ハイパーハードボイルドグルメリポートについて

 他にも色々書いている途中のものはあったのだが、昨日の深夜テレ東で放送されていた『ハイパーハードボイルドグルメリポート』があまりに心に刺さったので、そのことについて書く。『TVer』というアプリをダウンロードすれば多分一週間くらいは無料で観られるので、時間のある方はぜひ観て欲しい。


 同番組は「世界のヤバイ奴らはどんな飯を食っているのか?」というテーマを掲げ、今まで日本のテレビクルーでは潜入出来なかった危険な地域に、ディレクター1人・現地のガイド1人で体当たりで取材をする、というドキュメンタリーバラエティー番組だ。

 不定期な放送ながら今までのテレビとは異色の番組で、強烈な印象を残している。

「単にそういった危険地域の潜入取材で、番組名に入っている“グルメ”の部分が意味あるのか?」という気も一瞬するのだが、やはり飯を食うというのは根源的で人間が如実に表れる場面なので、そこに注目するのはとても正しいという気にさせられる。




 昨日の放送は約一年前にアメリカで取材されたもので、KKKという白人至上主義秘密結社と、ニューブラックパンサー党という黒人至上主義団体という二つの団体に密着していた。誤解のないように補足しておくと、取材した地域がアメリカ内でも異なるため二つの団体が直接的に衝突しているシーンはない。


 内容の説明に関しては、実際に番組を観て欲しいので最小限に留めたい。

 

 どちらも至極普通の人たちに見えた。

 KKKという存在は有名で、悪の秘密結社の代名詞のようなイメージを持っている人も多いと思うが、放送でさらされた彼らの素顔は、ごくごく素朴な田舎の男女というものだった。取材の対象となった現地のボスはKKKに入ったきっかけを「麻薬でダメになっていった周囲の人間を何人も見てきた中で、麻薬根絶を訴えるKKKに共感した」と語っていた。

 対するニューブラックパンサー党の取材の対象となった幹部は「祖母を白人に突然殺されたことがきっかけで党に入った」と述べていた。

 

 一見至極普通の人たちに見える彼らだが、その主張は過激だ。

 KKKは「黒人がいることで犯罪率は2倍になっている。そしてメディアはそれを報じない!黒人を排除しろ!」と主張するし、ニューブラックパンサー党は「白人、及び白人の手先になった警官による黒人殺しがあまりにも多い!もともと白人はアメリカ大陸の人間たちじゃないだろ、白人を排除しろ!」と主張していた。

 そしてこれは、ある意味でどちらも真実なのだと思う。

 黒人が白人に不当に敵意を向けた場面も実際にあっただろうし、逆の場面も当然あっただろう。

 そうした場面を切り取ってしまえば当然それが印象に残る。その印象を日々の中で増幅させた当人たちにとっては「黒人は敵」「白人は敵」という信念が確立されるのは当然のことだと思う。

 黒人による不当な迫害と、白人による不当な迫害、統計を取ってどちらかが悪いかを決めよう、などという視点は当人たちにとっては何の意味もなさない。

 彼らは目の前で家族や同胞を殺されているのだ。その強烈な体験こそが彼らにとっての唯一無二の真実なのだと思う。

 紛争や人種差別といった負の連鎖はこうして無くならないのだな……ということをとてもリアルに感じさせられる。




 同番組はこれまでも様々な地域に潜入し、スラムなど過酷な状況で生きる人々に密着してきた。

 もちろん番組として彼らの背景について話を聞き、それが映像と生の声で届けられるというリアリティがあり、我々視聴者はそこに感情移入せざるを得なくなる……という仕組みが訴えかけるに強いものであることは分かる。


 でも、だ……現代日本に生きる我々は、そんなこととっくに知っていたはずじゃないのか?と思うわけだ。世界各地で、未だに人種や民族や宗教やその他様々な要因によって対立が続いていること、それが非常に根深いもので、今も多くの当事者たちがそうした問題に生涯をかけて闘っている……ということを知っていたはずではないか?

 世界のスラムでは、貧困にあえぎ、過酷な生活を送っている人間がいることを我々はとっくに知っていたのではないだろうか?

 なのに何故今さらこんなに衝撃を受けるのだろうか?

 何が善で、何が悪か?どう感じるべきか?という疑問は番組を観た後にいつまでも残る。

 いつまでも残るこのモヤモヤ感が最高だ。


 


 善悪・幸不幸・正しさといった直接的な疑問の後には、もう一段階外側の疑問が大きくなってくる。

「我々は現在、あまりに見たいものだけを見ること、得たい情報だけを得ることに慣れすぎていないか?」という点だ。

 そして類似するもう一点は、番組ディレクターの上出さんがインタビュー記事でも語っていたことなのだが

「最近の分かりやすさ至上主義は過剰ではないか?」という点だ。


 まず最初の問いについて少しだけ考えてみたい。

「日本から遠く離れた外国の、過酷な状況に生きる人々の生活を知ることに一体何の意味があるのだろうか?」とも反問的に考えられるだろう。

 ほぼ全ての日本人にとってそれらは、直接的には関係のないことだ。

 遠い外国の出来事よりも、自分の日々の仕事や人間関係の方が重要だ。自分のカクヨムの連載をどうするかの方が大事だし、来週のアニメの展開がどうなるかの方が気になる。……これは笑い話としてではなく事実として挙げている。自分の認識の及ぶ範囲が、世界だ。自分がさして関心を持てないことを無理に思い悩むべきだとは決して思わない。

 ……だけど、それだけで良いのだろうか?と、どうしてもモヤモヤが残る。世界にはもっと切実な問題に直面している人がいることがこうして示されてしまったのだ。

 ……だが恐らく私は何か具体的な行動をとるわけではない。現地に行って彼らのために何かするような行動力はないし、多分寄付もしない。

「彼らに比べて自分はなんと恵まれていることか、感謝して生きよう!」と思うことが間違いではないだろうが、それだけで良いのだろうか?

 難しいのは、過酷な状況に生きる彼らが必ずしも不幸には見えない場合があることだ。

 以前の放送では、ケニアのゴミ山でゴミを漁って生計を立てている少年に密着していた。密着終盤になり、番組Dが「あなたは今、幸せですか?」と尋ねると、少年は「あなた(番組D)に会えたから幸せだよ」と答えたのだ。我々から見れば不幸にしか見えない彼だが、我々の基準で彼を判断してはならないということだろう。

 だけど…それでも…衣食住足りていない彼を幸せと呼んではいけないような気持ちは残る。幸せとは何か?という問いに「人それぞれ」と答えて良いのかすら分からなくなってくる。

 このように価値観が揺さぶられることを(無意識に)避けて、人は情報を選別しているのかもしれない。

 でもだ……これは私の個人的な意見だから、そうは思わない人がいることも理解しているが……やっぱり番組で取り上げられたような人がいることは現実だ。私は“この現実”の方が二次的な現実よりも価値が高いと思っている。


 もう一点の「最近の分かりやすさ至上主義が過剰ではないか?」という点については、特に語る点はない。私は過剰だと思う。あらゆる箇所にあふれている。

 自分でも小説を書いていて思うのは、描写を分かりやすくしなければならないという点もあるが、物語全体に必然性を持たせなければならないという点だ。伏線を張ってストーリーの進行を考え、心情にリアリティを持たせるために設定を考える。……その巧みさが筆者としての力量だと言っていいだろう。読者としてもそうした必然性を求めている。何の脈絡もないストーリー展開は駄作の烙印を押されるだろう。

 だが現実はそうではないということだ。現実は圧倒的に理不尽で、我々が理解出来る理由などはほんのごく一部に過ぎないということだ。

 同番組が魅力的なのは、分かりやすさ至上主義に対するカウンターになっているから、という点があるのは間違いないだろう。


 さて、いつにも増して何が言いたいのか分からない文章になってしまった気がする。

 同番組の過去回は何度も見返しているのだが、何度見返してもモヤモヤは増すばかりで、どんな感想を持てば良いのか分からなくなる。

 ただ私はこうして自分の価値観が揺さぶられるような刺激を非常に好ましく思っている、ということだけは強調しておきたい。






 (了)

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