96話 幸福の後にはたいてい避けようのない不幸が待っている。

 俺に言いたいことだけ言って、俺の言いたいことは全く聞いてもらえずそのまま風呂へと向かった妹。


 きっと今頃都会で薄汚れてしまった心を田舎の汚い水で洗い流しているのだろう。

 いや別にうちのシャワーは汚くないけど。そもそもシャワーで心まで洗えるのか知らないけど。


 少なくとも俺はやったことないし、そんなことをやらなくても俺の心は純粋な少年のような、きれいな心を持っているはずだ。


 そもそも『心』とはどこにあるのか。


 心臓? 頭の中?

 どちらにせよ、心臓か脳みそを体の中から抉り出し水を浴びせる。


 ……想像しただけで吐き気がしてきた。

 どんなホラー映像だよ。実の妹が兄の家の浴室でそんなことをしてたら、全力でこの家から追い出すね。


「さと兄~、着替え持ってくるの忘れたから、持ってきて~」


 おっと妹様のお呼びだ。

 しかし兄をパシりに使うとは何事か。


 しかも着替えだと?

 仮にも年頃の女子が男にそんなことを頼んで恥ずかしくないのか。


 ……あいつは俺に対してそういう感覚はないだろうな。

 俺も別にあいつの下着を見て興奮するような特殊性癖は持っていないし。


 いや、あいつは確かに美人だ。

 家族というひいき目でなくても、十分に可愛い。


 おそらく学校で同じクラスだった場合、思わずあいつがいる方に目を向けてしまうくらいには美人なのだろう。


 しかし『妹』という存在は不思議なもので、どれだけ芸能人級に可愛かったとしても女性としてみることは絶対にない。


 好きになることはもちろん、妹の下着を見て興奮するなど想像すらできない。

 無理やり想像したとしても、そんな状況に嫌悪感すら抱く。


「ちょっとまだー? キャリーケースの中に入ってるから、早くしてー。このままじゃ可愛い妹が風邪ひいちゃうよー?」


 なるほどキャリケースの中か。

 そりゃ俺の部屋をいくら探したって、妹の服が出てくるわけもない。


 むしろ出てきたらそれはそれで事案だ。

 そして妹よ。自分で可愛い妹なんて言ってしまうと、兄としてはパシりなんてやめてしまおうかという逆説的心情にならなくもないんだからな。気をつけろよ。


 妹のキャリケースをあけて、中をあさる。

 あさるといっても大したものは入っておらず、むしろ着替えと化粧品くらいで女性の荷物にしては少ないぐらいに感じた。


 まあ女性と旅行なんて行ったことないから、どうして女性が旅行に行くときあんな大荷物になっているかなんて知る由もないんですけど。


 妹のくせにやけに大人っぽい下着とジャージを手にして、浴室と隣接している洗面所へと向かう。


「きゃーお兄ちゃんのえっちー」


 洗面所の扉を開けた瞬間に、耳に入ってきたのはひどく棒読みなありきたりなセリフで、目に飛び込んできたのはその裸体をしっかりとバスタオルでガードして、何も見えないようにしている妹の姿だった。

 俺は特にコメントをせずにその妹の近くに着替えを乱雑に置く。


「さすがに無視は悲しいんですけど」


「わざとらしくつまづいて、抱きつけばよかったか」


「そんなことされたら吐ける自信がある。そしてその吐しゃ物をのどに詰まらせて、自害したほうがまだまし」


 そこまで言うなら最初から言うなよ。というか俺は吐しゃ物以下の存在なのか。

 あと、人に自殺するなとか説教しといて自分は簡単に自殺したほうがましって、まずは自分の行いを顧みてから人に説教しなさい。


「いつまでそこで突っ立ってるの?」


 冷たい視線をこちらに向けながら、シッシッとまるで羽虫を追い払うようなしぐさで、俺を洗面所から追い出す妹。


 ……おかしいなあ。ここの家主は俺のはずなんだけどなあ。

 誰かがこの家に来るたびに家主の権限を誰かに奪われている気がする。

 まあ家主の自覚なんてないから、奪われても別に何とも思わないんだけど。


「さとる……」


 リビングに戻っている途中、背後から声を掛けられ後ろから服を引っ張られているような違和感を覚える。


 振り返ると、レイがさみしそうにこちらを見上げながら俺の服をつかんでいた。

 この騒がしい家の中で一人でいることがさみしくなってしまったのだろうか。


 寂しくなってしまった結果、俺のところにやってきたというのであれば、なんと愛らしいことだろう。


 家主冥利に尽きるというものだろう。

 レイが望むのであれば、俺は家主の威厳を取り戻す努力もいとわない!


「さとる」


 しまった。うれしくて廊下で立ち止まったまま考え事をしてしまっていた。

 何かジトっとした視線を感じるがきっと気のせいだろう。


「こっちくるか?」


 そう言いながらリビングへと向かう。

 レイは俺の服をつかんだままついてきた。


 まあ妹がいるとはいえ、俺以外の人にレイの姿が見えないことは以前先輩と後輩が家に来た時に判明している。

 だからレイがリビングにいることをそこまで気にする必要はないだろう。


 リビングにたどり着き、床に座ると俺の膝の上にレイが乗ってくる。

 いつもは俺の背中の上か、机の上に座ることが多いからこれはレアパターンだ。


 もう一つのレアパターンは俺の頭の上で立っていること。

 あれ、バランスとるの相当に難しいと思うんだけど、本人的には楽しそうにしているからそこまで苦じゃないんだろうか。


 レイは俺の膝の上で何をするでもなく、ただ小さな頭をゆらゆらと揺らしている。

 俺はその光景を見ているだけで、幸福感に包まれる。

 あー、幸せだなあ。


「さと兄、ドライヤーってどこに…………?」


 風呂から上がった妹が、女子力もかけらもなく髪をバスタオルでガシガシと拭きながら、リビングへと入ってくる。


 そして俺の方に視線を向けた瞬間に、口を開けたままその場で固まった。

 妹が入ってきた瞬間にレイに向けていた自分でもわかるほどの、気持ちの悪い笑みは消し去ったはずだが、もしかして見られていたのか?


 そうだとしてもこいつなら一つや二つや三つ何か小言を言いそうなものだが、そうではなくただ目を見開いてこちらを凝視している。


 何か様子がおかしい。

 妹の視線の先をよくよく見てみれば、俺の顔ではなく俺の腹部あたりを見ているような気もする。


 もしかして……いや、そんなまさかな……?



「だれ……? その女の子」



 …………あれ、もしかして見えてます?

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