宿痾

芦花公園

美味しいですね。

「パスタでいいですか」

 柔らかな笑顔で見つめられて呼吸が早くなる。私ははい、いいです、と言うのが精一杯だった。

 なにがいいです、なのか。言い方は少し失礼ではなかったか。ただの返事なのに、心の中で反省会を開いてしまう。

 彼は私の心中など知る由もなく、ケトルを火にかけている。

 鳥海秀久。この美しい男性の家に自分がなぜいるのか、私は未だに飲み込めていなかった。

 鳥海は、先月から私の勤める市中病院に来た整形外科医だ。年齢は33歳。都内の大学病院に勤務していたらしいが、手ひどく捨てた既婚者の看護師が自殺を図ったため辞めさせられた……というのが噂好きの看護師たちの話だ。

 確かに、というふうに思ってしまう。

 顔貌だけならとりわけ美しいというわけでもないが、とにかく全体的な印象が「美しい」なのである。私は大昔に読んだ「アーサー王伝説」のランスロット卿を思い出していた。ランスロット卿は顔は不自然に歪んでいたが、不思議な魅力で女性を惹きつけてやまなかったという。鳥海は、まさにそのような人間だった。

 しかし、実際彼と接してみると、彼は実に温厚で誠実そのものだった。若手の医師としては珍しいくらいだ。悪い噂を流していた看護師たちもすっかり骨抜きになって、今度は「鳥海先生に微笑みかけられた」「鳥海先生に誕生日を教えてもらった」「鳥海先生と同じ曲が好きだった」「鳥海先生と同じデスクで食事をした」など、こぞってを取り合うようになった。

 彼はあっという間に職場に馴染んだ。彼の魅力は女性だけでなく男性にも通じるようだった。患者からの評判も良く、彼の診察を受けた患者は皆少女のように目を輝かせていた。老若男女皆一様に、だ。

 私は正直言って、彼を警戒していた。

 噂に惑わされたわけではない。私は、ひどく厳格な家庭で育ったのだ。彼のような魅力的な異性と接するのは抵抗感があった。

 そう、抵抗感しかない。それなのに私は、彼とたまたま同じ漫画の話で盛り上がった、それだけの理由で彼の家に来てしまった。こんなこと、普段の私なら――

「大丈夫ですか?」

 顔を上げると、目の前に彼の顔があった。

 咄嗟に目線を下げると、机の上には真っ黒なパスタが乗っている。イカスミのパスタ、なのだろう。

「お嫌いでしたか?」

「いいえ……好きです……」

「そう、それなら良かった」

 彼はエプロンを外し、机を挟んで正面に腰を下ろした。

 映画でも観ますか、と聞かれてまた曖昧にええ、と答える。彼とうまく話せない。正気でいられないというか、息切れがするほど心臓が脈打って、なにも言えなくなるのだ。

 フォークの側面に茹で蛸のように赤くなった私の顔が映った。

 彼はその後もなにかしら話していたが、私はただ、味のわからないパスタを口に運ぶ。

「ニワトリは何回鳴きましたか」

 意味不明な質問。顔を上げると、彼はテレビの画面に目を向けている。きっと幻聴だろう。私はまた、フォークにぐるぐるとパスタを巻きつける作業に戻る。

「何回ですか」

 幻聴ではなかった。確実に、鳥海の声だった。

 がちゃん、という大きな音がした。私は間抜けにも、フォークを床に落としてしまったのだ。

「拾わなくてもいいですよ、代わりはいくらでもありますから」

 鳥海は席を立ち、フォークを拾い、流しから新しいフォークを持ってきた。それだけのことなのに、私は彼から目が離せなかった。

「どうぞ」

 フォークを手渡され、自分でもどうかと思うくらい小さな声でお礼を言う。

 もう一度、ニワトリがどうとかいう質問をされたらどうしよう。そんなことを考える。

「その様子では、三回には満たないようだ」

 彼はやや侮蔑の入り混じった声でそう言うと、グラスのワインを飲み干した。

 こんなこと、他人にされたら普通は腹が立つ。意味不明な質問をされ、それに答えなかったからといって勝手に軽蔑される。しかし、私の心の中に芽生えたのは悲しみだった。彼をガッカリさせてしまった。そのことがひどく悲しい。ほとんど泣いてしまいそうだった。

「大丈夫です、大丈夫。期待はしていないので」

 鳥海は微笑んだ。

 テレビ画面には最近人気の芸人が写っており、彼の珍妙なリアクションで大勢が手を叩いて笑っている。

「あなたは私のことを愛していますか?」

 また、質問だ。

 これは大きな意味を持つ、私と彼の関係を進展させる質問だと思うが、彼は食堂のメニューを聞くような気軽さでそう言った。

「それは、どう言う意味ですか」

 やっとのことで絞り出した声は情けなく震えていた。

「つまりですね、ゲマトリアとしての生き方を捨てて、私を愛するかという、単純な質問なんです。時間がかかってもいいですから、答えてくださいね」

 ゲマトリア、などという言葉は生まれてこのかた聞いたこともない言葉だった。

 彼は壊れやすいものを扱うような手つきで私の頬をそっと撫でた。

 いま、私の中には二つ人格があって、片方は厳格な家庭で育った一般成人女性のものだ。それは、私に、いますぐこの場から去れと言っている。こんな意味不明な質問を自信満々に繰り返す彼は、何かの宗教にハマっているか、あるいは単なる異常者だ。今帰れば、それで終わりだ。しょせん彼とは単なる同僚なのだ。

 もう一つの人格だ。彼女はさっきから泣いている。泣いて、恐れている。彼に嫌われ、見捨てられることを死ぬより辛いと感じている。私はもう、その泣き声に逆らえなかった。

「愛しています」

 一度口に出せば簡単だった。

「あなたのことを愛しています」

 私の口はロボットかなにかのように何度も何度も繰り返した。

「そうですか」

 鳥海はさも当然といったふうだった。その目には感動も感謝もない。彼にとって、愛されるというのは当然のことなのだ。

 彼はそう言ったきり、またテレビの方へ顔を向けた。先程まで流れていたバラエティではなく、白馬が荒野を走っている映像だった。五分ほど黙って見ていたが、映像は変わることなく、やはりただ白馬が走っている。

 心臓が壊れそうに脈打った。彼はその映像をただ見続けている。

「家族に連絡しますね」

 私は僅かに残った理性でなんとか、この妙な空気から逃れようとあがいた。震える手でスマートフォンを取り出す。

「その選択があなたにとって良いとは思えない」

 鳥海はこちらの方を見もしないで言った。

「あなたがお父さまに連絡をするとお父さまは電話を取り一瞬だけ注意が逸れます。ほんの一瞬、しかしそれは大きな一瞬だ。前方を走るトレーラーの後輪が脱落し、あなたのお父さまをひきつぶす。そう、赤いカローラごと。ええ、同時に今一緒にいるお母さまも、妹さんもです。だからそれがあなたにとって良い選択とは思えない」

 しばらく馬の蹄の音だけが響いた。

 なぜ家族構成を知っているのか。なぜ今私を除いた家族三人が車に乗っていることを知っているのか。なぜ、車種まで知っているのか。やはりどこかでそれを当然と思ってしまう自分がいる。彼の不吉な予言に腹を立てることもなく、むしろ感謝の念さえ湧いてくる。勿論、疑うことなどありえない。

 私はいったん出したスマートフォンをふたたび鞄に入れた。

 馬の蹄の音はまだ止まない。いつのまにか白馬に騎士が騎乗していた。

「まだこの段階なんだよな」

 鳥海は吐き捨てるように言って、唐突にテレビを消した。

「私のことを愛していると言ったとしてもですね、それが本当か実際にはわからない。三回雄鶏が鳴くかもしれない」

 彼はワインを飲み干して、

「人間はね、言葉ではなく行動で示すものです」

 そう言って微笑んだ。ワインが彼の唇に滴っている。そこから目が離せなかった。

「いつからそれがイカスミだと思っていましたか?」

 胃が痙攣した。口の中一杯に唾液腺が弾けそうなほどの幸福な旨味が広がるのに、体は受け付けていない。

 そもそも、イカスミとは、こんなに……。

「いつから?」

 彼の目は私を捉えて離さない。

「イカスミではないんですか?」

 鳥海は爆笑していた。口の中を真っ黒に染めて、大声で笑った。

「いつイカスミだって言いました?私が?イカスミなはずがないでしょう」

 そういえば、と思う。

 イカスミは、甘い味ではない。

「これは林檎ですよ」

 鳥海は私の顔に頬擦りをした。

「あなたの食道を伝って、吸収されたダルマがあなたを覆いました。あなたはもう、髪の毛一本を白くすることさえできないのです」

 なんだか幸せな気持ちになってきた。

 私は皿を両手で持ち上げ、犬のように食い散らかし、ソースの一滴まで舐めとった。

「ありがとうございます」

 私は彼にお礼を言った。

 私も彼も顔を真っ黒にしているからだ。

 彼は私を抱き寄せて、よくできました、と微笑む。

 背後に大喝采が聞こえる。

 私たちを祝福、せ、よ。

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宿痾 芦花公園 @kinokoinusuki

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