夢の向こう側

セツナ

夢の向こう側


 私は走っていた。小さな足を可能な限り大きく動かし走っていた。

 吐く息は荒く熱く、体内から熱を出そうと一生懸命に空気中に溶けていくが、それでも私の気持ちが安らぐことは無い。

 今は何時なのか昼なのか夜なのか、何も分からない。ただ一つ分かることは周囲に立ち並ぶ建物の様子から、どうやらここが遊園地だという事くらいだった。

 駆けて駆けて、ようやく立ち止まったその時に口から「どこにもいない」と言葉が漏れた。私はずっと誰かを探して走り回っていたのだ。けれどその『誰か』が誰なのか分からない。

 気が付くと目元から雫がこぼれ落ちて、それに続くように大粒の涙が止めどなく溢れてくる。

「ふっ……ぐ、どこなの……?」

 周りの人に泣いているのを気づかれたくないと、服の袖で目元を拭ってみる。今まで他の人など居るのかどうかも気にしていなかったのに。

 歩みを再開することなく、その場でひたすら嗚咽を漏らす私を大きな影が覆った。

「大丈夫?」

 見上げるとそこには大きなピエロが立っていた。逆光で見える顔は白く塗られていて、大げさな道化師メイクが施されている。感情が分からないそれが、どこか不気味に感じた。

「だい、じょぶ」

 大きく息を吐き出して、さらに強く目元を拭う。泣いてる所を、弱みを見せられない。

 ゴシゴシと拭った袖を下ろすと、ピエロは肩をすくめて手に持っていた風船を差し出してきた。

「君はまだ探し続けているんだね」

 私を見透かしたかのように言うピエロの言葉に唇を噛みしめる。

 何も知らないくせに。

 感情に任せて言葉を吐き出そうとした瞬間、目の前が真っ白になった。


○  ◎ ○


 目が覚めるといつもの風景がそこにあった。茶色の天井、視界の端に映るカーテンと窓、頭上でセットしていたアラームが鳴り響いている。確認してみるとまだ出かけるには余裕のある時間で安心する。身体を起こしてアラームを止めた私の手は、ちゃんと二十代後半に差し掛かろうとしている女の手だった。

 重たい頭を右手で触りながら、記憶から消えていこうとする夢の内容を引き留める。幼い私が、遊園地を走り回る夢。

 最近、同じような夢をよく見ている気がする。目覚めた後にいつも寂しい気持ちになって、目覚めた布団の中でしばらく意識に残り続ける夢だ。

 今回の夢は周りの様子がはっきりと見えていたが、その様子は子どもの時に連れて行ってもらった地元の遊園地によく似ていた。

 就職を機に関東に単身で越して来てからしばらく経ち十年単位で行っていない場所なのに、思い浮かべてみるとそこだとしか思えない程そっくりだった。

 何度も見るこの夢は、あまりにリアル過ぎて不気味だ。最初は所詮夢だと気にしないようにしていたけれど、最近見る頻度も多くなって来たので目覚めて活動している時間でも夢の内容に気を取られる事が増えた気がする。

 身体を起こしたまま思い返していると、再びアラームが鳴り響いた。時間を確認すると、そろそろ動かなければまずい時間になっていて急いで支度を始める事にした。


○  ◎ ○


 いつも通り会社に出勤すると、人の良さが顔に滲み出ている上司が私の顔を見るなり声をかけて来た。

「あ! 日高(ひだか)さん!」

 足を止め軽く会釈をして「おはようございます」と挨拶をする。

「おはよう!」

 上司も手を上げて返してくれるが、すぐに呼び止めた本題を切り出してきた。

「実はね、さっき人事から連絡があったんだけど……日高さん有給が溜まりすぎて、このままだと無駄になっちゃうらしいんだ」

 上司は眉尻を下げながら「僕が気付けなくてごめんね……」と謝ってくれる。

 有給が溜まっていたのは知っていたが、特に休日が欲しいと思っていなかったので気に留めていなかった。

「せっかくだし無駄にするのももったいないら、旅行にでも行ってきなよ。僕が何とかするからさ」

 普段なら遠慮してしまうところだが、続いた上司の言葉で気が変わった。

「里帰りしてみるとかさ。日高さん地元遠いから中々帰れないでしょ?」

 瞬間『地元』という単語と同時に、ずっと気にかかっていた夢の遊園地が脳裏をよぎる。

「じゃあ……お言葉に甘えることにします。お気遣いありがとうございます」

 お礼の言葉と共に上司へ頭を下げた。

 そこからの上司の行動は早く、業務引継ぎの期間を設けてもらい、二週間も待たずに私は一週間の有給休暇を貰えることとなった。


○  ◎ ○


 休暇の日程が決まった段階で地元への飛行機の予約をした私は、案外スムーズに休暇初日から飛行機に乗ることができた。

 東京、羽田空港から飛行機で二時間。地元が遠いとは言っても、飛行機で行けばそんなに遠い場所でもない。

 けれど就職してから一度も帰郷していないのは、やはり心の距離の方が離れているからなのだろうか。

 私は就職と同時に関東に単身で越してきた。そして私の両親は故郷には居ない。むしろどこへ行ってももう会うことは出来ない。

 父親はもしかしたら生きているのかも知れないが、どこで暮らしているのかは分からない。小さい頃は私も父親が大好きだったが、小学校低学年の時に突然姿を見ることが無くなった。母親に尋ねてみても悲しい表情を浮かべて黙り込んでしまう。年齢を重ねるにつれ、父は母と私を置いて家を出て行ってしまったのだと悟った。

 それから母は女手一つで一人娘の私を育ててくれた。そんな母の苦労に応えようと私も必死に勉強を頑張り、無事に進学を続け就職が決まった矢先……母は長年の無理がたたったのか、病気を患い呆気なく亡くなってしまった。結局、母との間に父親の話題が上がることはほとんど無かった。

 母を失った喪失感に浸る間もなく大学を卒業し、私は関東に越してきた。仕事を始めてからは毎日があっという間に過ぎていき、昔のことを思い出す暇もなかったのが何よりの救いだが、こうして地元に戻っていると色々と思い出してしまう。

 今回帰郷するにあたり当時、唯一交流のあった母方の叔母に当たる人に連絡をしてみた。すると二つ返事で泊めてくれるという事だったので、ありがたく甘えることにした。彼女は母を亡くした私の世話をしばらく見てくれた人で、私からの連絡を喜んでくれた事に何となくホッとする。

 機内の窓から見える雲で出来た白い海を眺めながら、ゆっくりと目を閉じると心地よい振動の中で私は眠りに落ちた。


○  ◎ ○


 空港に着くとありがたいことに叔母夫婦が迎えに来てくれていて、私の顔を見つけるなり駆け寄ってきた。

「佳穂(かほ)! 見ない間に大きくなったねぇ」

 私の手を取り満面の笑みを浮かべる叔母と、その後ろをゆっくり追ってくる叔父の顔を見た瞬間、一気に懐かしさがこみあげてくる。

「しばらく帰ってこれなくてごめんね。迎えに来てくれてありがとう……」

 いつまでも手を離さない叔母と傍にいる叔父にお礼を言う。二人はただただ笑って迎えてくれた。

 それから叔父の車で二人の家に招かれ、家に着くころにはすっかり日は沈んでいた。その日の夕食は叔母の手料理がずらっと並んでいて、一人では絶対に作らないその量に目を丸くしてしまう。

 食事を終えると地方のローカルテレビやニュース番組をしばらく眺め、叔父は早々に布団に入った。叔母と二人きりになると、テレビが消され温かい煎茶を彼女が淹れてくれた。

「本当、見ない間に大人になったねぇ」

 叔母がしみじみと言った言葉と口に入れた煎茶がじんわりと心にしみる。

「全然帰ってこれなくてごめんなさい」

 顔を伏せると叔母は「いいんだよ」と笑ってくれた。

「佳穂が頑張ってるのは分かってるからね。こうして帰ってきてくれるだけで嬉しいさ」

 田舎の夜はうるさい車の音や人の声も全く聞こえず、時折遠くで犬の鳴き声が聞こえるだけで、ただただ穏やかだった。

 煎茶を飲み終えると叔母がゆっくりと腰を上げた。

「今日は疲れただろう。布団敷いてあるからもう寝なさい」

 一緒に私も立ち上がり、あてがわれた部屋に行くと既に客人用の布団が用意されていて大人しく寝ることにした。

 時計を見ると、まだ日付も変わってなかったが、布団の中は心地よくすぐに眠りに落ちた。夢は見なかった。


○  ◎ ○


 高く響く鳥のさえずりと、まぶたを閉じていても感じる柔らかい光で目が覚めた。

 薄く瞳を開けると、寝る時は真っ暗だった室内もほんのり明るんでいて、自宅で目覚める時よりもずっと穏やかな朝だった。

 時計で時間を確認すると朝の6時半で、普段仕事に起きる時よりも少し早い時間のはずなのに、身体に残っている疲れが全くない。夢も見なかったし余程よく眠れたのだと思う。

 味噌汁の香りが鼻先をくすぐり、私はゆっくりと上半身を起こす。台所の方からはリズミカルに包丁でまな板を叩く音が聞こえてくる。叔母が朝食を作ってくれている事を察した私は、寝癖を確認する間もなく急いで布団を出た。

「叔母さんごめん、寝坊しちゃった!」

 食器を洗う叔母の横に慌てて並ぶと彼女は「そんな気にしなくていいのに」と笑いかけながら、手についた水気をタオルで拭った。

 近くの机には既に器に注がれている味噌汁と湯気のたつ白ごはん、そして昨晩の残りが用意されていて、叔母が手を触れる前に私はそれらを運ぶ事にした。

 お盆に乗せれるだけ乗せて、居間に運ぶと叔父が朝のニュースを付けながらちゃぶ台で新聞を読んでいる。叔父の分からそっと朝食を置いていき叔母の到着を待って手を合わせた。

「いただきます」

 昨夜も食卓に並ぶ料理の量に驚いたが、朝からこんなにしっかりとしたご飯を食べられる事なんて自分一人の生活ではありえない事で、私は噛み締めるように箸を進める。

 食事も半分ほど進んだ頃合いで、叔父がふと顔を上げて私に尋ねた。

「そう言えば佳穂は今日はどうするんだ」

 問われ、私は今回の帰郷が決まった時から決めていた事を伝える。

「今日は……遊園地に行こうと思ってる」

 突拍子もない単語に驚きの声をあげたのは叔母の方だった。

「えっ、遊園地?」

 それはそうだろう。もう成人して久しい女が帰郷して真っ先に行くところでは無い自覚はある。だが、どうしてもあの夢の事が私の頭から離れないのだ。

「遊園地って、あの高台にある遊園地の事かい?」

 聞かれ頷いて見せると、叔母は余計驚いた顔をする。

「車で行きたいんだけど、住所が分からなくて。大体の場所は分かるんだけど、運転してたどり着けるか不安だから教えて欲しいの」

 来る前から決めていた事だ。真っ直ぐに二人を見つめると、戸惑うように口を開いた叔母が何かを言う前に叔父が腰を上げた。

 滅多にちゃぶ台を離れない叔父の、予想外の動きに私も叔母も驚いてその動きに注目する。

 叔父は近くの壁にかかっている郵便物などが入っているポケットをしばらく探って、細長い紙を取り出し私に手渡した。

「これで大丈夫か」

 叔父から渡されたのは随分とくたびれていたが、私の求めていた遊園地のパンフレットだった。裏面にはしっかりと住所と簡単な地図が書かれている。

「叔父さんありがとう!」

 叔父へ礼を言うと、叔父は一つ頷き味噌汁をすすった。


○  ◎ ○


 公共交通機関の発達していない田舎では車での移動の方が断然便利だ。

 叔母は自分達の車を貸してくれると言ってくれたが、それでは二人の生活を邪魔してしまうと私は近所のレンタカーショップで車を借りる事にした。

 予約無しで行ったが難なく軽自動車を借りられたので、カーナビにパンフレットの住所を入力し早々に発車する。

 大学に通っている段階で、就職の幅を広げるために運転免許を取っていて良かったと、こういう時に思う。

 窓の外を通り過ぎていく景色とナビの案内の声、流しっぱなしのご当地ラジオを聴きながら改めて自分が大人になったのだと実感してしまう。

 車を走らせ三十分程で目的地に到着した。

『目的地付近に到着しました。運転お疲れ様でした』

上り坂を散々走らせた末、無機質な言葉とともに案内は終了された。広々とした駐車場に車を停めて、私は遊園地に続く入場門の前に立ち尽くす。

見つめた門は遠目からも塗装が剥げている事が分かるほどに、傷んでいた。その先に見える景色も、記憶の中と全く違ってアトラクションは全て動いておらず人の姿は一つも見えない。入場門を塞ぐようにかけられたチェーンには、数年前にこの遊園地が閉園した事を伝える小さな看板がかけられていた。

 あまりに予想外の出来事を飲み込めないまま、遊園地跡地を眺めていた私だったがなんとか我に返り車で叔母の家に戻る事にした。


○  ◎ ○


 帰り道のことはよく覚えていないが、気がつくと私は叔母の家に着いていて夕食を囲んでいた。

 昨夜と同じように、夕食を食べ終わると叔父は先に布団へ入り叔母と私は二人きりになる。叔母は申し訳なさそうに私を見ると謝ってきた。

「遊園地が潰れてたこと、黙っていてごめんね。佳穂が子どもの時にお母さん達と一緒に行ってた遊園地だったから……何か事情があったんだろう?」

 そう心配をしてかけられた声にさえ言葉を返せずにいる私に、叔母はそれ以上何も聞こうとはしなかった。


○  ◎ ○


 私は歩いていた。その足は短く視点も低い。足取りは重く、とぼとぼと歩いていた。

 周囲には沢山の人がいて、その話し声が騒がしく感じる。

 私は一人で歩いていて、やはり誰かを探している。すれ違う大人達の顔を見ながら、違うちがうと頭を振る。

 また涙が溢れそうになり慌てて下を向くが、手で押さえるのが間に合わず足元に広がるオレンジのアスファルトに滴が落ちて染みを作る。

「どこなのぉ……」

 不安を吐き出した瞬間、ボロボロと涙が止まらなくなる。増えていく染みに、気がつくと遂に嗚咽も漏れてきてしまう。そしてそのまま、私は地面にしゃがみ込んでしまった。

 立ち上がる気も失せ、息もできないほど嗚咽が酷くなった頃に頭上から声をかけられる。

「大丈夫?」

 顔を上げるといつかのピエロがそこに居た。その顔を見た瞬間、私は唇を噛みしめ堪えるように呟いた。

「だいじょぶ……じゃ、ない」

 悲しい悔しい寂しい、もう歩き出せない。

 ピエロの顔は相変わらず表情が読めないが、もう私一人ではどうしていいか分からなかった。

 しばらくこちらを見つめると、彼は肩を大げさにすくめて見せ座り込む私に手を差し伸べる。

「じゃあ一緒に探そう?」

 しばらく見つめた後に、私は恐るおそるその手を取る。ピエロはそのまま私を立ち上がらせてくれて、手を繋いだまま一緒に歩き出してくれた。


○  ◎ ○


 昨日と同じように差し込む光で目を覚ます。ゆっくりと瞳を開けると、木製の天井を見つめたまま先程まで見ていた夢をぼんやりと思い出す。

 ずっと見ていた夢。夢に出てくる遊園地。そこに行くために帰ってきたのに、結局行けなかったその場所。無くなってしまっていた思い出の場所。

 すぐに身体を起こす事が出来ず、ぼんやりと遊園地の事を思い出す。そんなつもりは無いと思っていたが、どうやら私にとってあの場所に行くことが今回の一番の目的だったらしい。虚無感が身体にのしかかってくるような感覚に襲われる。

 しばらくそうしていると、叔母が襖越しに声をかけてきた。

「佳穂起きられるかい?」

 時計を確認するともう七時を過ぎていた。

「ごめん、今起きるね」

 叔母に返事をするとゆっくりと身体を起こし、食卓に向かった。

 叔父叔母と共に朝食を取る。私の口は思うように動かず、それに気付いているのか二人もあまり声をかけてこなかった。

 食事を終え並んでいた食器が下げられると、叔父は麦わら帽をかぶり外へ出かけた。何かを聞く前に叔母が「畑に行くのよ」と教えてくれた。

 叔父が居なくなり、静かになった居間でぼうっとテレビを付けていると、叔母が麦茶を持ってきてくれた。

「ありがとう」

 お礼を言って目の前に置かれた麦茶に手を伸ばす。持ち上げるとグラスの表面についた水滴が垂れる。

 よく冷えた麦茶へ、口をつける私を見つめていた叔母が不意に口を開いた。

「お母さんも今の佳穂を見たかっただろうねぇ」

 叔母の言うお母さんは、勿論私の母を指しているのだろう。

「そうかな」

 呟いた私の声は自分で分かるほど暗かった。しかし叔母は私を見つめて嬉しそうに笑った。

「そりゃそうだよ! 佳穂はずいぶん立派になったじゃないか!」

 屈託ない叔母の笑顔へ上手く笑い返せない。何も言えずにいる私へ叔母は更に言葉を続けた。

「お母さんはいつも言ってたよ。佳穂はいい子だって、私と話すたびに」

 懐かしむように叔母が目を細める。母と叔母は仲が良かったので昔から連絡を取り合っていた事を思い出す。

 母は叔母が大好きで、母が叔母と電話で話している時には横で母の声を聴いてるだけの私でも、その相手が叔母だとすぐに分かる程だった。

 父親が居なくなってからも、あの人が笑顔でいられたのは叔母の存在が大きかったと思う。

 私を育てるために母は仕事に励みいつも辛そうにしていたから、叔母と母が電話をしている時はその笑顔にいつもホッとしていた。

「私は本当にいい子でいられたのかな」

 当時を思い出し、小さく呟く。

 母は私がいたから余計辛い思いをしたのではないだろうか。ずっと胸に引っかかっていた想い。

 叔母は少し黙ると腰を上げた。

「佳穂ちょっと待っててね」

 言うなり叔母は部屋を出て行った。家の奥の方から様々な物を動かす音が聞こえ、それが落ち着くと廊下を擦るように歩く叔母の足音が聞こえてくる。

 居間へ戻ってきた叔母の手には一冊のノートが抱えられていて、机の上に置かれたそれの表紙には『佳穂の育児日記』と書かれていた。

「これね、お母さんが佳穂を産んだときに付けてたノートだよ」

 ノートから顔を上げ視線があった叔母はいつもの笑顔を浮かべていた。

 表情を変えずに「読んでみな」と促す叔母の言葉で、私はノートに指を伸ばす。

 僅かに震える指先で表紙をめくると、一ページ目に生まれたばかりの赤ちゃんの写真があった。その下には私の生年月日と共に『佳穂誕生日! 元気に泣いてます』と母の字で書かれていて、私の視界は一瞬で滲んだ。指で目元を拭ってノートの続きを読み進める。そこには母が産まれたばかりの私に与えた食事量や、当時の様子や体調、体温などが毎日書かれていた。

 その中には当たり前のように父親の名前も出てきていて、私が初めて何かをできた日には、その時の写真と喜びのコメントが書き込まれている。日によっては母の不安や心配なども書かれていたが、必ずその後に前向きな言葉やニコニコマークが書かれていて母の気丈な様子がよく現れていた。

 ノートは最後のページまでしっかり書かれていて、私が一歳半になるくらいの日付でノートは終わっていた。その最後のページには母と幼い私、そして私を抱っこして微笑む父親と三人家族の幸せな写真が貼り付けられていた。

 そこまで読み終わった時には、私の目元からはもう隠せないほどの涙が溢れていて、見守っていた叔母がティッシュの箱を渡してくれた。

「分かっただろう? お母さんは佳穂の事が大切だったんだよ」

 叔母の言葉に何も言えないまま頷く。そうだ、いつだって母は私の事を第一に考えてくれていたのだ。

 顔を拭き終わり、ノートを閉じると私は叔母に向き直る。

「ありがとう、叔母さん……このノート貰ってもいいかな?」

 目の前の叔母は微笑み頷いた。

「勿論さ。それは佳穂の為のものだよ」


○  ◎ ○


 気がつくと私は歩いていて、ここがいつもの遊園地だと気付いていた。

 前にここを歩いていた時よりも、心なしか視線が高くなっている気がする。スカートの下に膝丈のスパッツを履いていて、あぁこれは小学生の時にお気に入りだった洋服だ、とぼんやりと考えていた。

 頭を働かせながらも周囲の様子を見てみると、ここはいつもの遊園地のようだがこの前よりも人が少なく、歩いていても押し潰されそうな怖さは感じない。

 やはり私は一人で人を探して歩いている。多少の心細さはあるが、立ち止まって泣いてしまうほどではない。

 すれ違う人にぶつからないように歩いていると、周囲の人より頭ひとつ高い影を見つける。例のピエロだ。

 私は彼に近づくと軽く会釈をして問いかけた。

「私のお母さん知らない?」

 彼は指を顎の下に置き頭を傾げて大げさに考えるような仕草をした後、ニッコリと笑顔を浮かべた。

「君のお母さんなら、アイス屋の隣にあるベンチに座っていたよ」

 変わらず表情の読めないメイクだったが、どこか嬉しそうに見えた。

 ピエロの彼は左手に大量に持っていた、ぷかぷかと宙に浮く風船をひとつだけ右手で取るとそれを私に「どうぞ」と渡してきた。

「ありがとう」

私は彼にお礼を言い、風船を受け取る。頭上で踊る風船は昔好きだった赤い風船だった。

 楽しげに揺れる風船をお供に、ピエロに教わったアイス屋へ向かう。白いアイスクリームの看板が見えた。昔から見かける度にお腹が減って、両親にねだってしまっていた思い出深い看板だ。そして、それが見えたと同時に私は駆け出す。走る私の姿に、看板の先のベンチに腰掛ける女性も気付いたようだ。

 彼女が私の名前を呼ぶより前に、私は勢いよく彼女のその身体に抱きついた。

「探したよ、お母さん」

 私を強く抱きしめ返してきた母の両手は細かったが、柔らかく温かい。

「待ってたわ。……大好きよ、佳穂」

 そして母の温もりを感じながらかけられた言葉に、目元がじんわりと熱くなる感覚を覚えた。

「私も、ずっと大好きだよ」

 お母さんの娘でよかった。と、続く言葉を声に出せなかったが、母は返事をするかのようにまた私を強く抱きしめる。

 包まれた母の腕の中で、ゆっくりと視界は閉じられていった。


○  ◎ ○


 鳥の声が聞こえてパチっと目が覚める。まぶた越しに光を感じる暇もない程、一気に意識が覚醒した。時計を確認するが、時間はまだアラームをセットした時間より早い。

 ゆっくりと身体を起こしそのままストレッチの要領で上半身を伸ばすと、大きな音を立てないように洗面所に向かう。廊下に出ると途中台所の前で水音が聞こえてきたので中を覗くと、叔母がお皿を洗っていた。

「おはよう。叔母さん早いね……!」

 私の方が早く起きられたと思ったのに、驚きが隠せない。

「あら、佳穂おはよう! よく眠れたかい?」

 叔母は笑顔でこちらを振り向くなり、私へ気遣いの言葉をかけてくる。

 敵わないなぁ……と思いながら「ぐっすりだよ」と返事をして、叔母の隣に立ち朝食の手伝う事にした。叔母が味噌汁を作っている間に私は玉子焼きを作ってみる。いつか運動会の前夜に母が台所で玉子焼きを作っていて、レシピを教わってから私が一番得意にしている料理だ。

 焼いた玉子を手際良く巻いていくと、隣の叔母が感嘆の声を上げた。

「上手だねぇ」

 私の何倍も料理上手の叔母に褒められて嬉しくなる。

「叔母さんほどじゃないよ」

 照れ隠しに笑って見せた。料理の手を止めず叔母が遠くを見るように目を細める。

「あなたのお母さんともね、こうしてよく作ったんだよ。……確かお母さんも玉子焼きが好きだったね」

 こちらを見ている叔母の目は、私の後ろに母の姿を見ているのだろう。優しい目をしていた。

 返す言葉を探していると、叔母は視線を鍋に戻して言葉を続ける。

「お母さんがね、お弁当作りたいから玉子焼き教えてくれって言うんだよ。……あなたのお父さんにお弁当作るんだ、って嬉しそうにさ」

 突然出てきた父親の話に私の手が止まった。その様子に気づく事なく叔母の話は続く。

「お母さんは結局、最後までお父さんが大好きだったねぇ」

 叔母の話す母親の父親への気持ちは、私の覚えている記憶とは全然違う。母は無責任に私達を置いて出て行ったあの男を憎んでいたんじゃなかったのか。

「え……っと、お母さんは出て行ったお父さんの事、ずっと好きだったの?」

 火を弱める事なく手を止めている私の様子がおかしいと、そこでようやく叔母も気付いたようだ。

「佳穂、あんたもしかしてお母さんから何も聞いてないのかい?」

 慌ててこちらを見た叔母の顔も酷く驚いていた。視線をしばらく合わせた後、叔母はそっと玉子焼きと味噌汁の火を消して私を抱き寄せる。

「ご飯が終わったら、ちゃんとその話もしようねぇ」

 味噌汁と玉子焼きの香りが、叔母の割烹着に強く染み込んでいた。


○  ◎ ○


 その後、すぐに叔父も起きてきて三人で朝食を食べた。

 叔父も叔母も私が作った玉子焼きを、美味しいと嬉しいそうに食べてくれて誇らしい気持ちになる。

 食卓に並んだ朝食は相変わらずどれも美味しかったが、叔母と先程話した父の話がずっと私の中に引っかかっていた。

 だから、朝食が終わり食器を片付け叔父が畑に出かけた後、叔母がお茶を煎れてくれるのを待たずに私は話を切り出した。

「あの、父の事……」

 叔母は分かってるよ、と頷くと話を始める前にお茶を煎れてくれた。今日は温かいほうじ茶のようだ。

 湯呑みを私の前にそっと置いて、叔母は口を開いた。

「お母さんからは、なんて聞いてるんだい」

 置かれた湯呑みに手を触れる事なく、私は答える。

「お母さんは……何も言わなかった。いつの間にか父はいなくて、私がその事を尋ねると話せなくなるくらい泣くから。詳しくは何も聞けてない」

 叔母は私を見つめていたが、言葉が途切れると近くに来て背中をさすってくれた。

「そうだったんだねぇ」

 背中で感じる叔母の手が上下に優しく撫でてくれる。

「だから私は、父は私とお母さんを置いてでてったんだと……ずっと思ってる」

 だから、先程の叔母から聞いた母の気持ちがまだ全然信じられない。

「佳穂のお母さんも辛かったんだろうが、そう思うと佳穂も辛かっただろう」

 背中をしばらく撫でた後、叔母がそっと私の肩を抱く。気付くと涙がこぼれそうになっていて、何も答える事ができない。

「あなたのお父さんはね、家を出たんじゃなくて亡くなってしまったんだよ」

 叔母の口から静かに真実が語られていく。

 父は私が中学校に上がる直前に、交通事故で亡くなったらしい。母との結婚記念日を間近に控えデパートにプレゼントを買いに行く途中だった。交差点を歩いて渡る際に速度を上げて曲がろうとした車に轢かれ、病院に到着する前に息を引き取った。

 事実だけが叔母の口から語られる。母は相手からは慰謝料だけ受け取って、実際に会うことはほとんどしなかったらしい。事故の直後に自分のせいだと苦しみ、仏壇も家に置けず塞ぎ込んでしまっていたと叔母は悲しそうに目を伏せた。

 当時の事を思い返すと、確かに父がいなくなった時期は常に母は疲れた表情を浮かべていた。けれど私が学校から帰るといつも無理やりでも笑っていたから、私は何も聞けずにいたのだ。

 きっと辛かっただろう。そんな中、私は何も母を支える事が出来なかったのだ。自分の無力さに唇を噛み締めてしまう。

「でもね」

 隣で叔母が語りかける。

「お母さんは佳穂が居たから頑張れたんだよ。きっとあなたが居なかったら、お母さんは立ち直れなかっただろうね。しばらくしたらお母さん、佳穂のために頑張るってわざわざ私に言いに来たんだよ」

 だから自分を責めちゃいけないよ。叔母がそう背中を撫でる。

 何も言葉を返せない。口を開けば喉の奥から嗚咽が漏れてしまう。

「お父さんもお母さんも佳穂の事が大切だったんだ。あなたは二人の宝なんだよ」

 それ以上、叔母は何も言わなかった。ただずっと私の背中を撫で続けた。

 どれくらいの時間が経ったか分からないが、ようやく嗚咽も治り叔母に頭を下げた。

「叔母さん、ありがとう」

 お礼を言うと叔母は目元にシワがよるいつもの笑顔を浮かべる。

「佳穂は私にとっても娘みたいなもんだからねぇ」

 言って最後に背中をポンポンと叩いた。そして近くの棚の引き出しからアルバムを取り出して私の前に置く。

「あなたたち家族のアルバムだよ。来るって聞いた時から渡すつもりだったんだ」

 表紙をめくると、そこには幼い私とまだ若い母、そして父の写真がいくつも入っていた。

 遊園地のメリーゴーランドに乗っている私を父が後ろから抱きかかえるように支えながら、カメラを構えているのであろう母に手を振っている写真が目に入る。

 再び視界が滲んでくる中で、それを強く抱きしめた。

「ありがとう……」


○  ◎ ○


 夕暮れでオレンジ色に染まる遊園地。閉園時間が近いのだろうか。周りを歩く人並みはまばらだ。普段よりも色が濃く見える地面を、しっかりと踏みしめながら私は歩く。

 視線は大人とほとんど変わらないくらい伸びていて、身につけているのは高校の制服だった。

 誰を探しているのかはハッキリと分かっていて、どこに行けばいいのかも分かっていた。

 迷う事なく真っ直ぐと園内を歩いていると、道中でいつものピエロがこちらを見ていた。その手にはバルーンで作られた色とりどりの花束があって、彼はその花束を私へ差し出してくる。

「今の君にはこれが必要だろう?」

 大げさな身振りの彼から花束を受け取ると「ありがとう」と頭を下げて礼を言い、再び歩き出した。

 ようやく辿り着いたのは、写真にも写っていたメリーゴーランド。幼い私が大好きで、両親にお願いして何度も乗っていた白い馬がゆっくりと回っている。

 メリーゴーランドを取り囲む柵の前に、写真と変わらない姿で父は立っていた。

 彼は私が近付くずっと前から微笑みを浮かべ、真っ直ぐにこちらを見ていた。

 最後の数メートル、私が駆け足になると父は両手を広げた。私は迷う事なく勢いそのまま腕の中に飛び込む。

「お父さん、ありがとう。ずっと言えなくてごめんね」

 その広い肩に顔を埋める私に、父は回した手で肩を優しく叩いた。

「立派に育ってくれてありがとう、佳穂」

 身体をようやく離して、私が差し出したバルーンの花束を受け取ると父は微笑みながら泣いた。

 何かを言っていたがその言葉はよく聞こえなかった。けれど私は聞き返すことはせず、温かい気持ちに包まれたまま目を閉じた。


○  ◎ ○


 その朝もスッキリと目が覚めた。やはり先に起きていた叔母と料理を作り、叔父より先に家を出る。明日には仕事に戻るために、関東に戻らなければいけない。前回と同じ車を借りて、私は最後に行かなければいけない場所へと向かう。

 車を走らせるとそこに到着する頃にはもう夜で、辺りはすっかり暗くなっていた。

 駐車場に車を停め入場門の前に立つ。前回来たときには閉鎖されていて、人の気配の無かったそこは、夜なのに明るく輝くアトラクション達で活気に満ちていた。

 入場ゲートから中に入るとすぐに例のピエロが立っていた。彼は大げさな仕草で右手を曲げる、まるで執事のように恭しくお辞儀をして私を迎えた。

 高くなった視線、背筋をしゃんと伸ばし程よく化粧もした二十代の私はピエロの彼の前に立つ。

「やっぱりこれも夢なのね」

 目の前で思い出の中よりも一際眩しく光る、遊園地の様子に目を細めて呟く。

 顔を上げたピエロは、私を見つめてやはり大げさに肩をすくめた。

「もうお別れだからね。好きなだけ遊んでいくといいよ」

 にっこりと笑って、その長い手を大きく上に広げた。

「最後の夜だ。イッツショータイム!」

 ピエロが声高らかに宣言すると同時に指をパチンと鳴らす。それを合図に園内に煌びやかなイルミネーションで飾られた神輿達の大行進が始まる。遊園地の最後を飾る、夜のパレードだ。

 その様子に驚く私だったが、気付くと笑顔を浮かべて光の波に駆け寄っていた。

 最後の夜のパレードを楽しむために。


○  ◎ ○


 来た時と同じキャリーバッグを転がしながら、私は空港にいた。目の前にはこの数日お世話になった叔母と叔父がいる。二人は笑顔を浮かべていたが、少し名残惜しそうだった。

 キャリーバッグの上には、大きく重いバックが載せられていた。中身は叔父の畑でとれた様々な野菜がどっさり。ダメにするからと遠慮をしたのに、叔母が無理やり持たせてきて断りきれなかったのだ。

「叔父さん、叔母さん……ありがとうございました」

 頭を下げると、二人は声を揃えて「またいつでもおいでね」と言ってくれた。

「うん。ありがとう!」

 頷き叔母と叔父へ最後の挨拶、と軽く抱きしめ合う。離れて時間を確認すると、いい時間だったので二人に手を振り搭乗改札を抜けた。

 改札越しに再び二人に手を振り飛行機へ向かう。歩いていると、視界の端にお土産売り場が見えて、上司や同僚へのお土産はどうしようと足を止めた。

財布を確認するために、脇に抱えたバックを開けると、中に深い緑色の布が見える。万が一汚れないようにと、その中には母の日記とアルバムが包まれている。

 賑わう遊園地の夢が一瞬頭をよぎる。けれど、きっとあの夢を見ることはもうないだろうと確信していた。

 お土産と美味しそうなお弁当を買って、再び歩き出す。窓の外はよく晴れた青空でそこに浮かぶ白い雲のように、歩く私の足取りはとても軽かった。


-END-

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夢の向こう側 セツナ @setuna30

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