宗教2世問題について・続
2月9日にハートネットTVで放送された宗教2世問題に関する前回の続きです。
今回は主に私自身の体験について、そしてそれを今どう受け止めているか、ということについて書きたいと思います。
以下略歴のようなものです。
私は現在30代の男です。生まれた時から『エホバの証人』(以下JWと略記)2世として育てられました。
私の家は父、母、姉、兄、兄、私という 6人家族で、兄弟とはいずれも10歳以上歳が離れています。
JWなのは両親と姉で、兄二人は入信したことはありません。父親は既に亡くなり母親と姉は現在も信仰しています。
兄二人がJWになることを拒んだ為か、母親は私を立派なJWに育てようと躍起になっていたようです。
幼児の頃は幼稚園や保育園にも行かず、ほぼ毎日午前中3時間の伝道活動。週3回の集会とそれに備えての予習という日々でした。
小学校に上がってから伝道活動は(長期休暇以外は)週末だけになりましたが、年齢が上がるにつれて次のステップに進むようにという親からのプレッシャーは強くなりました。
一つ我が家の大きなトピックとしては、私が小6の時に父親が亡くなったことです。
それからの母親は「あなたしかいない」という態度をより鮮明に、私に模範的なJWとなるようプレッシャーをかけてきました。
夫の死という悲しみを背負った母親に対して、私は強く自分の意志を表明することは出来ませんでした。弱さも一種の暴力だと思いました。
私自身は「神など存在しない」と小学校低学年の頃から思っていました。同じ歳のJWの幼馴染と「神様なんか居ないよな!」という会話を低学年の頃にしたことを覚えています。
何かそう思う明確なきっかけがあったわけではなく、直感的なものでしたが知識を得て世の中を知るにつれそれは確信へと変わってゆきました。
集会に参加しなくなったのは高校生の頃でしたが、その後もJWの人々との交流は多少続きました。
辛かった点は色々あります。
幼児期に受けた鞭は物理的に反抗する意志を奪う虐待だったと思います。私は何かある度にガスホースで尻を叩かれたことを鮮明に覚えています。
また何か行事がある際に、行事等に参加せず周囲とは違っていなければならない、そしてそれを自ら先生に証言しに行かなければならない……というのは子供にとって酷なことだったと思います。
色々と制限されたこともあります。私は特に若い時分にスポーツに打ち込めなかったことを今でも悔やんでいます。
しかし一番大きな点は自分の将来に絶望していたことでしょう。「自分の人生は思い通りにならない、このまま流されてJWとして一生やっていくんだろうな」とずっと思っていました。
一番腹立たしいのは色々なプレッシャーをかけてきたにも関わらず、選択を「自分で選んだことにされる」ことです。そう言われると、子供ながらに次の選択も整合性を取るためにその方向に進まなければならなくなります。非常に巧妙なやり方だったと思います。
幼少期にJWとして育てられたことは親から与えられた障害のようだと思っています。冒頭に書いた通り私は30代ですが、人生に対する投げやりな態度をずっと引きずっているように思います。
以上がJW2世として私の略歴です。
宗教2世問題に関する一番の問題点は、幼少期からの人格形成がその教えのもとで成される、ことだと思っています。0歳から15歳の15年間と、20歳から35歳の15年間とでは人生に於ける意味が大きく違ってくることには賛同いただけるのではないでしょうか。
教団内部で全て完結する生活を死ぬまで続けられたら、それはそれで幸せなことだと思います。しかし現代日本に生きる2世たちは、学校に通い社会と交わらなければなりません。そうなるとそこで価値観のズレが生じ、自分を客観的に見ることになりその齟齬に非常に苦しみます。
世間一般の「普通」を理解するということは、自分がいかに「普通でないか」を理解してゆくことでもあるからです。
だから大人になり親元を離れ、組織とは縁が切れたとしてもそれで問題が解決とはなりません。後遺症のようなものは死ぬまで付きまとうのです。
「自分の好きなものを選びとる力が養われなかったのかな」ということを番組内で、『かなさん』(仮名)が語っておられました。これは宗教2世の後遺症の大きなものでしょう。この言葉に私は非常に共感しました。
私自身は、考え方や能力面など様々な点で問題を抱えていますが、子供の頃は特に自分の主張をするのが苦手でした。自分の主張が通らないこと……それが自分の行動に関することですら自由にならないことが平常になってゆくと、自分がこうしたいと主張をすることすら出来なくなってゆきます。そしてその内に自分の主張というもの自体がなくなってゆきます。親の意図を汲み取って親の望む言動をとった方が、お互いにストレスなく円滑に物事が運ぶことが子供ながらに分かってくるからです。
またそれに伴い感情を表現することが苦手です。親の前で「嫌だ」という感情をストレートに表現することは、お叱りと懲らしめ(鞭)の対象となったからです。この点は最も顕著な教育の賜物として現在に至っています。
感情表現の乏しい人間はあまり好かれませんし、また「普通」の子供たちと違っていることが自分にとって当たり前だと理解してゆくと孤独にも自然と慣れてゆきます。人間関係を築いてゆくこと、人間関係の中に入ってゆくことが私はずっと苦手でしたし諦めてもいます。
宗教2世問題についてよく使われるフレーズとして「宗教によって人生が大きく狂わされた」というものがありますが、これに私は少し違和感を覚えます。
狂わされた、というのは何か正解の道筋が存在し、そこに至るまでに大きく遠回りさせられた……という場合に使うことが正しいように思えるからです。宗教2世は自分にとって何が正しいのか、自分がどうしたいのか、それすら分からない人が多いのではないかということです。
一方で世間とのズレに対して敏感でもありますが、間違った土台の上に育てられた自分が真っ直ぐその一般的な幸福を目指すことが正しいのか、と疑問に思ってしまうのです。
私自身はそういった確信の持てない態度、グラグラの価値観の上でずっと生きてきました。
加えて0か100かという思考パターンに非常に陥りやすいのも特徴だと思います。100を選べないなら0で良いや。今さら60を目指すくらいなら0で良い。そんな態度で得損なってきたものが多いのは間違いないと思います。
宗教2世・JW2世の中でも、私の考えや態度はやや偏っているかもしれません。同じ2世でも立派に社会に適応し自身の家庭を築いている方も沢山いるからです。
番組内で登場した『ゆうじ』さん(仮名)は、まさにそういった方です。27歳の時に脱退するまでずっと宗教活動に専念し、学歴も職歴もない中で苦労して就職し家庭を築くまでに至る……高校生の頃に辞めた私よりも遥かに難しい状況にありながら、本当に尊敬に値します。
ゆうじさんは、子育てに際して常に「親の価値観を押し付けているのではないか?」という不安が付きまとう。ということを語っておられましたが、これはとても健全なことのように子育ての経験のない私には思えました。実際に子育てを経験された方からすればこれは良くないことなのでしょうか?意見をお聴きしたいです。
私は高校生の頃にJWの組織から何とか脱け出しました。しかしその後もしばしば組織の人々との交流は続きました。ほぼ断ち切れたと言えるのは20歳で東京に出てきたタイミングです。
生まれてからずっとそこで築いてきた人間関係もあるわけで、ある意味での心地良さは間違いなくありました。JW組織内の人間関係に絶望してとか、逆に組織以外の人間関係が密になり、ということがきっかけではなく、私は純粋に教義を信じられず、信じられないままこの組織に留まることは正しくないと思い、辞めました。本当の意味で人生を諦めていたならばそのまま留まるほうが幸せだったかもしれません。それでもそうしたのは、なぜか私自身が「正しさ」というものにこだわる性格だったからという他ないと思います。
「JWの組織から抜け出せば、それさえ出来れば幸せになれる!」と子供の頃は思っていました。
しかし辞めた後の人生が上手くいったとは言えないように思います。いや……上手くいかせようとしていたのか?それすら怪しいように思います。
布団の中で泣きながら、絶望と怒りとで歯ぎしりし、頭がクラクラしてくることが子供の頃はよくありました。無論大人になってからそういったことはほぼ無いのですが、ごく稀にその感覚を思い出すと「懐かしい!」と感動しそうになります。
つまり世間一般的な幸福を目指すことよりも、そういった怒りと絶望にまみれていることの方を自分自身は無意識の内に選んでいたのではないか?とすら思うのです。
……いや、何だかんだ言い訳をつけて純粋に怠慢だったのではないか?自分の価値観を変えてゆくことに臆病だっただけではないのか?
……いやだが、その時点で持っていた価値観や思考パターンは、自分自身で選び取ったものと言えるのか?状況的にそうなるしかなかったんじゃないのか?人間が自由意志のもとで選んでいるものなんて本当に存在するのか?
このように私の価値観は常に懐疑的でグラグラしています。それは大学時代に哲学と出会ったこととも関係しているでしょう。
JWという宗教2世として育てられたことを自分自身がどう思うか、という点では思考はどうしてもメタな方向に向かいます。
一次的に評価するならば「宗教などはクソ、人類史上最大の害悪」となるのですが、しかし私をその宗教のもとで育てた両親も広い目で見れば被害者とも言えるし、そうせざるを得なかった必然性があるということになります。
世の中にはもっと過酷な十字架を背負って生まれてくる人が沢山存在します。そうした人と比べれば私などは幸福でしょう。
そもそも自分の幸福を一般的な他人の幸福と比べることなどとっくの昔に諦めているので、幸せのハードルが低いとも言えます。だから自殺を漠然とずっと考えていた子供時代よりは全然幸せかもしれません。
また、私の幼少期は怒り・絶望・諦念などネガティブなもので溢れていましたが、それも財産なのではないか?という気もしてきます。そうした過去があるから、(良し悪しは別にして)現在生きられていることは間違いないからです。「生まれてこない方が良かった」と過去に何度も思いましたが、ネガティブな感情をどれだけ抱くことになろうとも「存在しないよりは、それでも生まれてきたことは良かったと言える可能性がある」と今は思っています。
結局のところ、他人と比べることの無意味さ、有り得たかもしれない違う自分を想像することの無意味さを思うのです。
いやしかし、社会的な問題として2世問題を考えるならば、私のこうした視点は邪魔でしょう。
現在進行形で苦しんでいる2世の若者たちが現に存在するわけです。
彼らには何よりも、生きることの喜びや楽しさを知ることが必要です。社会性や規範だとかは全てそれが前提になっているからです。「生きていることに価値がない」と思っている人間には何を説いても無駄です。
どうか絶望している若者たちには幸せになって欲しいです。
しかしまた逆のことにも気を付けなくてはなりません。宗教2世として育ってきた人間が自らの意志でその組織に留まることを選ぶのだとしたら、それは彼らの自由だということです。その点を忘れて組織から抜け出すよう強制するのならば同じ穴の
さて何が言いたいのか分からない、非常に散漫な文章になってしまいました。
2世としての経験を振り返るということは、私の人生そのものを総括するようなものだったからかもしれません。
読んだ方が何か考えるきっかけになってもらえばこれに勝る幸せはありません。
以下蛇足ながら、宗教者の方々へお伝えしたいと思います。
日本では信教の自由が保証されていますから、宗教を信じることは何の問題もありません。
私はJWの出身者としてあなた方の素晴らしさをとてもよく知っています。JWだけでなく他の宗教を信じている方も、真摯に向き合っている方は素晴らしい人格の方ばかりであることを知っています
だからこそ、ご自身の子供にそれを強制することはやめて欲しいと思います。あなたが信じている宗教が素晴らしければ子供は放っておいてもそのもとに来るでしょう。
子供にとって親は絶対的な存在です。しかし子供は親の所有物ではなく別の独立した人格です。どうかそのことを忘れずにいて欲しいと思います。
(了)
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