第144話

 食べやすいようにバケットを数枚スライスし、焚き火の上に置いた鉄板で表面を焼いて添えれば馬肉のタルタルステーキの完成だ。

 フィレンツェでは生の牛肉でつくるビステッカ・アラ・タルターラ(Bistecca alla Tartara)というのがあるが、それの馬肉版だな。


〈まずは二品できあがりだ〉


 俺の声に反応してミミルはコクコクと首を縦に振り、パタパタと音をたてて椅子へと向かう。

 そんなミミルの様子を見ている、どれだけ腹を空かせていたのかと心配になってしまう。

 見た目は育ち盛りな身体つきをしているから生まれる食欲なのだろうか……。


 ミミルは先に椅子に座り、右手にナイフ、左手にフォークを持って待ち構えている。少し行儀が悪いが、まあ……マナーは追々教えるとしよう。


 最後に頃合いに火の通ったニンニクと唐辛子のオイルを器に入れて、テーブルの上に置く。塩を入れてもいいが、どうせ溶けないので別皿に入れて摘んで掛けて食べることにしてもらおう。


〈野菜はこの皿に入った油をつけて、塩を振って食べる。

 こっちのタルタルステーキはこのパンにのせて食べるといいぞ〉

〈――ん〉


 とりあえず、二品の食べ方を説明するとミミルが早速手を伸ばそうとする。

 俺はまず両手を合わせ、食前の礼を述べる。


「いただきます」


 俺の声にハッと気付き、ミミルは慌ててフォークとナイフを置いて手を合わせた。


「いただきます」


 なんだろう……「忘れてませんよ」とでも言いたげな表情で俺のことをちらりと見つめ、ミミルは再びナイフとフォークを取り、ブルンへスタのタルタルステーキへと手を伸ばす。

 キツネ色にカリッと焼けた薄いバケットの上に、その小さな手でタルタルステーキをのせるミミルの瞳は本当にキラキラと輝いていて、心の底から美味しいものが好きだという感情がこちらにまで流れ込んでくる。

 ミミルの小さな口がバケットに歯を立てて軽く乾いた音が聞こえると、彼女の表情が綻び、頬や目尻から期待に満ちた表情がゆっくりと崩れて蕩けていく。


『う、うまい……』


 ミミルから念話が飛んでくる。

 なぜか頬を片手で支えているのは、緩みすぎて頬が落ちそうとでも感じたからだろうか。


 この一連の仕草はとても可愛くて、愛おしくさえ感じさせる何かがあるようで、俺は頬を緩めてミミルのことを眺めてしまっていた。

 こんなにも幸せそうに食べてもらえる姿を目の前で見られるとことほど料理人にとって幸せなことはないからな。


 だが、口の中からタルタルステーキが消えてなくなると、ミミルは俺の視線に気付く。


〈なんだ、ニヤけた顔をしおっって〉

〈ん? あ、いや……なんでもない〉


 ミミルと目線が合った時点で俺も我に返ったのだが、時すでに遅かった。

 何も悪いことなどしていないのだが、なんだかバツが悪い。つい何かを誤魔化すような返事をしてしまうのだが、咄嗟のことなので仕方がない。ここは違う方向に意識を向けさせよう。


〈それよりも野菜を食べろよ。肉ばかりは身体に良くない〉

〈心配するな、この食生活で百二十年以上生きているんだ。問題ない〉

〈いや、野菜を食べるとお通じが……〉

〈食事中だぞ〉


 この話題だと「食事中だ」と言われて中断されても返す言葉がないな。

 仕様がないので、俺が先に野菜に手を伸ばす。


 先ずはセロリを右手に取り、そのままニンニクと唐辛子のオイルを付けると左手で塩をぱらりと振って齧りつく。繊維を断ち切る音が顎の中で派手に鳴り響き、口いっぱいにニンニクとセロリの香りが広がる。

 奥歯でセロリを噛み続けるとニンニクとセロリの旨味に程よい塩味が舌を包み込み、唐辛子がピリリと刺激する。

 とてもシンプルな食べ方だが実に美味い。


〈野菜も美味いぞ?〉

〈だが肉の方が美味いぞ〉


 ミミルにまた野菜を食べるように勧めるのだが、速攻で肉のほうが美味いと言われると返す言葉がない。

 ここまで来れば「好み」以外の何ものでもないからな。


〈なんでも食べないと大きくなれないぞ?〉

〈大きく……〉


 子どもを相手にしているような会話になってしまったが、ミミルはこの言葉に弱い。

 よほど小さな身体がコンプレックスになっているんだろう。ミミルの左手に持つフォークがぷるぷると震えている。恐らく心の中でいろいろと戦っているのだろう。

 恐らく肉を食べる幸せをとるか、低身長へのコンプレックスを晴らすか……その戦いだな。


 葛藤に心揺れるミミルを横目に、俺は続けてニンジンやラディッシュなどを口に入れる。

 同じソースを使っても、その野菜によって味わいが違う。

 パプリカは独特な香りと甘みが口の中に広がる。キュウリやラディッシュは水分たっぷりで瑞々しくて美味しい。そしてソースをニンジンにつけて口へと放り込む。


〈このニンジンの甘さがたまらないな……〉

〈――!?〉


 元々質が良いので優しい甘味があり、香りも爽やかだ。

 この言葉にミミルも野菜に少しは興味を持ったようで、漸くフォークをニンジンへと突き刺した。

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