黄泉方舟

古根

鯨影

 悲しくて空を見上げると、行き交う雲と、そこから差し込む光の中にはたくさんの魚が群れをなしていて、まだ明るい西の方に向かって一斉に泳いで行くのが見えた。じっとそれを見つめ続けていると、胸のうちにわだかまっていた冷えた喪失感も少しずつ大気に洩れて溶け出していくようで、私は自分の心のうちのそれを洗い流すようにいつまでもそのさまを見つめていた。


*


 日が暮れてから、鉛丹と二人で連れだって山道を下っていく。空はすでに殆ど光を失っていて、青くスクリーンのようにも見える空を背景に、木々の梢が黒々と伸びており、まるで影絵のようだった。ところどころに佇む街灯が、その光が届く範囲だけ梢を緑色に明るく浮かび上がらせている。


 鉛丹の手は僅かに汗ばんでいて、ひんやりと冷たかった。


 たどたどしい足取りの足音が、私よりも少し遅れてついてきている。狭い山道には歩道などもなく、車通りのない車道の真ん中を二人でゆっくりと歩いていく。アスファルトを踏みしめる二人分の足音。静まり返った山道に、蜩の鳴き声が遠くから細く流れてくる。


*


 幾らか行くと、車道の脇に少しだけスペースが設けられていて、眼下に山間の街並みが一望できた。夏の夜の湿った大気が崖を駆け上ってきて、服と耳をバタバタと揺らしていった。私は隣の鉛丹を伺った。


 鉛丹はまだ、表情のないまま遠くの街並みをぼんやり見つめている。


 思わず手を伸ばそうとして、鉛丹の手を握っている指をほどこうとしてしまい、慌てて思い留まった。鉛丹の髪が風に靡くも、幾束かが頬に張り付いており、除けてやりたくなるが、手を離すと彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうな恐ろしさが同時に胸中をよぎっていた。


 左腕を持ち上げ、手の甲の腕時計を見る。


 空を見上げると、あれほどたくさん群れていた魚はもう殆どいなくなっており、打って替わって、今や天を覆いつくすほどに大きな影が頭上に横たわっていた。その影は、見ているうちにも僅かずつ手前から奥に向かってじんわり動いており、しばらく見ていると鰭のようなものを認めて、それがたぶん巨大な鯨なのだということがわかってくる。


 しばらくして、地面が僅かに震えだした。同時に、地の底から沸きだしてくるような、低く、軋むような音が辺りを満たしていく。


*


 やがて鯨は去って行ってしまった。


 街にはすでに灯りが点り切っている。眼下に広がる街並みはまるで宝石箱のようで、今や行き交う車のヘッドライトさえキラキラと美しく煌めいて見える。

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