第138話 過去

かおりさんと飲み、ホテルまで見送った後、ケイスケはユウゴの家に行き、俺は美香と二人でマンションに向かっていた。


話しながら歩き、マンションの前に着くと、美香が「コーヒー飲んでいきません?」と切り出してきた。


美香の言葉に甘え、マンションに入ると、美香はコーヒーを入れた後、俺の隣に座り「ホント、社長のパートナーになれてよかったです」と、笑顔で話し始めた。


「俺の? なんで?」


「前に仰ってたじゃないですか。 『山根は無関係だ。 うちと白鳳と一緒にしないでくれ』って。 ずっと、『山根さんに逆らえない』って思ってたんですけど、あの言葉で、過去と今は違うんだって気づかせてもらえたし、かなり勇気づけられたんですよ」


「完全に無意識だったけどな。 そう言えば、『ちゃんと出来たらご褒美ください』って言ってたじゃん。 何がいい?」


美香は「そうだなぁ…」と言いながら唇に指をあて考え始めた。


しばらく考えた後、美香は「のんびりしたいです」と笑顔で言ってきた。


「温泉でも行くか?」


「それいいですね! 社長が落ち着いてからでいいので、のんびりしに行きましょう。 今回は奢ってくださいね」


美香はそう言いながら嬉しそうな笑みを浮かべ、「いいよ。 ちょっと贅沢するか」と言いながらコーヒーを飲んでいた。


その後、仕事の話になったんだけど、美香の頭の回転の速さには驚くばかり。


ふと「美香ってなんであの高校にしたん? こんな賢いのに、あんな学校行く必要あったか?」と聞いてみると、美香は苦笑いを浮かべながら答え始めた。


「受験直前にインフルエンザになっちゃったんですよ。 本当は私立の大学付属校に行きたかったんですけど、受験できなくて、仕方なく…」


「そうなんだ。 行きたい高校があったってことは、夢とかあったん?」


「獣医になりたかったんですけど、高校受験自体ができなくて、諦めちゃいました。 縁がないってことなんだろうなって。 高校入ってからは保育士って思ったんですけど、ピアノが弾けないから無理だなって。 でもね、後悔はしてないんですよ? 今の仕事楽しいし、保育士よりも給料良いし。 それに……… いろんな人に出会えたし! 社長はどうしてあの高校にしたんですか?」


「なんとなく。 家から近いから。 やりたいこともなかったしさ」


「今はやりたいことってあります? 例えば映画作りたいとか、アニメ作りたいとか」


「仕事上ではないな。 手一杯だし、下手なことしたら兄貴に怒られるし。 けど… 美香とやり直したいとは思ってる。 過去にできなかったことをしたいって言うのは、ずっと思ってるよ」


美香を見つめながらはっきり言い切ると、美香は赤い顔をしたまま少し俯いた。


しばらくの沈黙の後、そっと綺麗な髪に触れると、美香はゆっくりと顔を上げ、唇を近づけてくる。


ソファの上で抱き合い、唇を重ね、美香の甘い吐息に包まれていた。


過去にできなかったこと、過去にしたかったことが、現実になろうとしていたんだけど、胸に触れた瞬間、美香は俺の腕をギュッと握りしめ、それと同時に俺の携帯が鳴り【兄貴】の文字が表示される。


渋々電話に出ると、兄貴は「白鳳に連絡入れたが、あれはダメだな。 白鳳とホワイトリリィは関係ないって、はっきり言いきってた」と、疲れた様子で話し始めた。


「関係ないって、思いっきり白鳳グループって書いてあるだろ?」


「過去の不祥事もろとも切り捨てるつもりなんじゃないのか? また何かあったら連絡くれ」


兄貴はそう言った後、電話を切ったんだけど、美香は完全に熱が冷めてしまったのか、洗濯を始める始末。


「み、美香さん?」と声をかけると、美香は笑顔で「温泉、楽しみにしてますね」と言い切り、忙しなく動き始めていた。

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