[SS]水族館
【まえがき】
本作の初投稿は九月一日でした。
その後、小説家になろう、カクヨムに場所を移し、週5回の更新を続け、先日投稿分で計三百話に到達することができました。
とてもスローペースな展開なので未だに
今回はその三百話投稿を記念して、Special Storyをご用意しました。お楽しみいただけますと幸いです。
モモチチの名前は「田中桃香」でした……岡田(君)となっていたのを田中に修正しました。
(岡田は
【本文】
ダンジョンから戻り、サッと身体をシャワーで流してから部屋へと戻る。
時計を見ると、既に時間は二〇時を指している。そろそろ誰かが賄いを二階まで運んでくるはずだ。
〈さて、何にするかな……〉
ごろりとソファーに横になって、今から眺める図鑑をどれにするか考える。
最初に買ってもらった子ども向けの図鑑は広く浅い知識を子ども向けに解りやすく説明したものだった。ひと通り読み終えた私としてはどうしても少し詳しいものが欲しい。
最初に自動車の仕組みを詳しく知りたいと思ったので、自動車の構造や部品まで細かく解説した本を買ってもらったのだが、イギリスやアメリカといった他の国で用いられている言葉が多用されていてまだ読み終えていない。
その後、買ってもらったのが動物図鑑に植物図鑑、海の魚図鑑だ。
賄いの時間だと思うだけで少し腹が減ってきたような気がする。
こんな時は、魚図鑑を見るに限る。しょーへいに寿司という料理を食べに連れて行ってもらった事があるが、そこで食べた魚はどんな魚なのか――やはり気になってくるからな。
やはり、なんといってもトロという魚だ。血の多い魚だというのに脂を蓄えているので身は白味を帯びて
気がつけば口の中には涎が溢れるほど溜まっていて、慌ててそれを飲み込む。
まずはトロという魚がどんな姿形をしているか、確認しよう。
ページをパラパラと捲ってトロという魚を探してみるが、なかなか見つからない。
タイやヒラメなど、同じように寿司で食べた魚を見つけつつ、トロを探していると部屋の扉を叩く音が聞こえる。
「ミミルちゃん、夜の賄い持ってきたえ」
「……ん、ありがとう」
このおっとりとした口調で、返事を待たずに扉を開けてくるのはモモチチだ。他の従業員は遠慮して入口で手渡してくれるというのに困ったものだ。
私が座っているソファの前、センターテーブルという背の低い机の上に料理をトレイに載せたままそっと置いて差し出してくる。
皿の数は全部で四つ。
中央は今日の主菜だ。大きめの皿に洗った草がこんもりと盛り付けられたところに黄金色に焼き上げられた肉が並んでいる。
その左側の小さい皿に確かチャパタという白いパンが二つ。隣にはオリーブオイルという植物性の油と塩が入った小さな深皿が並ぶ。
右側には玻璃でできた深皿に薄緑色でとろみのあるスープが入っている。湯気が出ていないところをみると、
「今日の料理はうちが作ったんえ」
「……ふうん」
「はうっ……相変わらずの塩!」
余計な脂肪がついた左胸を抑え、モモチチがガクリと膝を突いてみせる。一々反応が大袈裟で扱いが面倒な女だ。
ただ、別に意地悪しているつもりはない。
まだ私のニホン語の技能は成長していないし、エルムヘイムの言葉で話すときのように尊大な話し方にならないよう、私なりに気を使っている。
決して、あの無駄に大きな乳房が羨ましいからとか、そういう理由はないと断言しておく。くそう……。
小芝居を終えたモモチチは
結構な重さがあるのが腹立たしい……。
「今日のスープはガスパチョ・ヴェルデ。パンはチャパタ。メイン料理は鶏むね肉のピカタね」
「……ん、邪魔」
普通なら背後から抱きつかれた状態なら、立ち上がれば上に逃げることができる。だが、余計な脂肪が二つも頭に乗っていると立ち上がることもできない。
少し身体強化をして尻を滑らせ、なんとか下に抜け出した。
「あうっ……」
「手、動かせない。食べられない」
毎回思うのだが、どうして料理を作って持ってきた後に私に抱きつき、食べられないようにするのだろう。
この女の思考がよく理解できない。
そのままソファーの前方にちょこんと座り、皿を並べ替えてスープを正面に移動させる。
私は最初は口や喉を湿らす意味でもスープに手をつける主義なのだ。
トレイの上からスプーンを手に取り、ツボの部分を滑らせるようにスープの中へと差し込む。飾りの野菜やオリーブオイルを共にとろりとしたスープがツボに流れ込むと、溢さぬように口元に運ぶ。
いろんな要素が混ざり合った複雑な香りがする。
そっと口の中へと流し込むと、朝水をやっているバジルとかいう草の甘く清々しい香りがフワリと広がり、後からパプリカとかいう実の甘い香り、ニンニクの香りが追いかけてくる。
口いっぱいにニンニクの旨味やパプリカの甘みが広がるが、酢が入っているようで後味が実にサッパリとしている。
少々青臭いのはキュウリとかいう草の実のせいだろう。ダンジョンで採れるアギュールが似ているとしょーへいが言っていたな。
何か視界に邪魔なものがチラつくと思っていたら、テーブル越しにモモチチが座っていて、ジッと私の反応を眺めているではないか。
「美味しい?」
「……ん、おいしい」
「やったっ!」
褒められると嬉しい……エルムであろうと、ヒトであろうとそこは変わらない。
だが、私よりも客に褒められる方がいいと思うのだが、不思議な女だ。
チャパタを千切ってオリーブオイルを付けて食べる。
表面はカリッと焼き上がっているが、中にはたくさん気泡があって、もっちりとした食感。口の中に広がる小麦の風味をオリーブの香りが引き立てている。
「……たべにくい」
「あ、そうやね。ごめんごめん」
モモチチは立ち上がってまた私の背後へと移動したようだ。
気配がビシビシと伝わってくるのだが、なんだか見張られているような気になってくる。
ただ、料理には罪はない。温かいものは温かいうちに食べなければ可愛そうだ。
次は主菜へと手をのばす。
モモチチが「トリ肉のピカタ」とか言っていた料理だ。
ひと切れの大きさ、厚みは大したことがないが、一応ナイフとフォークに持ち替えて半分に切ってみる。
これはニワトリの骨なし肉を削ぎ切りにし、卵に潜らせて焼いた料理だな。以前、しょーへいが作ってくれた気がする。
チーズの香り、ハーブの香りがトリ肉の臭みを消し、食欲をそそる。噛みしめると肉の繊維から旨味が溢れ出し、口の中いっぱいに広がるのが幸せだ。
この衣をつけるという焼き方は、このように肉汁や旨味を閉じ込める役割を持っているのだろう。
エルムヘイムなら表面は黒焦げ、中はパサパサに焼き上げたものになるのだが、チキュウの料理人はすごい。
「……いつまでいる?」
背中を刺すようなモモチチの視線に振り向いて投げかける。
ここはしょーへいと私の部屋だ。食事を運んできてもらったとはいえ、いつまでも居座られるのも少し不愉快だ。
「え、いや……あ、ミミルちゃん、お魚の本、読んだはったん?」
振り向いた私から目線を泳がせたモモチチがソファの上に転がる図鑑を見つけたようだ。
どう見てもモモチチはその図鑑に興味があるとは思えん。
「……いま読んでた」
「そ、そう。うち、明日はお休みなんやけど、一緒に水族館、行けへん?」
「すいどっかん?」
「す・い・ぞ・く・か・ん」
言い慣れない言葉はどうしても上手く発音できない。
「すいどくかん、すいど……すいぞ、すいぞくかん」
「そう、水族館や。お魚がぎょうさん泳いだはるんよ」
確か、しょーへいが言っていた。
ニホンには世界中の動物を集めた動物園というのがあると。
魚も世界中から集めたところがあるというのか……それは一度見に行ってみたい。
でも、行くならしょーへいと一緒がいいな……。
うーん……。
「お昼ごはん、お寿司食べに行くよ?」
「行く!」
いかん、つい反射神経で応えてしまった。
あのトロの味を思い出してしまったばかりに、寿司と言われてつい反応してしまった。
一方、不安そうにしていたモモチチの表情が満面の笑みへと変わった。ここまで嬉しそうな笑顔を見るのは初めてかも知れない。
「ほな、明日迎えに来るよって、用意しといてな」
「……ん、よろしく」
最高にご機嫌な様子でモモチチは部屋を出ていった。
もしかすると、私と二人で出かけたいとずっと思っていたのか?
そんなに私はモモチチに気に入られているのだろうか……。
考えながら料理を食べ進める。
いつもしょーへいとだけ出かけてきたから、他のニンゲンと二人きりで出かけるのはこれが初めてだ。
どうしよう、お出かけ用の服はしょーへいが買ってくれていたが、それでいいのだろうか。
いつも荷物は空間収納の中だが、流石にモモチチの前で使うことはできない。鞄も買ってくれたものがあるが、何を入れておけばいいのかわからないぞ。
ど、どうしよう……。
料理を食べる手と口だけは止めず、私は考えに耽る。
結論はひとつ……「しょーへいに相談する」だ。
食べ終えた食器類をトレイに載せて、階段を下りる。
お客さんがいるが、そこは気にせず厨房窓を通して食べ終えた食器を差し出した。
「あ、ミミル。田中君と水族館に行くんだって?」
私に気がついたしょーへいが声を掛けてくる。
目立たないよう、客にも従業員にも気づかれないように気を遣っているというのにこの男は……なんて都合のいいときに声を掛けてくるんだろう。
少し嬉しくなってしまうではないか……。
「……ん、行ってもいい?」
「もちろんだ。何か心配なことでもあるのかい?」
私の顔をジッと見つめて訊ねるしょーへい。
くだらないことで悩んでいることが顔に出ているのかと心配になって、思わず顔を伏せてしまう。
だが、ここで黙っていてはいけない。
〈な、何を着て行けばいいかわからないし。あと、鞄もどうすればいいか……〉
〈ああ、うん。あとで一緒に考えよう。風呂は入れてあるから入ってくるといいよ〉
くだらない悩みだと言わず、ちゃんと受け止めてくれる。
しょーへいの優しさに触れて、心を埋め尽くしつつあった不安感が消えていくのが自分でもわかる。
顔を上げ、しょーへいへと視線を向ける。
「うん、ありがとう」
言って、二階へと戻るべく気配を消して階段を上がった。
◇◆◇
朝の九時にしょーへいに起こされた。
寝る前にしょーへいがどこからともなく出してきくれた服を着る。白地に紺色の大きな水玉模様のワンピース。袖もしっかり肘のあたりまであって、ゆったりとした意匠をしていてとても可愛らしい。ただ、頭には夏なので麦藁帽子を被らされた。
しょーへいは私が魔法でタイヨウの光を打ち消していることを知っているはずだが、それでも帽子は被って欲しいらしい。
どうやらしょーへいは私と出かけるときのために可愛いと思う服や鞄などを買い込んでいたようだ。その服を着た姿が見られてとても嬉しそうにしている。
「かわいいぞ」
「い、いや……ん」
一発だけしょーへいの胸元を軽く叩いておく。
しょーへいは愛想笑いを見せているが、褒められるとつい照れてしまうではないか。
なんだか頬が熱い……しょーへいと目を合わすのも少し恥ずかしい。
帽子と同じ色の麦藁で編み上げられた鞄に入っているのは紺地に白の水玉のタオル。大きさも顔を拭いたりするのに丁度いい。そこに以前買ってもらったガマグチ財布、丸みを帯びた女の子用の扇子にティッシュペーパー等が入っている。
ご丁寧に財布の中には結構な金額のお金が入っているので驚いた。
「ごはん、モモチチが出す」
「念の為に持っておくほうがいい。万が一、田中君と
「……ん」
いざというときは空間魔法で家に帰れるのだが……仕様がない、私が使うことはないと思うが持っておくことにしよう。
但し、落とさないように空間収納へと入れておく。必要になったら、取り出すときに鞄の中に出せばいい。
「あと、これが地下鉄に乗るときに使うカードな」
「……ん、ピッするやつ」
「そうそう」
ひと通り荷物を確認したところで、丁度いい具合にインターフォンが鳴った。小窓の中に映っているのは二つの大きな脂肪の塊。
「モモチチ来た」
「ああ、じゃ下まで行こうか」
「……ん、ありがとう」
丁寧にも玄関までしょーへいが送ってくれるらしい。
これまた明らかに普段とは違う装いのサンダルを差し出され、それに足を通す。計ったかのように私の足の大きさに合っている。
「靴ずれに気をつけてな」
「だいじょうぶ」
言って少し心配になる。
しょーへいと離れる不安だ。いつも外出するときは一緒にいるからだろうか。
今日はモモチチがしょーへいの代わり。それだけだ。
そう強く念じ、玄関から一歩踏み出す。
「ミミルちゃん、その服えらい似合うてるやん」
「ん、あたりまえ」
「今日はよろしくな」
しょーへいが選んだ服なんだから似合って当然だ。
モモチチに対する私の返事を聞いて、しょーへいが少し呆れたような顔をし、続けて愛想笑いを浮かべる。私の目線に気づいたのだろう。
「大丈夫ですよ。ミミルちゃんはしっかり面倒見ます」
何の意味があるのか、ドンッと胸を叩いて乳を揺らすモモチチ。
しょーへいはただニコニコと笑顔のままだ。
でも、わたしがモモチチの面倒を見るというのが正しいだろう。
私をいくつだと思っているのだと問い詰めたくなる。
だが、モモチチには私の本当の年齢を伝えていないからな――悔しいが、言葉を飲み込むしかない。
「ミミルちゃん、行くえ」
「……ん、いってきます」
「おう、気をつけてな」
振り返る度に小さくなっていくしょーへいの姿を見ると寂しくなってくる。でも見えなくなるまで私たちを見送っているところを見ると、しょーへいも寂しいのだろう。
きっとそのはずだ。
地下鉄の駅に行って、ピッとして中に入って電車に乗った。
電車の中では扉の手摺があるところに立たされ、その大きな脂肪の塊で視界を奪われた。
そんなに自慢しないで欲しい……頑張って食べてるのに効果が出ないから心が折れそうなのだ……。
だが、この苦痛からは直ぐに開放された。電車は二駅目で下りたからだ。
それにしてもすごい人の数だ。
「ミミルちゃん、逸れたらえらいことやし、手ぇ繋いでくれる?」
「……ん、しかたない」
周りを見渡すと、本当にどこからこんなに湧いてきたのかと驚くほど人がいる。これでは東西南北もわからないし、家がどちらにあるか見当もつかない。
とりあえず目の前にある塔は目印になりそうなので、それだけは覚えておこう。何かあったら、ここを目指せばいい。
とにかく、この人混みでは間違いなく
「人も多いおおいし、暑いあついなあ」
「……ん、暑い」
本当は私は暑くない。魔法で環境調整しているからだ。
だがモモチチを見る限り、じっとりと汗を掻いている。他の人も暑そうだ。
「日焼け止めも汗で流れてまうね」
言ってモモチチは日傘を差して歩き始める。特にたいした店などもなく、とてもひっそりとした場所を進んでいく。
ほぼ真上から差し込む日光は日傘でしか防げない。
私は魔法があるから大丈夫だ。日焼けの心配は一切ない。
五分程度歩いていると背の高い建物が無くなり、更に五分ほど歩くと緑豊かな場所が見えてきた。
「水族館はこの中にあるんよ」
道路を隔てた先、信号機のある横断歩道を渡ると、草木が生い茂る中に遊歩道が作られている。遮るものがないのでこの日差しだとかなり暑そうだ。モモチチが日傘を持ってきたのはこのことも考えてのことだろう。
モモチチも意外に賢いではないか。
「ポーッ!」
突然、大きな笛の音のようなものが辺りに鳴り響いた。
思わずビクリと身体に力が入り、周囲を見回してしまう。
「あ、ミミルちゃんは知らへんよね。いまのは蒸気機関車の汽笛え。蒸気機関車、知ってる?」
「図鑑、みた」
「この近くで本物が見られるんえ」
「……ちかく、みたい」
音が聞こえた方向へと顔を向けて思い出す。
確か、電車が一般的になる前に用いられていた乗り物のはずだ。
ニホンでも観光用として走っているものがあるが、この近くには無いと思っていた。
ガソリンなどの内燃機関の仕組みくらいは何とか理解しているが、魔石では単純に代用できない。だが蒸気機関は別だ。火属性の魔石と水属性の魔石があれば実現できるかも知れない。実物を是非見てみたい……。
「また今度ね。私は鉄ちゃんとちゃうし、蒸気機関とか難しいことはよー解らんから」
「ざんねん……」
ここで無理して連れて行ってもらうものでもないだろう。
せめて解説くらいしてほしいので、やはりしょーへいと一緒に来るのがいいだろうな。
更に数分歩いて、漸く水族館という場所の前に到着した。
モモチチと入場券というものを買いに行き、一緒に建物の中に入る。
最初は二階から。
里山の風景を想定した場所、次にそこに流れる川を再現した場所に出る。
「オオサンショウウオ。国の天然記念物なんえ」
「……てんねん、なに?」
「絶滅しーひんように国が保護するって決めた生き物……かな?」
ニホンという国も、人が増えすぎて住むところを作るために多くの動植物を犠牲にしたのだろう。その結果、種が減りすぎてこうして保護しているということか。
その考え方は素晴らしいな。
「次はアザラシさんがおるんえ」
「……アザラシ、どうぶつずかんでみた」
海に棲む動物だ。
水槽の中を気持ちよさそうに泳いでいるのもいれば、同じように水中で眠っていたりもする。特に面白いのは、透明な筒状の場所を泳ぎ、最後は縦になった筒の中で水面から顔を出すところだ。
目が合ったりすると、そのあどけなさについ顔が綻んでしまう。
水中に見えるお腹はタプタプとしていて、ちょっと突いてみたくなる。空間魔法を使うと水が溢れるので諦めた……残念だ。
続いて見に来たのは海の魚を展示する場所。
目立つのは大きなサメやエイだが、群れを作って泳いでいるアジやイワシという魚もいる。
そういえば、寿司屋でしょーへいが嬉しそうに食べていたのを見て、私も頼んだ気がする。
「モモチチ、トロいる?」
「トロ?」
「すし屋でトロ食べた。ここにトロいる?」
「ああ、ミミルちゃんは勘違いしたはるえ。トロはマグロのお腹とか脂の多い部分のことなんよ。マグロは――ほら、あそこ泳いだはる」
モモチチが指さす先に、紡錘形をした大きめの魚がスイスイと泳いでいるのが見える。鰭の形からして、図鑑で見たキハダマグロだと思う。
そうか、トロというのは魚の部位の名前なのだな。
しょーへいも最初から教えてくれればいいのに、ヒトが悪い……。
「ありがとう。おぼえた」
「ミミルちゃんは賢いねえ」
「……ん、当然」
何しろ、「知」の加護を持っているからな。
今頃関心しても遅いというものだ。
次の場所でイルカのショーが見られるそうだが、今から二時間後ということで諦めた。泳いでいる姿は見られるので、それで充分だ。
続いて進んでいくと、展示室が全体に暗くなった。
大小様々な水槽が並んでいて、そこにはクラゲがプカプカと浮かんでいる。
ゆらゆらと泳ぐ大きなクラゲっは優雅でさえあり、せっせと傘を動かして泳ぎ回る赤、黄、青、黒のカラフルな小さなクラゲはとても可愛らしい。
最も大きな水槽にはミズクラゲがたくさんいて、漂うように泳いでいる姿を見ていると飽きることがない。何と言えばいいだろう……そう、「癒やされる」というやつだ。
「ねえ、ミミルちゃん」
「……ん」
「オーナーって好きな人、いたはるん?」
突然の質問に対し、私は目を瞠ってモモチチの方へと視線を向けてしまった。
「ごめんね、急にこんな話してしもて……」
モモチチは私の方に目を向けず、クラゲの泳ぎを眺めながら話を続ける。恐らくこの方が落ち着いて話せるのだろう。
「ミミルちゃんのお父さんやし、ミミルちゃんには話しとかんとあかん
うちよりも一回り年上やけど、シュッとしたはって格好ええし。落ち着いたはって、大人の貫禄って言うか……穏やかで包容力があるやん?」
確かにその通りだと思うが、いま聞こえないように「それに、お金持ちやし……」って言っただろう。
否定はしないが、それはしょーへいの価値ではないぞ。
まあ、短い説明だが気持ちはよくわかった。
しかし、しょーへいの好みは年上だ……残念だったな。
でも私の口から言うことではないか。
「オーナーの気持ちも確認しいひんのに、こんなことゆうても詮無いことやけど、うちの気持ちはミミルちゃんにも知っておいてもろた方がええと思て」
「……ん、がんばれ」
私に言える言葉は他にない。
しょーへいを自分と同じ長命な生き物にしてしまったのは私だ。
その私に向かって、しょーへいは「時は戻せないから」という理由で許してくれたし、これからもずっと一緒にいると約束してくれた。
残念だが、私はそれをモモチチに話せない。
しょーへいの口から話してもらわないといけないことだ。
あとは、しょーへいを話す気にさせられるくらいまでモモチチが頑張るかどうかだ。
「ミミルちゃんは認めてくれるってこと?」
「そのとき、かんがえる」
「ええっ、認めるって言ってよお」
「いま、むり」
「そんなあ……ミミルちゃんのいけず」
何と言おうと、しょーへいのハンリョは私。
これはもう揺るぐことのない私の地位であり、立場なのだ。
モモチチを置いて私は独りで歩き出した。
この暗くて、でも幻想的なクラゲが泳ぐ場所にいるとこの女の話を聞かされる。だから、ここから早く出てしまいたい。
「ミミルちゃん、ちょっと待って」
「……ん、どうした?」
慌てて追いかけてきたモモチチが私の手を取る。
少し鬼気迫るような雰囲気だ。
「ミミルちゃん、自分が何て呼ばれてるか知ってる?」
「しらない」
「もう……『烏丸の妖精』、『
「……え?」
それは初耳だ。
妖精や天使と呼ばれてるなら、良いことではないのか?
「ミミルちゃんは有名人ってこと。『
私が何も知らず、呆れたように説明するモモチチ。最後は何だか溜息まで混じっているような声だ。
店の客には見つからないようにしているつもりだったが、いつの間にか見つかっていたということか。
気をつけることにしよう。
「それで、変な人から声をかけられたり、悪戯されたりする心配があるけど――うちが付いて歩くならってことでオーナーも連れ出すことを認めてくれたんやから……」
「……ん、わかった」
なんだそれは。
そんな変なヒトが来たら凍らせるなり、土槍で串刺しにするなり、火炙りにするなりして対処できる。心配しすぎだ。
まあ、モモチチは私にそんなことをさせないための監視なのだろう。
つまり、しょーへいは変なヒトの方を心配しているのか。
まったくしょーへいには敵わんな。私のことをよく理解している。
考えると思わず頬が緩む。
「どうしたん?」
「……なんでもない」
仕方がないのでまたモモチチと手を繋いで歩く。
知らぬ間にクラゲのいる場所を出ていて、ペンギンという名の鳥がいるところにやってきた。
実はエルムヘイムにも似た鳥がいる。空を飛べず、氷の海の中へ飛び込んで魚などを捕まえて食べる。大きさはもっと大きく、嘴は凶器ともいえるほど鋭く尖っているので可愛げが全くない。
対するここのペンギンとやらは程よい大きさ。天井を泳ぐ速度が驚くほど速いが、気持ちよさそうに水に浮かぶ姿、ヨチヨチと歩く姿はとても可愛いらしい。
暫くペンギンを眺め、ほっこりしたらお腹が空いた。恐らく昼は過ぎているはずだ。
「モモチチ、寿司食べる」
「ああ、うん。お昼は回転寿司に行きましょ」
回転寿司とはなんだろう?
とにかく寿司だ。楽しみだ!
【あとがき】
このあと、ミミルは中トロ、大トロばかり五十皿ほど食べて桃香を涙目にさせたとか……。
結局、寿司代金の半分は将平が出したようです。
勝手に年上好き認定された上で寿司の代金まで払わされるとか、将平も可哀想ですね……。
ミミルに二つ名がついたのは一つ前のSS「五山送り火」のタイミングですね。
将平が帽子を被らせたのも、ミミルの顔が少しでも隠れるようにとの配慮によるものです。
本当は七月の十七日に祇園祭山鉾巡行の話を書きたかったのですが諦めました。
理由は二つです。
・祭りの時期は店も忙しいので、将平とミミルが見に行けない
・コロナもあって、取材に行けない
来年のこの時期には本作も第一部が完結している予定ですので、後日談という形でも書けるといいなと思っています。
次の節目は本編の三〇〇話ですね。
頑張ります 。
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