夢から出てきた黒い蝶

奈々星

第1話

朝起きると僕の鼻の上に黒い蝶が羽を広げて止まっていた。


視界の大部分が歪な黒に支配されていたことに驚いて僕はすぐに目が覚めた。


咄嗟に頭を振るとその黒い蝶は家の中を舞い始めた。


この蝶にばかり気を取られていて大事なことを見落としていた。


僕はその日寝坊していた。


いつもは母と妹が騒がしくしているから起きれるのに、そんなことを考えながら

遅刻が確定しているので帰ってゆっくりと学校の支度を始めた。


今、母と6歳の妹は母親の実家に帰省している。数年前に亡くなった祖父が手入れしていた庭の木々たちがだらしなく成長しているので

それらを綺麗にしに行ったのだ。


父は仕事。毎朝早くに家を出る。


よって僕は初めての一人の静かな朝に目覚めることができなかったのだ。


しかし、この黒い蝶はなんなのだ。


いつからうちにいる?


食事の時も、歯磨きの時も、着替えの時も僕の周りを飛び続ける。


挙句の果てに学校まで着いてきているのだ。


言葉の通じない生物を従えているようで悪い気はしなかったので僕は学校でもみんなに自慢した。


僕は3時間目からみんなに合流した。

しかし、よりによって3時間目のこの時間は

退屈な国語の授業。

仕方ないから僕は窓を見てこの黒い蝶のことを考えていた。

頭の中で今朝から経験している映像を頭の中で流してみた。


まずは夢から…

早速この黒い蝶が現れた。


そういえばこの黒い蝶は今朝の夢の中にも登場していたんだった。

幼少の頃、家族でよく遊びに行っていた川で高校の友達たちと遊んでいる時どこかから飛んできたこの黒い蝶に気を引かれ僕はみんなからはぐれ、流れの早いところで足を滑らせそのまま下流の滝に落ちていく。


落ちる瞬間に目が覚め、そこに黒い蝶がいた。


僕はここでひとつの仮説を立てる。


この蝶は僕の夢から出てきたのかもしれない


もっと現実的に考えるなら父が家を出る瞬間に家に入り込んでしまったという考えもあるが朝から僕に付きまとう様子を見ると夢からでてきたと考えれば辻褄が合うような気がする。


キーンコーン…

この黒い蝶の出どころを考えていたら

3時間目が終わった。


すると隣のあまり話さない、いや話せない女の子、僕の好きな女の子に声をかけられた。


ねぇねぇ、ノート書いてないでしょ?

書いてあげようか?


僕は慌てて慌ててえっ?とかいや…とかあたふたとかっこ悪い音を発してしまったが今起きている幸せな出来事をしっかり理解し

「ああ、頼む」

と言った。


心の中で。


現実では「ああ、お、お願い……」

情けない。


それでも彼女にノートを書いてもらえること、そのノートを見れば彼女の書いた文字を拝める幸せに胸を膨らませていた。


それから昼休み、僕の近くにクラスの男子たちが数人集まってきて今日なんで遅刻したのかだとか色々質問を受けた。


遅刻すると会話の中心になれる。


先程の幸せな出来事もあり、僕はなんだが調子が良かった。

集まってきた男子たちを見事に盛り上げた。

「これウケる」と思って言ったことが案の定男子たちにウケたのを確認するとすぐに横目で隣の彼女の反応を見た。


笑ってた。


僕は今日がなんていい日なのか、

もう死んでもいい。

それくらい気分が良かった。


もうあの黒い蝶のことなんか頭の片隅にも残っていなかった。


あれから午後の授業でも彼女が落とした消しゴムを拾ったり、教科書を忘れた彼女に机をくっつけて自分の教科書を見せてあげたりと

彼女との接触が多い日だった。


気分は最高。

ホームルームが終わると僕は今日の昼話していた男子たちと帰ることになった。

学校から駅までの道のりでも彼女がほかの女子と一緒に近くを歩いていた事はきちんと把握している。


家に帰っても誰もいないことにさらに気分が高く跳ね上がる。


家の鍵を開けると誰もいない真っ暗な家。

当分は一人の時間が続く。

そのワクワクに胸を躍らせながら家に入ると

1本の留守電が来ていた。


僕はそれを聞いてみる。


「まさき、まだ帰ってないのね、

あのね、おばあちゃんが倒れたの、

いま病院にいるんだけどね。

また折り返しの電話ください。」


手に持っていたスクールバッグがどすんと落っこちた。


小さい頃から田舎に帰ると色んなところに車で連れて行ってくれたおじいちゃんとおばあちゃん。数年前に旅立ったおじいちゃんの傷も癒えないままおばあちゃんまで逝ってしまうのか。


静かな部屋の空気を僕の鳴き声が揺らす。


すぐには現実を受け止めることが出来ずソファに落ち着くまで座っていた。


するとスマホが鳴る。


メッセージの通知だ。


開いてみると相手は彼女。


ごめんノート書いたのに渡すの忘れちゃった。まさきくんのうち行ってもいい?


家には僕しか居ないのだから普段なら

大歓迎だっただろう。

でも今はそのまま既読無視して、お母さんに

電話をかけた。


「もしもし、おばあちゃん大丈夫?」


「ちょっとまずいみたい」


「そう……か。」


「うん…なんかあったらまた連絡するね。」


お母さんも心配でしょうがないのだろう。

僕が頼る訳にもいかないのでこれ以上会話を続けなかった。

電話をかけようともしなかった。


今日は最悪の日だ。なんて日なんだ。


おばあちゃん…………


僕はふと引っ張られるように顔を上げた。


そこにはあの黒い蝶がひらひらと揺れていた


「なあ、お前何者なんだ。」


黒い蝶。


僕はネットで調べてみた。


黒い蝶とは一体何なのか、と。

すると「絶望」「不吉」「死」

心臓に悪い言葉が出てくるが、それだけではなかった。

「再生」「転機」「不安の終わり」

まだ僕の前に現れたこの黒い蝶の意味は

分からない。

今なら変えることが出来るかもしれない。


僕はおばあちゃんに生きていて欲しい、

そう神様に告げるため都内で1番大きい神社に足を運びお祈りをした。


おばあちゃんを生かして下さい。

たくさん徳積みますからっ。

僕、たくさん勉強して医者になって、

たくさんの人の命救いますから。

お願いしますっ。


合わせていた手を離し、目を開けると

やれることはやったという達成感を得ることが出来た。


奮発して高い交通費を払って遠い神社まで来てしまったので家に着くのは10時を過ぎてからだった。


そして家に飾ってある親族全員で撮った写真にもお祈りをする。

おばあちゃんを、助けてくださいっ。


おばあちゃんのためにやれることはやった。

行ったことない場所に行ったりと何かと大変だった今日ももうすぐ終わる。

いつもなら日付が変わって1時くらいに寝るが今日は日付が変わる1時間くらい前に床に着いた。


今朝はしっかり起きることが出来た。

学校の授業も真面目に受けた。

どんな些細な徳でも積み重ねて行くんだ。


空席になっている僕の隣の机に溜まったプリントを机の中にしまったり、先生が質問をしてきたら率先して答えた。


もっともっと勉強もして徳を積むんだ。


僕の気合いは十分だった。


学校が終わり昨日と同じメンバーで駅までの帰路に着く。


すると急に雨が降ってきた。

折り畳み傘を携帯する習慣がない僕は近くの友達の折り畳み傘に入ったが、

彼は冗談の調子で

「小さいんだからやめろよ〜」

その傘には僕と彼ともう1人男が入ってきていて僕の肩は傘に入り切らず濡れていたから、

大きな傘を持つ友達の方に入ったがさっき僕と同じ傘に入っていた男が僕についてきて

その傘に入った。


「やめろよ〜」


2つ目の雨宿り場所からも追い出され僕は仕方なく雨に濡れる。


僕についてくるあの男が入らなかった方に入ればいいと思い奴がどっちに入るか後ろから見ていた。


前を歩いてある友達の傘に入るのを見て僕は

後方の傘に駆け込もうとするとなにか落としてしまったことに気づいた。


ポケットから落ちた僕のスマホが雨に濡れている。

僕はそれを拾いに走って先程居た場所まで戻った。


学校を出てからまだ1度もスマホを開いていなかったから見てみると母から1件のメッセージが来ていた。


「おばあちゃんが亡くなりました。」


スマホに釘付けになっているうちに彼らは遠くまで行ってしまった。


僕は後ろから来る生徒に避けられながら呆然とする。


その時、目の前をあの黒い蝶が横切った。


雨の粒に打たれながらいや、器用に避けているのか分からないがその黒い蝶に連れられて魂の抜けたような僕は車道へ誘われる。


それからはいきなり時間の流れが遅くなった。


傘に入っては出て、入っては出てという先程の自分の行動が脳内に流れる。


そして僕は空を舞っていた。


あの黒い蝶よりも高いところにいる。


僕の足元にあの黒い蝶が止まっているのでは無い。


僕が空に打ち上げられているのだ。


轢かれた。


僕は鈍い音を立てて地面に激突した。

僕から出た血が歩道の排水溝まで流れていっているらしく、今まで人が溢れていたその歩道を通る人が居なくなった。


体は動かない。

でも知覚はできる。


黒い蝶が僕の頭に止まっているのも分かる。


走馬灯…


僕が今見ているものは今までの思い出を振り返るタイプではなく、ただ最近のこの目で見た情景と、それを見て湧き出た感情が脳内に

広がり段々とフェードアウトしていくタイプのものだった。


遠くの神社までお祈りをしに行ったこと。

おばあちゃんが倒れたと話す留守電。

盛り上がる男子たちのすぐ後ろを歩く僕の好きな人。

君と同じ教科者を覗いたあの時間。

君と初めて目を見合って話したあの瞬間。


このタイプの走馬灯にはゴールがないらしい。


水中に落ちた絵の具がだんだんと色を失っていくように、走馬灯として流れてきた情景は僕の記憶の中でも薄くなっていく。


たった1日前のこと。

絶対に忘れたくなかったことがあったことも

僕の中から色を薄くしていった。


やがて意識も薄くなった。

赤く点滅する白い車。

何の音も聞こえない。

聴覚、視覚……

最後まで頭に止まったままだった黒い蝶の感触だけはずっと残っていた。


____________________________________________


僕はある病院に来ていた。

そこには元気になったおばあちゃんがいた。

お母さんと妹が涙を流している。

その涙には喜びでは無い感情も混じっていた。


僕の後ろには未だに黒い蝶が後をつけている。


あの時、現実世界の時間の流れが遅くなり、

薄く消え入る走馬灯に変化していったように

真っ暗な景色から徐々にゆっくりと見たことの無い景色が見え始めて、いつしか僕は

現実世界に戻っていた。


おばあちゃんが元気に笑っている。

僕の家族と抱き合っている。


その景色が確かにこの目に見えていた。


しかし、現実の情景はそこで一旦途切れた。


次に僕が現実世界に戻ってきたとき、

目の前に黒い蝶がいた。同じ花に止まって

同じ花の蜜を吸おうとしている。


僕に付きまとうあの黒い蝶では無い、新しい蝶だった。僕は目の前の蝶に……


ん?


この黒い細長いストローみたいなのは何だ?

この花、花にしては大きすぎないか?


暗闇から走馬灯、走馬灯のような遅い時間の流れから現実。


徐々に感覚を取り戻していくと、次に記憶も蘇ってきた。


頭に湧いてくる記憶の中に

僕が空を飛んでいるものがあった。

僕が花の蜜を吸っているものもあった…


どうやら僕は蝶になったらしい。


目の前の黒い蝶は夢中になって花の蜜を吸う。僕がその姿をじっとみてると聞き馴染みのある声が聞こえてきた。

「まさきくん、私の顔になんかついてる?」


「あっ、この前は…」


そこからまた記憶が途切れた。

次に目が覚めたのは自分の家でだった。

かつて自分が住んでいた家。


目の前にお馴染みの黒い蝶が飛んでいる。


するとやつが話しかけてきた。

「まさき、人は死んだら黒い蝶になる。」


「え?」


「普通の死に方をした人間は黒い蝶になって自由に飛び回ることができるんだ。」


「俺もできるけど、」


「まさき、どうやってあそこからここまで来たかとか覚えているか?」


「覚えてない…」


「人は死んだら幽霊になるんじゃなくて黒い蝶になるんだけど、地縛霊の代わりに記憶障害のある黒い蝶になるやつもいるんだ。」


「そっか…」


僕はひとつずつ現実を受け止める。


僕は今は人間じゃなくて蝶々なんだ。

まずはひとつ。


僕は事故死をしたから記憶を無くす。

ふたつ。


「あっ、じゃあお前は誰なんだ?

なんで俺の名前を……」


____________________________________________


僕は人間としての人生を終えた場所にいた。

また記憶が飛んだんだ。

僕が止まっていた緑のガードレールの上に

あの可憐な蝶がやってきた。


「まさきくん」


「なに?……

あっ、俺謝ることあった。

あの時既読無視してごめん。」


おばあちゃんが倒れたショックで彼女からのメッセージに返信するのを忘れていた。

既読無視なんていう酷いことをした。


すると彼女の、いや目の前の蝶の羽がパキパキと音を立てて崩れていく。


「私、まさきくんのこと気になってたんだ。まだまさきくんとメッセージでやりとりした事なかったから、一方的に送って迷惑かなーとか思ったんだけど、良かった。」


これは成仏ということなのか。

多分そうだ。

だったら僕はもう彼女に会えないかもしれない。


「君嶋さん、俺も…好きだった。」


崩れていく君に僕は弱々しい声で言う。


「嬉しい。」


フィクションみたいに光を放ちながら空へ上っていくわけではなく、

ただ体が崩れて、崩れ落ちた羽や体はいつの間にかこの世界から消えていた。


もう君に空を飛ぶ翼はない。

もう僕が恋した君もいない。



僕の後ろでまた、ぱきぱきと音がする。

振り向くとそこにはあの黒い蝶がいた。

「お前はなんで成仏してんだよ」

黒い蝶の仲間が立て続けに消えていくのが寂しかった。


「まさき、お前が自分の思いを伝えたからだよ。」


実は僕と先程の彼女は中学も同じだった。

きっと彼女は僕のことなんて覚えてないだろうから高校では初対面の振りをしていたけど。


目の前の黒い蝶の翼が落ちた。

煤のように体がすり減るのを見ていると、

大切なことを思い出した。


「お前誰なんだよ」


「じいちゃんだ。」

それがあの黒い蝶の最後の言葉。


じいちゃんだったのか。

死んでから俺の事ずっと見てくれてたんだ。

俺の好きな人まで…


ぱきぱき


僕の体も崩れ始める。

生きていた時からずっと、ずっと気になっていた。僕につきまとっていたあの蝶は僕のことを見守ってくれていたおじいちゃんだったんだ。僕の未練は今無くなった。


もう僕に空を飛ぶ翼がない

君を抱きしめる腕もない

おじいちゃんに見せる姿もない


もう、みんなを満足させられた。


もう僕が見る景色はない。

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夢から出てきた黒い蝶 奈々星 @miyamotominesota

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