麻雀について
麻雀が好きだ。
最近も気付くとアプリで2時間麻雀をしていたりする。おかげで執筆が一向に捗らない。
コンピュータと、いかにも積み込みアリです!高い役を上がって下さい!みたいな麻雀ゲームは流石に面白味をあまり感じないのだが、最近のアプリは対人戦でそうしたイカサマ臭があまりしないものもあるので、ついついハマってしまう。
麻雀というのは非常に奥の深いゲームである。
ただ、訊いてみると意外と出来ない、やったことがない、という人が多い。成人した立派な大人がである!これは情けない!由々しき事態である!文部科学省は是非とも義務教育として麻雀を採用すべきである!
……というのは半ば冗談ではあるが、半ばは本気である。
私は将棋も好きであるが、将棋というのは100%実力以外の要素のないシビアなゲームだ。プロに素人が勝つことは100万回やっても無い。もちろんプロ側が手を抜いたり駒を落としたりしない限りに於いてではあるが。
対して麻雀は運の要素が多分に入って来る。素人がプロ相手に勝つことはそんなに珍しいことではない。どんな配牌になっているか、何をツモってくるかはまさしくランダム、運任せだからだ。だがそれでも長い目で見ればプロの方の勝率が高いことは確実だ。10局もやってプロが負け越すことはほぼないだろう。運の要素もあるが結局は実力のある人間が勝つ。ゲームとはすべからくそういうものだ。
この運と実力の要素の割合がどの程度なのかという問題に関しては、人によって意見が異なる。運7:実力3という意見もあったがそれは麻雀を舐めすぎだろう。運3:実力7くらいが妥当なのではないかと私は思う。
しかしまあ、この運の要素が麻雀の魅力なのは間違いないだろう。素人でもプロに勝つことが有り得るのだ。そしてもしかした次は勝てるかもしれない、という希望的観測が人を麻雀の沼に沈めてゆく。だから麻雀をする人々は皆『徹マン』といって徹夜でやることを常とするのである。
だからだろうか、やはり麻雀には未だに少し不健全なイメージが付き纏う。もちろん麻雀のゲーム性やシステムが賭け事にぴったりだというのも間違いなくあるだろう。しかしギャンブル性という意味では将棋だってトランプだって賭け事にしようと思えば出来るわけで、麻雀だけがそうした偏見を浴びるのはいわれのないことだろう。
私の母親は正にそうだった。
私が麻雀というゲームを知ったのは小学校1~2年生くらいのことだったと思う。兄がずっと麻雀のテレビゲームをしていたからだ。それに『ニャロメの麻雀入門』という本も兄が持っていた。最近では『シナモロールとはじめる子ども将棋入門』という本もあったがそんな感じだろうか……いや、恐らく少し違う。ニャロメの方は劇画調タッチの地獄のシーンとかもあり、やはりそこまで可愛いものではなかった。……ちなみに『シナモロールとはじめる子ども将棋入門』は私も購入した。分かりやすくて圧倒的に可愛いので、お子さんがいらっしゃる方は是非。現在麻雀で同様の入門書を作るとしたらどのキャラだろうか?『竈門炭次郎とはじめる麻雀入門』だろうか?うーん、やはり許可が下りなさそうな気がする。やはり麻雀はまだイメージが少し悪い気がするな。
藤井聡太の出現によって将棋が子供の教育に良いというイメージは強いだろうが、同じくらい論理的思考力を磨く麻雀、とはあまり理解されていないように思う。
……かなり話が逸れた。まあ要は私は例によって下の兄の影響もあり小学校低学年で麻雀を覚えたわけだ。あ、その前にドンジャラが幼馴染の賢太郎君の家にあったことが下地を作ったのも間違いないだろう。本来はドンジャラも4人で出来るはずだが、ずっと賢太郎君と2人でやっていた。
そう、で、母親が麻雀を大嫌いだったのだ。
「神の教えに基づいて麻雀などは相応しくない!今はたしかに金を賭けているわけではないかもしれないが、ハマってゆくうちに絶対に金を賭けるようになるからダメ!」というようなことを言っていた。
何でドンジャラが良くて麻雀がダメなん?とは当然子供心には思っていたし、賢太郎君の家も同じ宗教を信仰していたにも関わらずファミコンの麻雀ゲームを保有していた。母親の言っていることがおかしい、とは思っていたが、まあ論理的に正しいかどうかなどはあまり関係のないことで、母親の言うことに従っていた。……自作で画用紙を切り抜いて麻雀牌を作っていたものも、母親に見つかり泣きながら捨てた。
小3になると五島君という友達が出来た。彼はとても頭の良い子で小学生ながらクイズ大会で優勝したりしていたし、京大に入ったという噂もあった。(残念ながら疎遠になってしまったので真偽は分からないが彼なら有り得ると思う)。その五島君の家で初めて本物の麻雀牌に触れた時はとても感動したものだ。当時は4人メンツを揃えるのが難しく3人でよくやっていた。3マ(3人麻雀)には3マの正式なルールがあるようだが、当時はそんなもの知らず4人麻雀と同じようにやっていた。
その後どこかで牌を手に入れると(五島君の家のものを持ち出していたのかもしれない)、家ではなく外で段ボールの卓を作り打っていた。当然相手は同級生ばかりだったのだが、今思い出すと「みんな小学生なのに麻雀覚えて偉いなぁ」という感想を抱く。
そうなのだ。先述した通り、大人になって会った人たちに「麻雀出来る?」と聞いてみると意外とやったことない、出来ないという人が多い。そして、大人になってから覚えようとするのは結構大変だ。何事も大人になってから始めるのは大変だろうが麻雀は特に大変だ。
役は基本的なものだけで38種類あるそうで、もちろんそれを全部覚えなければゲームが成り立たない……というわけでもないのだが、覚えている人間とはレベルの差が明らかに生じてしまうわけだ。他にも基本的なルールだとか点数計算など、全部のルールを細かく覚えるには大人の凝り固まった頭では結構大変だろう(自分も点数計算などはパッと出来るわけではない)。
小学校高学年の時はあまり麻雀をやっていた記憶はないのだが、中学校に上がって出来た友達が麻雀を持っていた。学生の頃からの友達で今も仲良くしているのは2人だけなのだが、この2人はその当時の麻雀がきっかけで仲良くなった。このように麻雀をすれば一生の友達も出来ることが証明されているわけだ。みんなも若いうちから麻雀に親しむべきだと思う。
東京に出てきてから初めて雀荘というものに入った。
今までは誰かの部屋でマットを敷き手で牌を積んでいたわけだが、全自動卓というものは恐ろしく便利で、自動で配牌までを済ませてくれる。これには感動した(自分たちの手で牌を混ぜるのが情緒があって良い、という感覚も分かるが)。雀荘というと不健全の権化……みたいなイメージだったが、場所代もびっくりするくらい安く、まあタバコの煙は充満しているのでその点は不健全だが、出入りしている人間も結構高齢の人が多く不健全というほどでもない。
将棋は実力しかないという意味でシビアだが、麻雀は逆に間違いなく最善を尽くしたとしても勝てるわけではない、という意味でシビアだ。
麻雀をやっていると、とにかく自分の間違いの多さ、判断の甘さに向き合わざるを得ない。嫌というほど実感させられる。甘い判断だったのに勝てることももちろんあるわけだが「お前はそれで勝って良しとするのか?」と常に問われているような気になってくる。
この辺はそれぞれの麻雀観が出てくるところだろう。ツキを信じてそれを味方にするために験を担ぐのか、はたまた運の要素を無視してどんな場合でも確率に従って打っていくのか……。常に攻撃ばかりを考えるのか、守備も重視するのか……。いつも冷静でいられるのか、思い通りにいかないと感情が出てしまうタイプなのか……。麻雀には人間性が出る。驚くほど露骨に出る。だから私は親しい人と実際に卓を囲んでやるのが好きだ。息遣いが感じられることが醍醐味だという面もあるし、中途半端な知り合いとやるのは怖いとも言える。
最初の方で言った通り、麻雀はめちゃくちゃ奥の深いゲームだ。何が正解かはその場面場面によって変わってくるし、判断する要素もとても多い。自分の手牌だけでなく相手の捨て牌、得点状況なども考えてゆくと本当は一打ごとに長考したいくらいだが、同時に麻雀はリズムのゲームでもあるので長考はマナー的にNGだ。でも捨てた後に「いや、やっぱ全然違うだろ!何であっちを捨てた!?」ということが間違いなくある。
知識が増え理解度が増すに従って判断する要素も増えていく。だから余計に間違いが見えて苦しくなってゆくとも言える。
私はバリバリの唯物論者で、運とかツキとかいった不確定要素をさも得意気に語るような人間を見下しているので(いや見下しているわけではないが……)、基本的には確率に殉ずるような打ち方をしたいと思っている。つまり究極的には勝つか負けるかはどうでも良くて、自分が確率的に正しい判断をし続けられるかを試すゲームだと思っている。
……のだが、もちろん実際はそうはいかない。「何でこの待ちが上がれねえんだよ!」「ふざけんな!バカタレが!」一人スマホでやっているとそんな声ばかりが出てくる。(あ、もちろん誰かと卓を囲んでいる時はそんなことないですよ!)上手くいくという前提のもとに思考を組み立てていることの証拠だろう。人間的にまだまだ精進が足りない。
もう一点甘さを上げるとすると、上がれた千点よりも上がれなかった役満を尊ぶような傾向がある。もちろん他の人も多少なりとも同様の傾向はあるだろう。どんなに希少性の高い役でも上がれなければ1点も入って来ないわけで、それよりは千点(麻雀における最低得点)でも上がっておいた方がプラスになるのだが、どこか一発逆転がある、と信じたいロマンチストな気質が自分の中にはある、ということだ。……いや一発逆転を本気で信じているというよりも「上がれなかったけれど自分は高得点を目指した」という免罪符を得ようとしているのかもしれない。
先述した通り私は運とかツキという要素を信じてはいないのだが、それでも麻雀をやっていると運とかツキとか流れみたいな要素を信じたくなってくる。そんなこととは関係なく常に自分が正しい判断を続けられるか……それが試されるという意味でまさに麻雀とは修行である。
さて今まで見てきたように麻雀とはほとんど人生である。雀卓とは修行の場であるし、卓を囲む敵は人生を共に歩み教えを与えてくれる仲間でもある。
あとはまあ、結局配牌もツモも自分の力ではどうしようもないことばかりだ。それでも自分にとっての上がりが何かを判断し、最善を尽くさなければならない、という意味でも人生は麻雀だ。
みんなも一緒に麻雀をしよう!レートは安めにしておくから!
(当エッセイは賭け事としての麻雀を推奨するものではありません!)
(了)
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