追放の果て、覇王となりて
序 カフェテラスにて
その隻眼の青年は、ラジオから聞こえてくる壮大な音楽と豊かなテノールの音声を聞きながら微かに笑った。
その後に、手に持っているハムとチーズを挟んだサンドイッチを美味そうに噛り付いた。
最近このカフェテラスでよく見る光景で、店主としてもこの慌ただしくきな臭い情勢下では一服の清涼剤のような存在になっていた。
「ベルシスお兄ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、シャーリー。息災……いや、元気かな?」
このサンドイッチを美味そうに食らい、店主の孫娘に穏やかに挨拶を返す隻眼の青年は少しばかり風変わりな事で有名だった。
非常に古い言葉を操るのだ。
今ではその言葉もだいぶ今風になっているが、彼がルクルクス教授に拾われた直後は古語を専門に習得していた幾人かの教員以外その話を理解するのは難しかった。
非常に正確な古カナギシュ語であると言うが、彼はそれしか喋れなかった。
正確にはカナギシュ語の源流たる過去の大帝国であるゾスの言葉である様だが。
人の好いルクルクス教授に拾われた彼は当初は奇妙な人物と、街の人々から疎んじられていた。
が、古い言葉を操る以外は何処にでもいる青年と言った風情であり性格も温和であったし、何より言葉にしがたい魅力を持っていたので次第に子供たちが懐き、今では街の住人の一人と受け入れられていた。
彼は古カナギシュ語に精通していたから、大学の司書と言う仕事にありつけたのも街の住人に受け入れられた要素かも知れない。
そんな彼がサンドイッチを食べ終わる頃には、お気に入りらしいオペラの「カルーザス」(ゾスの大将軍であるカルーザス将軍の生涯を綴った物語)が終わり、世情を伝えるニュースが流れる。
ここバルアド大陸も西方の国タナザが死霊術を用いた工業革命で成り上がり、覇権を広げ続けている最中では入って来るニュースはどれもきな臭い。
だが、カナギシュ王国は過去の栄光はなくなったがこの先の緩やかな平穏は残っていると考えていた人々を驚かせる一報が流れるとは誰も考えていなかった。
驚天動地の一報はノイズから始まった。
ラジオからざざざと不協和音が響いたかと思えば、聞いた事のない女の声が響いたのだ。
「タナザの指導者の一人、ステラリア・ソーマが告げる。カナギシュ王国は過去の罪を償わねばならない。期日までに贖罪の意思を示さなくば我らと矛を交える覚悟があるとみて、我らは我らの行動を開始する」
そして、古いカナギシュ語で更に何かを付け加えた。
「不浄……焼き払う……隻眼の」
店主に分かったのはその辺の言葉だけだったが、隻眼と言う言葉に思わず青年を見やった。
食後のコーヒーを啜りながら青年は一度天を仰ぐ。
初めて飲んだ時は非常に恐る恐る飲んでいたコーヒーは今や彼の好物であった。
そして、呟いたのだ。
「君だったのか……いやはや、無体な事を」
それが何を意味しているのか店主にはさっぱり分からなかったが、隻眼の青年ベルシスは代価を置いて立ち上がった。
「ごちそうさま。また明日」
突然の宣告に慌てふためく声が響いている中、青年は慣れた事だと言わんばかりに平然としていた。
そこに事態が呑み込めていない孫娘のシャーリーが一冊の本を持って戻ってきた。
「ベルシスお兄ちゃん、これが前に言った神君様の伝記だよ」
「……へぇ、ちょっと見せて」
「良いよ」
孫娘から本を与りページをめくる隻眼の青年。
彼ら二人だけは日常を維持し続けているように見えて店主は妙な気分を覚える。
孫娘はともかく何が起きているのか理解している筈のベルシスが、あまりに泰然としているのが不気味とまでは言わないが奇妙に思えた。
「これは良い方向に書きすぎているよ」
「えー? すごく良い人って聞いてるけど!」
「ベルシス・ロガはね、生きるのに必死だっただけだよ。必死に生きて戦った結果、神君なんて呼ばれてしまっているけれど」
「神君様嫌いなの?」
「……自分を嫌いな人間は少なくないけれど、私は違うかな」
その言葉の奇異さを一瞬店主は理解できなかった。
孫娘が首を傾いだ瞬間に慌ただしい雑踏がいっそう騒がしくなった。
人々が驚きの声を上げる視線の先には竜人がいたのだ、ここ四半世紀は人前に姿を現さなくなった竜人の女が。
「ベルシス! まことにベルシスか! いや、間違いない! お前は正にベルシス!」
「やあ、エルーハ。あんたが生きていて嬉しいよ」
「久しぶりではないか、ベルシス・ロガよ!」
ベルシス・ロガ。
ゾスの大将軍の一人にして、後に覇王ベルシスと呼ばれた男。
或いはカナギシュ王国の祖の一人、神君と定められた王。
タナザの突然の高圧的な布告に続き、過去の覇王が目の前にいると言う。
笑い話にしかなりそうにない事態だったが、店主は何故かその言葉が真実だと思えた。
「え? お兄ちゃんが神君様だったの!?」
「神君じゃないよ、ベルシス・ロガさ」
「どちらでも同じじゃろ。ギザイアとの戦いで果てたと聞いたが、なぜ今ここにいる?」
「どこから話せば良いのやら……」
「じゃあ、この伝記のここから話してよ! レヌ川の攻防戦の後から」
「……ここで?」
困ったようにくすんだ灰色の髪をくしゃり掻いて隻眼の青年は苦笑い浮かべた。
だが、彼の続く言葉を孫娘も竜人も自分はおろか周囲の者達も聞きたいと感じたようで、彼に視線が集まった。
その視線を受けて、彼は困ったように数百年前の戦いについて語り出した。
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