脱脂綿
鯨井イルカ
第1話 脱脂綿
耳に詰まった脱脂綿のおかげで、少しも眠れなくなってしまった。
それでも、諦めきれずに三時間ほど常夜灯の下でもぞもぞと寝返りを打っていたが、眠気は遠退いていくばかりだ。
仕方がない、いっそのこと起きてしまおう。
そう思い、寝床から這い出して部屋の明かりを点けた。
すると、すぐに違和感に気がついた。
寝室だと思っていた場所は、まるで手術室のような場所に変わっていた。
その場所が手術室だと言い切れなかったのにはいくつかの理由があるが、分かりやすい理由を一つだけあげることにしよう。
タイル張りの床の上に、どことなく汚れたやっとこやら、ペンチやら、イトノコギリやら、不穏な物が散らばっていたからだ。
ひょっとしたら、床に散らばっていた物は診察や治療に使う器具だったのかもしれない。
しかし、たとえそうだとしても、使い終わった器具を床に投げ置くようなところは、まともな医療機関ではないだろう。
長居をしては、あまりぞっとしない結果になる。
そんな気がしたため、私は診察台のような物の側で、辺りを見渡し出口を探した。
すると、辺りを取り囲む灰色をした壁の一部に、白いカーテンのような物がたなびいているのが見えた。
しかし、そのカーテンには、なにかべっとりとした汚れが付着していた。
長居をしなくても、あまりぞっとしない結果になるのかもしれない。
そう思うと、自然と深いため息が漏れた。
私は落胆しながらも、床に落ちていたイトノコギリのような物を拾い上げ、出口とおぼしき場所に足を進めた。
そして、べっとりとした汚れの付着したカーテンをつかみ、捲り上げた。
カーテンの先には、診察室のような部屋が広がり、床の上に膝の高さにも満たない大きさをしたクマのぬいぐるみが置かれていた。
そのぬいぐるみは、なぜかべっとりと汚れた白衣を着て、チェーンソーを手にしていた。
唖然としていると、ぬいぐるみはチェーンソーの切っ先をこちらに向けた。
ブゥーンと音を立てるチェーンソーの後ろで、ぬいぐるみは歯を見せながら笑っていた。
私はあまりの恐ろしさに、一目散に駆け出した。
運良く、駆け出した先に出口とおぼしき扉があった。
これで助かる。
そう安堵したのも、束の間だった。
扉の先にある部屋には、木箱が乱雑に積み上げられているだけで、扉も窓も一切見当たらなかった。
私は他に出口がないか確かめるために、診察室へ振り返った。
すると、ぬいぐるみが小刻みに震えながらチェーンソーを振り回し、徐々にこちらに振り返ろうとする姿が目に入った。
どうやら、木箱の中に身を隠しながら、ぬいぐるみが諦めることを祈るより他に、できることはないようだ。
私は意を決して次の部屋へ飛び込み、扉を閉めてカギをかけた。
それから、扉から一番遠い場所にある木箱まで足を進め、その中に身を隠した。
木箱の中で息を殺していると、遠くからブゥーンという音が聞こえた。
その音は、診察室のような場所で聞いていたよりも、幾分か低いように聞こえた。
そんなことを考えていると、今度はバタンという音が響き、再びブゥーンという音が高さを取り戻した。
ぬいぐるみは、扉を切り倒してこの部屋へ入ってきたようだ。
それから、部屋の中にはブゥーンという音が低くなったり高くなったりしながら響きはじめた。
その音は、少しずつ少しずつ大きくなっていく。
一体、なぜこんな目に遭わないといけないのか?
狭い木箱の中で、そんな恨み言と嗚咽がこぼれそうになるのを必死に堪えていた。
しかし、原因はまったく分からなかった。
そうしているうちにも、ブゥーンという音は低くなったり高くなったりしながら、着実に近づいていた。
そこで、私はある一つの可能性に気づいた。
耳に詰まった脱脂綿のせいで眠れなかった他は、いつもと何も変わらない夜だったはず。
それならば、耳に詰まった脱脂綿を取り去ってしまえば、いつもと何も変わらない夜に戻るのではないだろうか?
しかし、そんな簡単なことで絶望的な状況が打破できるとも思えなかった。
それでも、ブゥーンという音は既にかなり大きくなっていた。
こうなったら、僅かな可能性にかけるしかない。
そう決意し、私は耳に詰まった脱脂綿に指を伸ばした。
それなのに、脱脂綿は先ほどよりも耳の奥へ進んでいたため、震える指ではうまくつかめなかった。
ブゥーンという音は、もうすぐそこから聞こえていた。
早く、どうにかして、脱脂綿を取り除かなくては。
そう焦れば焦るほど、耳介が邪魔をして脱脂綿がつかめない。
そうだ、耳介さえなければ、脱脂綿を取り出すことができるはず。
気づいた時には、私は持っていたイトノコギリの歯を耳の付け根に押し当て、力一杯持ち手を引いていた。
そして、邪魔な物がなくなった耳から、脱脂綿を引き抜いた。
引き抜いた脱脂綿の先には、膿に塗れた鼓膜と耳小骨、半端に千切れた蝸牛がぶら下がっていた。
口の中に苦味と酸味がこみ上げて来るのを感じていると、くぐもったブゥーンという音と共に、辺りが眩しくなった。
目をこらすと、片手にチェーンソーを持ったクマのぬいぐるみが、こちらを覗き込んでいた。
息をすることすら忘れて硬直していると、ぬいぐるみはチェーンソーを持っていない方の手をこちらに伸ばした。
そして、私が摘まんでいた脱脂綿を奪い取ると、歯を見せて笑った。
その瞬間、身体が回転するような目眩を覚え、私は思わず目をつぶった。
再び目を開けると、グルグルと回転する常夜灯が目に入った。
しばらくの間は状況がうまく飲み込めず、ただ常夜灯の回転を眺めていたが、段々と意識が戻ってきた。
どうやら、先ほどまでのことは全て夢だったようだ。
回転する視界の中で、私は安堵のため息を漏らした。
安心すると同時に、左耳から僅かな痛みを感じた。
ああ、そうだ。
中耳炎を患ったから、耳に脱脂綿を詰めていたんだった。
その違和感のせいで、うまく眠ることができず、あんな酷い夢を見たのだろう。
痛みを感じはじめたのは、鎮痛剤の効果が切れたからに違いない。
このくらいの痛みであれば、また眠ることもできるだろう。
だから、回転の止まらない常夜灯も、枕元のずるりとした何かも、ぬるぬるとする指先も気にせずに目を閉じてしまおう。
脱脂綿 鯨井イルカ @TanakaYoshio
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