「ア?」

「言ったろ? 僕は君を愛していると」

「……でも、オレは、悪魔だぜ。オレは男で、オレは悪魔だぜ」

「ああ。それはちょっと驚いたけど。いいや、とても驚いたけれど。でも、僕は君を愛してしまったんだ。この一年足らず、毎晩ほんの少しの時間だけれど、君と過ごして、君と話をして、僕は君を愛したんだ。それは事実だ。そこに嘘はない。僕は今、君を愛している」

「……じゃあ、なおさら消えてくれ。出てってくれ。オレの望みを聞いてくれ。オレの言うことを聞いてくれ。なぁ、オレを置いて出てってくれよ」

「言っただろ? もう、嫌なんだ。大切な人を失うのは、もう嫌なんだ……」

「シャルル……」

「ねぇ、君の名前を教えてくれないかい?」

「名前?」

「ああ。君はマリアじゃないんだろう? だから、せめて最後に、君のことを君ではなくて、君の名前で呼ばせてくれないかい?」

「……悪いな。オレに名前なんてねぇんだよ。オレは悪魔だ。オレはしょうもない、ただの悪魔だ。だから、オレに名前なんざぁありゃしねぇんだよ」

 シャルルは少し黙った後、オレの目をしっかり見つめて、口を開いた。

「悪魔。愛してる」

「……はっ。なんだい悪魔って。オレもだよ、シャルル。シャルル、愛してる」

 小屋の中はもう酷く暑かった。オレたちの周りは、すでに激しく燃えていた。

「いいんだな、本当に……」

「ああ」

 少しの沈黙の後、オレは言った。

「なぁ、シャルル。手を、握ってくれないか……」

 シャルルは返事をせずに、オレの手を握った。強く、強く、力強く握った。それはでも、優しかった。とても、優しかった。

 オレがシャルルと手を繋ぐのは、それが初めてだった。シャルルの体にこんな風にして、しっかり触れるのは、それが初めてだった。

 オレは、指を絡める時間さえおしくて、そもそもそんな濃厚さなんかいらなくて、ただぎゅっとシャルルの手を握っていたかった。

 オレは、オレは直接シャルルの手を握れないのが惜しかった。自分の体をもたないことが惜しかった。人の体越しにしか、シャルルの手を握れないことが、たまらなく惜しかった。だから、オレはシャルルの手をしっかりと、しっかりと握ったんだ。

 オレは、シャルルの手をずっと握っていた。ずっと、握っていたよ。ずっと、ずっと握っていた……。

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