(下)
女は車両の真ん中まで進み立ち止まった。
あまりに静かで、そして明るい。さっきまで窓の外はたっぷりとした墨汁のような闇に満たされていたのだ。それが今は、真っ白な景色が外に広がっている。雪に覆われた山と針葉樹林が遠くに霞んで見える。抜けるような青空。日本ではないどこかだ。いや、私は死んだのかも知れない。そんな途方も無い事を考えた自分に少し自嘲気味に唇を歪め、女は右手の甲で口元を拭い、自分がまだM9を持っている事を思い出した。もう自分の体の一部のように感じられた。
「おかえりなさい」
振り向くと、自分よりも背が低い黒髪の女性が立っていた。忘れる訳がない。愛していた女。愛を告白できないまま自殺したリコだ。ハイウエストで締めた白いワンピース、一枚だけ捨てられなかった写真の姿そのままだ。女は息を止めてワンピースの女を凝視した。そうだ、あなたはそういう、子供っぽい服が似合った。いつもひまわりみたいな笑顔だったから。
「リコ」
女はゆっくりと近寄り、リコを抱きしめた。
会いたかった。
髪から懐かしいシャンプーの匂いがする。ツルツルの黒髪が腰近くまで伸びている。リコだ。懐かしさに涙があふれたが、決して溢さなかった。あの日から女は泣かないと決めたのだ。鼻が赤くなるだけだ。
リコも背中に手を回してきた。
「お昼ご飯、食べよう? あたし、お腹が空いちゃった」
穏やかな、嬉しみを込めたリコの声が身体に沁み渡った。
銃をバッグに仕舞い、窓際の席に──重厚感のある西洋風の椅子に腰を掛けると、黒いタキシードの男性が現れ、テーブルの脇に立った。毛足が深い絨毯ではあったが、全く近付いてくる雰囲気が感じられなかった。男性は手にメモを持ち、注文を待った。
「悪いんだけど」
女が男に向かって言った。男の顔は逆光で見えなかったが、細身だった。白い手袋をして、高価そうな細いペンを握っている。受けるメモはただの飾りのように小さい。
「突然現れないでくれる? 私、ものすごくそういうのに弱いの。その、なんて言うか、人の雰囲気が感じられないと落ち着かないのよ。横を向いたら突然人が立っていて欲しくない。修行中の忍者じゃないんだから、もう少しこう……」
「かしこまりました」
タキシードの男が低い声でうやうやしく言った。
「悪いわね」
少しバツが悪そうに女が言った。
「あたし、何にしようかな」
リコが黒革が表紙のメニューをめくって、雰囲気を変えるように楽しそうな声を上げた。女もメニューに目を通してみたが、日本語ではない。英語でもないし、フランス語でもない。読もうとすると形が変わり、脳に何も残らない。女はサングラスを外し、眉間に指を当てて揉んだ。疲れている、というより、ここはどこなんだ。少なくとも、現世では食堂車など廃止されて久しい。
「冷たい烏龍茶、アサイーボウル、子牛のデミグラスシチュー、チャーシュー麺」
「ちょっと」
女は思わず横槍を入れた。
「なに?」
クリッとした大きな瞳をして、リコが聞いた。
「そんなに食べられるの?……っていうか、メニュー読めるの?」
「読めないよ」
ニコッと笑ってリコが言った。
「食べたいのを言えば雰囲気でオッケーなのよここは」
何度か来た事があるような口ぶりに、女は押し黙った。
食欲らしきものが、何一つとして見当たらなかった。むしろ何かを食べたら吐いてしまうかも知れない。軽い胃のむかつきがあった。
文字を眺めず、メニューを閉じると注文した。
「私は炭酸水で」
「え、何で? ここの美味しいよ?」
「食欲がないの、一切」
女が申し訳なさそうに言った。
「サンドウィッチとか、軽いのでも食べたら? 美味しいよ」
「本当に悪いんだけど」
女は苦笑いをしながら断った。リコは改まった声を出した。
「ねぇお願い。あたしはトキトオさんと一緒にお昼ご飯が食べたいの。久しぶりの再会を祝したいのよ。あたしだけ馬鹿みたいにモグモグ食べて、あなたは炭酸水だけで良いって訳? お願い。絶対美味しいから、食べたいものを思い出して。絶対あるはずよ」
リコに上目づかいをされると、女──今、トキトオと呼ばれた女は願い事を断れなかった。諦めると同時に、急にむくむくと食欲が湧いてきた。
「じゃあ……サーロインステーキで」
「焼き加減は」
喜ぶリコの顔を見ながら、トキトオはため息混じりに答えた。
「レアで、付け合わせはインゲンと人参のグラッセ」
「かしこまりました」
「あと、炭酸水は常温で」
男はメモに書き入れると、一礼をしてトキトオの後ろへ去っていった。リコはニコニコしながらトキトオを眺めていた。リコの吸い込まれるような瞳に目を奪われながら、何を話せば良いのか考えた。言いたい事はたくさんある筈だったが、この心地よい食堂車の空間にいると、何もかもがどうでもよく思えてくるのだった。しかしトキトオには必ず伝えなければならない事があった。リコの事を愛している、という事。そして、あなたが私の人生から勝手に去ってしまって、とても傷付き、悲しかったという事。
心地よい瓶の音と共に炭酸水がグラスに注がれた。
リコが頬杖をつきながら言った。
「あたしに聞きたい事があるんでしょ?」
「すごくある。言いたい事もある」
勢いよく答えて、女は恥ずかしそうに俯いた。
「そうだよね、それはそうだよね」
リコは窓の外を眺めた。
「でも、あたしだってトキトオさんに聞きたい事があるよ」
「何?」
「ふふーん」
リコは指を立てると軽く丸を描いた。
「あたしは後にするよ。先にトキトオさんから」
再び頬杖をついて、リコは真っ直ぐにトキトオを見据えた。
「私は」
あなたを愛している、とトキトオは言いたかった。しかしその言葉を口から出そうとすると、不思議な引きつりが喉に生じ、息が詰まった。私は、と言い直して、それでも言葉にならないまま、横を向いて少し咳払いをした。何故言葉が出ないのか、トキトオは理解が出来なかった。喉の奥にゴムボールを突っ込まれて、無理やり空気で膨らませているみたいだ。あるいは涙を流せば楽になれるのかも知れない。トキトオは自分が涙を流せない事に気が付き、冷や汗が背中を伝った。
「なぁに?」
リコは待っていた。
「私は」
細いグラスに残っていた炭酸水を勢いよく飲み干し、トキトオは唇を拭った。
「人を殺した」
違う、そんな事を言いたいんじゃない。しかし止め処なく言葉は口を突いた。
「あなたを犯した男を撃ち殺した。すごく、すごく気持ちが良かった。ざまあみろって思った。あいつが死ぬ場面を何度も思い出して笑った」
自分が泣きそうな情けない顔をしているのが恥ずかしかった。トキトオは両手で顔を覆い、深呼吸をした。
「でもあなたが戻ってくる訳じゃなかった。だって、あなたは」
「食べよ」
リコの声が聞こえた。
顔を覆っていた手を下ろすと、テーブルには溢れんばかりの料理が置かれていた。トキトオの前には真っ白い皿に盛られた美味そうな湯気を立てるサーロインステーキが置かれていた。付け合わせのインゲンも、人参のグラッセも完璧だ。突然トキトオは腹が減った。リコは「いただきます」と手を合わせると、箸を手にとって餃子をとり、一口で頬張ると熱そうにホフホフと美味そうに食べた。ほら、トキトオさんも早く食べなよ。と言うように、箸をクイクイと上下させた。餃子など頼んでいないのに、とトキトオは思ったが、恐らくそれは意味のない指摘だった。きっとリコの気が変わったのだろう。
重く冷たいフォークとナイフを持ち、分厚い肉の端を一口サイズに切った。外はカリッと焼きあがっていたが、中は程よい赤身が残り、食欲をそそった。ゆっくりと口に運ぶと、肉の味が広がった。塩が程よく効いており、噛むほど肉は小さくなり、やがて自然と飲み込まれて消えた。グラスに汗をかいている炭酸水を飲んだ。冷たい。それが熱いステーキと合う。誰が、いつの間に注いでくれたのだろう。人参のグラッセも申し分のない歯ごたえと甘みで、トキトオはいつしか食事に没頭していった。
「美味しいね」
ニコニコしながらリコが言った。
「とても、おいしい」
トキトオも同意した。
「あたしを、愛していたのね」
リコがモグモグとキャベツロールを食べながら、何ともないように言った。リコが安易に口にした事で、トキトオは安堵と落胆を同時に味わった。だから、改めて自分の口で、きちんと伝えようとした。その言葉は既に本来の意味が失われ、簡単な事のように思えた。あなたを愛していた。そして今でも愛している。しかし、言葉は喉の奥に篭ったまま発せられる事はなかった。トキトオは頷く事しか出来なかった。
「あなたがいなくなって寂しい」
辛うじて口にした。
「どうしてあなたは勝手に死んでしまったの」
あー、と小さな声を出しながらリコは挑戦的な目をしてトキトオを見た。それからウフフ、と少し笑った。
「そっか、嬉しいな」
上品なグラスに注がれていた烏龍茶(恐らく烏龍茶なのだろう)を一口飲んで、リコは小さく首を傾げた。
「あたしが聞きたい事と、ちょっと関係してるかも」
「何?」
「どうしてトキトオさんは生きているの?」
リコがトキトオの目を見て、ゆっくりと低い声で言った。
「あんな世界とおさらばして、あたしは正直清々しているの。あの男に犯されたのは単なるきっかけ。事故。油断したの。騙されたの、仲間に。でも、生きるってつまり、ああいう事よ。そういう事よ」
「どういう事?」
「気付いたの。生きるって、強い者が、弱い人を喰い散らかす事なんだって。生きるってだけで、色んな人を踏みつけてるじゃない。面倒くさい事や辛い事を、自分の目に映らない場所の人達へ押し付けて、人生を充実させるとか、より高めるとかさ、本当に馬鹿みたい。ようするにそれって、手渡された爆弾を弱い人に回してるだけじゃない。最後に持った人はどうするの? 強い人の為にじっと爆発するのを待つだけでしょ。そういうのを、仕方がない、とか言って、折り合いをつけて生きているだけなんでしょ。あたしは誰にも迷惑を掛けたくない。あたしの為に誰かが傷付いたり、悲しい思いをして欲しくないの。だからここへ来た。ここは素敵なところよ。ちょっと寂しい時もあるけどね」
「私は傷付いてる!」
トキトオがたまらなくなって、大きな声を上げた。
「あなたがいなくなって、話が出来なくて、触れられなくて、置いていかれて傷付いてる! あなたは勝手に一人で逃げ出して! どうしてそういう事をするの? どうしてそういう……」
言葉が続かず、トキトオはテーブルを強く叩いた。
「トキトオさんも、こっちに来て」
リコが自分の手をトキトオの手に重ねた。
トキトオは目を上げた。リコはうっすらと微笑んでいた。
「あなたはね、もうすぐ殺されるの。だからあたしはここに来た。一人で死ぬのはかわいそうだから。とても痛くて、怖くて、寂しい事だから」
「私は、死ぬの?」
「そう」
言い含めるようにリコが深く頷いた。
「あなたは男の人に撃たれてそのまま死ぬ。綺麗に頭を撃ち抜かれてね。でも、このままあたしとあのドアの向こうへ行けば、死ぬ瞬間をパスしてあたしとずっと一緒に居られるの。何もかも、全ての記憶を失うだけ。この食堂車はその為の通り道。あのドアの向こうに本当の平穏がある」
リコは自分の後ろにあるのぞき窓に古めかしいレースのカーテンが掛かっている木製の黒いドアを見ながら言った。テーブルの上にある手は強くトキトオの手を握っていた。線路の繋ぎ目を渡るコトン、コトンという音が大きく聞こえる。
「もういいでしょう? トキトオさんが生きていたい理由は何?」
「私は、私は」
「大勢を殺して、逃げて、それでも生きたいって何故思うの?」
「忘れたくないから」
長い沈黙の後、トキトオが言った。
「確かに生きていると辛いと思う事が沢山ある。あなたが死んだ後、あの男を殺して今まで生きてきて、何で生きてるんだろうって正直思わないでもなかった。そうね、
リコはトキトオの目から視線を外さずに聞いていた。
「でもね、私の記憶には色んな人達がいる。一言じゃ言えないくらいに、良い人も、嫌な人も。もちろん、リコも。そうした人達の事を思うと、凍えた胸に火が灯るみたいにじっと暖かくなる。一人なんだけど、一人じゃないって思える時がある。間違いなく、私が生きている事で誰かに迷惑を掛けている。間接的に誰かを傷つけたり、嫌な目に合わせたりしてる。それでも、それでも」
トキトオはリコの手を強く握った。
「あなたと違う世界でずっと生きていきたい。死ぬまで、あなたとの思い出を失いたくない」
リコの手を握る力が弱まった。
「ごめんね」
リコが謝った。
「自分と一緒に、あなたとの思い出を一緒に殺してしまって、ごめんね」
「やめてよ」
トキトオが首を振った。
「悲しい気持ちになる」
腐臭が鼻をついた。
テーブルに目を落とすと、食べ掛けのステーキがあった筈の皿の上に、どす黒い腐臭を放つ肉が血だまりの中に置いてあった。
「これを食べないと戻れない」
リコが申し訳なさそうに言った。
「さっき食べた料理や水は、こっちに来る為に必要なものだったの。騙してごめんね、トキトオさん。きっと、こっちに来てくれると思っていたから黙ってた」
トキトオは嘔吐感が高まり、えずいた。
「肉。何の肉かは言わないけど、分かるよね」
左脇腹に鈍痛があった。トキトオは自分の手でそこを触った。明らかに肉が抉れており、衣服の上から血が大量に滲んでいた。トキトオはたまらず嘔吐した。視界が暗く歪み、腐敗した肉に顔を突っ込んで痛みに耐えた。嘔吐に伴う痙攣がトキトオを絶え間なく襲った。
「早く食べないと戻れなくなる」
給仕の蝶ネクタイの男がいつの間にかテーブルの脇に立っていた。古い銅色の懐中時計を開くと、低い声で男が呟いた。
「もうすぐ次の駅に到着してしまう」
トキトオは身体を起こすと、深く濁った黄色と黒に変色した生の肉を震える両手で掴み、自分の口に運んだ。この世のものとは思えない匂いが鼻を付き、噛み付いた口の端からは深い紫色の液体が滴った。トキトオは獣のような声を上げ、それでも肉に食らい付いた。白い脂肪の筋が肉とトキトオを繋ぎ、その口と顔の周りは血みどろになっていた。
「撃って」
見ていられない、という風にリコが鋭く言った。
「この男を撃ち殺して」
トキトオが肉に食らい付きながら男の顔を見上げた。
「お嬢さん、あっという間だよ」
男は懐中時計を見下ろしながら低い声で言った。顔は逆光で見えなかったが、佇まいにはどこかで見覚えがあった。
「次の駅に辿り着くと、もう後戻りは出来ない」
トキトオはバッグに手を突っ込むとM9を手に取り、安全装置を外した。銃は冷たく重く、現実的な感覚を取り戻させた。男の顎の下に銃口を押し付ける。
銃声。
鮮やかな血飛沫と脳漿を飛び散らせ、男が玩具のように倒れた。
「トキトオさん、ほら立って」
リコが立ち上がって、再び皿に顔を突っ込んで気を失ったトキトオを起こした。
「ちゃんと……生きて……いくんで……しょ!」
目を閉じたままぽっかりと口を開け、血みどろなトキトオの頰を何度か優しく叩いた。トキトオが目を開いた。
「出口はあそこ、来たところと同じ。扉を出たら、男を待ち伏せするの。ドア……本物の新幹線のドアが開いた瞬間、撃ち殺すのよ。一瞬でも躊躇ったらもうおしまい。本当にトキトオさん死んじゃうからね。あたしともう会えないまま、どこか違う所へいっちゃうんだからね」
虚ろな顔をしたトキトオの肩を揺すって、リコが必死で言った。しかしトキトオは腹からの出血も激しく、朦朧としている。
「ほら起きて! 重いから! 早くちゃんとして! 次の駅に着いちゃう」
リコが肩を貸して、何とか引きずるようにして二人はドアの前に辿り着いた。
「またいつか会おうね。それまでちゃんと、生きていて」
トキトオの唇に、リコが下から軽く唇を重ねた。
「ありがとう」
口の形だけで、そう聞こえた。
トキトオはドアを開き、とっさに出た昇降口の脇に身を隠した。息切れと共に、胸の奥から喉に迫り上がるのは明らかな血の味だ。追手の男がすぐにやってくる。ここから先の逃げ道は無い。この場で男を仕留めなければ間違いなく私は殺されるだろう。M9の銃口を、男の頭の高さであろう場所に据える。安全装置はきちんと解除してある。男を始末し、非常ドアコックのレバーを引く。そうして、私は運が良ければそのまま線路に降りて逃走する事が出来るだろう。それ以外に生きる術はない。
死ぬ訳にはいかない、とトキトオは強く思う。
ふと、胸の奥でじんわりと暖かい血が通う感覚がトキトオを呼び起こす。
どこか遠い場所で、自分がそこに含まれ、やがて去っていった事を思い出す。ドアが開く。引鉄を引く。
(了)
【短編】新幹線の車窓から 江戸川台ルーペ @cosmo0912
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