ノードリーム・ノーライフ/命無き者の夢

きょうじゅ

第1部

序章 マヤの死神イシュタム

序章第1話

 最初に認識することができたのは、自分には身体からだがない、ということだった。意識はある。だが意識だけだ。他には何もなかった。幽体とか霊体とか、そんなものすら自分にはあるように感じられなかった。


(なんだ。おれは、なんだ?)


 おれ、という認識だけはすんなりと出てきた。性別という観念も知っている。つまり、俺は男性か、男性だったか、少なくともそれに親和的な何かである、というのが直感的に分かる。


(なんだはこちらの台詞よ)

(む?)

(あなた、何なの?)

(分からない。そういうそちらは?)

(すぐ上に“居る”でしょう。見えない? 見るっていう能力、備わってる?)


 “そちら”に意識を向ける。すると、大樹の枝から幾つもの首吊り死体がぶら下がっているのが見えた。そのうちの一体は、女だった。いや、女はいいが、死体じゃない。眼が開いている。目に光がある。だが、生きているというのとも違う。こいつは……と思っていると、そいつが口を開いた。


「私はイシュタム。かつてマヤの民に信仰された、死者たちを楽園に導く女神。死神と言ってもいい」

(すると、おれも死者なのか)

「……分からない。少なくとも、お前は私がここへ、世界樹ヤシュチェの木陰へ招いた存在ではない。だから訊いているのよ。何なのかって」

(それが、自分でも何も分からないんだ。気が付いたら、ここにいた)

「いる、というのがそもそもおかしい。お前は亡霊ですらない、存在するはずのない何かよ」


 イシュタムがこちらに向ける意識が、ぞっとするような波動を帯びたのを感じる。これは、殺意だ。いや、おれに命が無いのなら、殺すも何もないのだろうが。


「消えなさい。このヤシュチェの木陰は死者のための楽園。招かれざる者が存在を許される場所ではない」


 まずい。何が何だかまったく分からない状況だが、一つ分かることがある。おれは消えたくない。このまま消されるわけには絶対にいかない。だが、おれの勘が告げているのだがこいつは口先の説得が通じるような相手でもない。


 咄嗟だった。考えた上での行動ではなかった。おれはイシュタムではない、しかし同じようにヤシュチェからぶら下がっている死者に“憑依”した。その相手も、肉体を持ってはいなかった。ここは既に死後の世界だということらしいから、まあそれはそうだろう。だが、おれはその相手の霊魂に取り憑き、乗っ取ることができた。つまり霊体を手に入れたのだ。


 同時に、イシュタムの放った正体不明の波動がおれの霊体をすり抜ける。危なかった。あのままでいたら、今ので消されていた。


「我が楽園の死者を冒涜するか、命無き者ノーライフがッ……!」


 そう言われましても。命は無いのかもしれないが、それでも消えたくないんだよ。


 イシュタムの殺意は変わらない。ここは彼女のテリトリーだ。いろんな手段を持ってるだろう、多分。ここは、三十六計逃げるにしかずというやつだ。というわけでおれは、逃げよう、という意識を発した。すると、簡単にイシュタムの楽園、ヤシュチェの木陰からは離れることができた。


 霊体といえども行動の自由を得たおれは、とにかくイシュタムの殺意が途切れるまでと思い、一目散に逃げた。イシュタムは追ってこようとしたようだが、何しろ本人も首吊り死体の姿なのでよっこいしょ、と縄を外して地面に降り立ち、多分運動不足なんだろう、よたよたと走り始めたところまでは認識していたが以降は振り切ってしまったので把握していない。


 どこをどう逃げたのか、だいたいここは何処なのか、さっぱり分からないが、気が付くとおれは一つの立派な扉を押し破り、中に転がり込んでいた。


 振り返ってみると扉にはプレートがあり、こう書いてあった。

『知恵、知識、情報承ります 魔界の大公爵 ダンタリオン』




【イシュタム】マヤ神話


 マヤ神話に登場する、死者、なかんずく自殺者を世界樹ヤシュチェの木陰にある楽園へと導く役割を担う女神。彼女が楽園へと導くのは、首を吊って死んだ者、聖職者、産褥で死んだ女、そして生贄であったとされる。イシュタムの楽園において、死者たちは永遠の饗宴に与り、全ての欲望を満たされ、安息に満ちた生活を送るという。

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