第265話

「痩せたと言うより、身が締まった感じだろ?」

「ええ、なんか若う見えます」


 俺自身は全然意識していなかったが、他人から見ると若くなったように見えるのか。それはそれでありがたいが、これ以上突っ込んで来られるボロがでそうで困る。


「とりあえず、グラス拭き頼むよ」

「はい、わかりました」


 裏田君に布巾を手渡すと、俺は蛇口を捻ってグラス洗いを始める。上手くごまかせそうだ。


 作業を分担することで非常に効率的にグラスを洗うことができるが、それでも二百個近くあるタンブラーやオールドファッショングラス、ワイングラスやシャンパンフルートなどを洗うのは時間が掛かる。

 勿論、この間は黙々と作業をしているわけではない。


「とりあえず、店の営業は十一時三十分から。ランチタイムは開店から十四時まで。十四時から十七時まではカフェタイムにして、ディナータイムは十七時から二十二時までにする」

「このあたりのお店に合わせる感じですか?」

「ランチタイムは少し悩みどころだけどな……」


 何処どこ彼処かしこも同じ時間帯で営業をしていることが多い。実際に観光客の立場になると、少し十四時を過ぎたくらいでもう昼食を摂る店が無くなるのは辛いのはわかっている。


「昼の賄いは十三時半くらいから交代で摂るのもいいので、少し時間をずらすのも悪くはないと思っているんだ」

「そうですねえ……三十分ずらすのも悪うないと思いますよ」

「まあ、営業時間は十一時半から二十二時までで確定だから、その間のことは今後調整していくか……」


 土日だけランチタイムを伸ばすと言うのも考えられる。

 リサーチは一度終えているものの、もう少し他の店の営業時間なんかも見て回った方が良さそうだ。


「あとどれくらいです?」

「あと五つだ」


 一分ほどでグラスを洗い終えたら、今度は棚の中へと手分けして収納する。ワイングラスやシャンパンフルートは拭きむらがないことやボウルにほこりが入っていないことを確認しながら、ハンガーに掛けて吊るしていく。

 半分ほどは予備として棚に収納だ。


「次は皿ですか?」

「そうだな。厨房に運んでどんどん食洗機で洗おう」


 俺よりも若いのもあり、裏田君は「わかりました」と声を出してすぐに食器を運び始めた。とはいえ、ディナープレート、デザートプレート、ミートプレート、パンプレート等の洋食器が各五十枚ずつ……合計で五百枚近くある。運ぶのも結構たいへんだ。これ以外にコーヒーカップ、デミタスカップ、ティーカップ、ミルクピッチャーにシュガーポット、ティーポット等まである。流石にこれらは重ねて運びにくいのでトレイに載せていった。


 黙々と厨房に運び込む作業を終えて、ひと休止だ。


「とりあえず休憩しよう」


 最後にトレイに載せたティーポットを運び込んだ裏田君に声を掛け、冷蔵庫を開いて中の缶コーヒーを取り出して差し出す。


「ありがとうございます」

「ここに飲み物が入ってる。自由に飲んでいいから。あ、でも食材が届いたらカウンターの冷蔵庫に移そうかな」

「そうですね。食材の注文はどないしはります?」

「最初の一週間のメニューを決めてからかな。明日になって、田中君が何を作るか決めてくれないと注文できないから……」


 冷蔵庫に背中を預け、缶コーヒーのプルトップを引いて、ひと口だけ流し込む。


 まだミミルのことを話すタイミングじゃないだろう。やはり昼食時に話すほうが自然な気がする。


「裏田君は、いずれ独立して店を持ちたいと思ってるかい?」

「え? い、いや、べべっ別におもてないですよ」

「本音を話してくれていいんだよ。たぶん、ほとんどの料理人は自分の店を持つことが夢だと想うから」

「そ、そうですね。本音では、いずれは店を持ちたいとおもてます。でも、遠い遠い先のことやと思いますわ」


 店を持つには金が掛かる。小さな店でも敷金、礼金だけで百万円近く取られるのが当たり前だ。そこに改装費用、看板、食器の入れ替え、厨房機器の購入、初期の運転費用……居抜きに入っても数百万は用意しておかねばならない。

 その金をコツコツと貯めていくとなると、並の努力ではなかなか実現できない。


「子ども、二人いてますし……なかなか金が貯まりませんわ」

「まあ、そうだよなあ……」


 親の遺産で店を持った俺が言うのも何だが、子どもが大学を卒業するまでに掛かる費用は数千万円と言われる時代だ。二人を育てながら店を持つというのは本当に大変だと思う。


「オーナーもこの店を買うの、大変やったんとちゃいます?」

「俺はまあ……自分で稼いだ金もあるが、親の遺産もあったからなあ……」

「そうなんや……」


 東京のホテルで副料理長をしていた関係でそれなりに給料は貰っていた。でもその給料でこんな一等地を買うなんて無理だ。


「とにかく、裏田君は将来店を持つことが夢ということだね」


 背中を冷蔵庫から離すと、俺は残っていた缶コーヒーを飲み干した。

 裏田君からは先ほど気持ちは聞いているので、返事は期待していない。いまの話の結論を自分で再確認しただけだ。


 さて、今度は食器拭き作業……がんばりますか。

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