ブレイクギア

七四季ナコ

第1話 覚醒

1


This is the result of your choice

(これが貴方の選択の結果よ)

ため息をつくように俺に告げたそれに耳が痛いものを感じながら、俺はなおも走る。一撃で仕留められると見たのがまずかったのは確かだが、あの状況では仕方がないだろう、と自分に言い聞かせた。誰が捨てたのか知らない路上の空き缶に足がぶつかり、辺りに大きな音がこだました。既に深夜で人通りは全くないから遠慮する必要は無い。ここからもっとも近い『Wi-Fiポイント』までまだ1kmほどある。何度も狩りに使っている街だ、場所は熟知している。ただ問題は・・・俺はちらりと携帯を見た。映し出される座標を見やると後方50mほどに赤く点滅する点。間違いなく奴だ。その動きを見るとすぐにしかけてくる様子はないが、ためらう事なくゆっくりとこちらに近づいてくる。だがその歩みの遅いところを見てみると、こちらがポイントに到達するまでに追いついてやろうという気は感じられないように思えた。ポイントの位置を敵は把握していないのであろうか?しかし相手はあの『ダディ』だ。そんな初歩的なミスを犯すとは思えない。これは敵が真っ向勝負を望み、かつ絶対の自信を持ち合わせているということか?俺は自問自答しながら、路地裏を縫うように走り続ける。昼に降った雨の水たまりを踏むのも気にしていられない。奴の能力系統の組み合わせが近接戦闘特化だという事前情報はあったものの、強力な索敵スキルを隠している可能性もある。それを実はすでに使われていたとしたら?もし夕刻に交わした会敵時の攻撃で、こちらの位置情報をリークするような索敵能力を使われていた場合、敵は『時間切れ』までこちらを追うふりをしてわざと逃がす。そして後から一方的に俺の場所を割り出して奇襲で仕留める・・・つもりなのかもしれない。だとするとやはりこのまま奴が追いつく前に『ポイント』に到達するという当面目標は間違いではないはずだ。こちらからアクションを起こさなければやすやすと俺たちは狩られてしまう。奴に手を出したのが運の尽きだ。俺は心を決めた。と、考えていた矢先にやっとゆるい曲がり角の向こうに小さな明かりを見つけた。小さなハンバーガーチェーン店だ。いよいよついたかと自分をなだめ、入り口から少し離れた柵に腰を預けた。息を切らしながらも、俺は携帯を操作しはじめる。間に合えばいいのだが。焦る気持ちを抑えて一転の曇りもなく完璧なコードを叩いたあと、顔をあげるとすぐにそれは目に入った。大通りの中央を渡ってこちらに歩いてくる黒い男。威圧的な漆黒のスーツに身を包んだ広い肩幅の大男だ。手には巨大な日本刀が握られている。一般的な日本刀よりだいぶ剣幅は大きいそれは、奴の能力により具現化せしめられた巨大な肉きり包丁だ。街頭を反射して鈍く虹色に光り、その様は本当にそれがリアルな殺人道具かと疑わせる非現実感をもたらす。俺の『狙撃』が叩き落とされたのはあの幅広さを最大限利用したのだろう。攻防一体の居合攻撃は、まさに超実践的剣術と言うべきか。俺はちらりと携帯を見た。転送状態をしめすバーが左から少しづつ緑色に染まって行く。もう少し時間を稼ぎたいところだ。俺は仕方なくジャケットのポケットをまさぐってみる。手のひらで触れた感触はコインだった。俺特製の放射状に切り込みの入ったやつだ。悪くない。

昨日の『狩り』で使い切ったと思っていたが運が向いてきたようだ。少し期待を込めて反対側のポケットにも手を突っ込んで見るがこちらは大した物はない。頭の中に誰ともない声が響く。

Always, Joker is in the pocket

(いつだって、切り札はポケットの中にあるものよ?)

俺は少々笑い、そうだなと小さくつぶやく。心は決まった。あとは敵を見据えるだけ。相手を見ると距離は目測20メートルといったところだ。さらに距離を詰めてくる。コインを使うなら理想の射撃は10メートル程度がベストだろう。相手の様子からはこちらの手の内をおそらく見越しているのであろう事も見て取れた。のこのことこの距離まで出て来てくれたのがいい証拠だ。目に見えた武器を持たない今の俺では、奴に致命傷を与えられないと見切っている。さらに言うなら、あえて姿をさらしプレッシャーを与えるのは俺のスキル『落雷』を潰すためだろう。その必要はないのだよと教えてやりたいがそうもいかない。こっちにとっては相手の誤算は唯一の好材料だ。時間さえ稼げればいい。先に動いたのは俺だった。今の状況では基本技の『投射』しか使えないが、俺にはむしろ好都合だ。あいつの目の前に携帯を出さずに済めば、存在を意識させずに済むのだから。ポケットから出したコインを構えて振りかぶる。するとコインの質量を即座に『Dシステム』が計算して適切な慣性アシストと共に俺の腕とコインを加速する。俺の目の前にはロックオンサイトが現れた。これもDシステムのアシスト機構の一部だ。男を眼前に捉えロックする。そしてその瞬間に俺は瞬きをした。瞬きはこの能力においては『ロックオン目標』の切り替えを意味する。無論今のDシステムが認識する目標は奴だけだから、この場合は『マニュアル』へ切り替えてしまったと言って良い。俺の手から離れた弾はわずかに男の顔の左にそれる。その黒いスーツの男は微動だにしない。牽制すら読まれたか。俺とは経験値が違いすぎる。やはり敗北は覚悟すべきであろう。しかし・・・

何度も言うが、時間を稼ぐ事ならできる。男から逸れたコインの軌跡はその後方の街灯---スチールの塊に激突した。その瞬間、コインは衝撃で切り込みから6つに割れ、蓄えれたエネルギーの行き場を求めてスチールの塊と逆方向に---つまりスーツの男の方角に---高速飛散する。それでもとっさに状況を飲み込んで、反射的に刀を盾にすべく平に構えたのはさすがの反応速度と言うべきだが、降り注ぐ細かい破片のすべてを防ぐことはできない。被弾は左の膝と右の肩に及んだが、やはりというべきか与えたダメージは思ったより少ない。これがもし本来の生身の人間と戦っているのであれば、恐らく敵は肩の傷により刀が振れなくなり、膝の傷で跳躍は封じられたも同然だったはずだ。十分布石となる先制攻撃であったと言えただろう。しかしその剣士の体は、コインが命中した瞬間にテレビ画面にノイズが入ったように歪み、ざざざっと青い閃光を散らしながら一瞬透き通ったかのように見えたあと、また何事も無かったかのように歩き始めた。男の顔はニヤリと笑っている。知っているさ。デジタリゼーションされた俺たちはまさに相手に倒されるその最後の一瞬まで傷を負う事はない。単純な数値を食い合うだけ。先ほどの攻撃で侵食できたやつのライフはわずかなものに過ぎないだろう。奴は上段にその剣を構えた。すでに間合いの中という事か。俺はポケットを広げ、中にいれたままの携帯に目を落とした。complete.good bye!の文字が点滅しているのを確認すると、薄くニヤリと笑い、その男を睨みつけた。どうやら時間は間に合ったようだ。俺の役目は果たした。あとは好きにすれば良い。その時、男も自分の携帯からのバイブレーションに気がついたようだった。余裕からか男はそれを手に取ると、俺から目を離さないようにしながら目のはじで文字をなぞった。

You lose your, daddy.

(貴方の負けよパパ)

Our ice cream has melted already.

(私達のアイスはもう溶けちゃったみたい)

男ははじめて顔をしかめる。

「お前は・・・まさか・・・」

発した言葉は、不意に現れた高架の貨物鉄道の音に紛れて夏の夜に消えた。




こんこん、という優しいノックの音で俺は目覚めた。扉は合板製のものに白い化粧板がついたどこにでもあるありふれたものなのに、その細い指が叩く音色は澄んだ音でありながら、温かみを持った特別な音。その優しさのどこに俺を現実に引き戻す力があったのかはわからないが、目を開けるとそこにはいつもの俺の部屋があった。外では鳥の鳴く声が聞こえる。

「おはよう政宗〜 朝よ〜! 早くしないとお母さんが片付けられなくて困ってるわよ?」

扉の外から彼女の声がする。

「わかった。ありがとうお姉ちゃん。それとおはよ。」

寝ぼけ声で答えると、俺はカーテンも開けずに、そのわずかな隙間からこぼれる陽光さえ眩しく思いながら身支度を整えた。と言っても昨日のうちに学校の準備はできている。カバンを持って行くだけだ。私立高校の我が校は制服も強制されない自由な校風だ。故に入学したての頃は、どんな服を着ていくか大層頭を捻ったものだが、一年が経過した今となってはもうほとんどトレードマークに近い服装が出来上がってしまうものだ。俺は紺のパーカーとジーンズを選んで着ると、一階のリビングダイニングに降りていく。ダイニングで俺を迎えたのは姉ではなく母だった。姉も朝の準備に追われているらしい。

「おはよ。お味噌汁、少し温めようか?」

テーブルの上には簡素だが温かみのある母お手製のおかずが並んでおり、母の手にはそんなにいらないっていつも言うのに、茶碗に多めに盛られたご飯がほかほかと湯気を昇らせている。

「大丈夫、ぬるいのも好きだから」

と言いながら、母から茶碗と冷めはじめているお味噌汁を受け取ると、一人の食卓について手を合わせると、誰にともなくいただきますを言う。家族は皆とっくに朝食を終え、それぞれの最後の身支度をしているようだ。鮭の切り身を口に放り込みながら部屋の奥をみると、擦り硝子の窓がついたドアの向こうで、ドライヤーの音とともに揺れる長い髪の形が見て取れた。黒髪のロングヘア。姉はその艶やかな髪をピンと伸ばしながら整えていく。俺は食卓の正面の硝子棚にうっすら映る自分のシルエットを見たが、対して俺の髪はもともと癖っ毛の髪が寝癖でさらにボサボサだ。これは後で整えなければ。ふとリビング越しに見えるテレビに目をやる。昨夜あったらしいハンバーガー屋半壊事件の場所が近所だったのに少し驚いた。そしてそのリビングのさらに先の窓ごしにガレージから車が出て行くのが目に入る。どうやら今日は父の見送りには間に合わなかったらしい。

「それ、政宗の学校の近所よねぇ。恐いわ〜 意外と治安の悪いところだったのかしらね。不良のグループとか見た事ある?」

母が洗い物をしながら話しかけてきた。確かに柄の悪い連中を見ない事も無いが、せいぜい万引きをする程度の気の小さい連中だ。こんな強盗まがいの事件を起こすとは思えない。よほどハンバーガーが食べたかったのだろうか?考え事ばかりしながら、いつも豪華と言われる尾張野家の朝の食卓を終えると、ご馳走様を言いながら食器を台所の流し台まで運び水に浸す。手を冷たい水で洗いながらここでやっと目が覚めてきた。俺は洗面所に移動して髪の寝癖を治しながら考える。姉に起こされたのなど何年ぶりだろう。言いわけではないが本来俺はこんなお寝坊さんと言うわけではなくキチッとした時間に目覚ましをかけて、時には姉より早く起きる事もある。そうだ、目覚まし時計・・・と思い出し俺はポケットの中のスマートフォンを取り出した。そこには黒地に白い字でただ「OS downloading now」の文字とその下に終了時間の目安が表示されているだけだ。そこで昨晩の事を俺は思い出した。メールにてスマートフォンのOS最新版アップロードの知らせを受けた俺は寝る前にそれを実行処置してから眠ったのだ。しかし一晩経ってもまだダウンロードが終わっていないとは驚きである。

「まったく、少し重すぎるでしょこれ」

俺は独り言をつぶやいていた。ふと、後ろからすっと手が伸びて俺の手からブラシとドライヤーをささっと奪う。

「後ろ、全然できてないよ」

姉の蓮だ。俺よりほんの少し低い身長で、長い黒髪はすでに完璧に綺麗な艶のストレートとなっている。目はスマートな猫のような知性と愛らしさを備えている。しかし姉の目はそれだけでなく、いつも不思議な自信に満ちており、どこかすべてを見透かしたような笑みを称えていた。

「これからやる所だったんだよ」

俺の言葉などまるで聞こえないかのような涼しい顔で、姉は手早く水を手につけると、つんつんっという軽い仕草で俺の髪の根元あたりをマッサージするように触ると、ささっと癖を治し、ドライヤーを仕上げにかけながらブラシを通して行く。一連の動作は鮮やかで、俺の髪に魔法をかけるかのような手際。姉はそう言えば美容師になるための専門学校に来年は通いたいと言っていた。マッサージされているかのような心地よさにしばし眠気が襲ってくる。うつらうつらしはじめた俺に対し、

「バカ。遅刻するわよ?」

そう言いながら姉は頭を軽く叩くと、少し濡れてる手をいたずらっぽく俺のシャツで拭いた。

「ふきふき」

いや、ふきふきと言われても。と俺は頭の中でつっこみ、彼女の手を振り払う。

「何するんだよ」

「もうタオルないんだもん。新しく乾燥済みのカゴから出しといてよね。余裕があったら畳む事!」

姉は言うが早いか、すりガラスのついたドアをするりと抜けてリビングへと消えた。すぐに玄関からいってきまーすという元気な声がする。姉の蓮は自分より1つ年上の高校3年生。一応受験生とは言うものの、彼女は進学校の中でさらに成績優秀であるにも関わらず、専門学校への進学を希望しているため、ほとんど決まっているかのような状態だ。今は生徒会活動などの奉仕活動に力を入れているらしい。手早くタオルを畳みながら回想していると、俺も家を出なければいけない時間になってきた。カバンを手にとり、家の玄関にあるカエルの置物の突き出された右腕から、引っ掛けられていた自転車の鍵を受け取る。母の友人のインドネシアからのお土産の、妙にあやしげなカエルだ。

「いってきまーす」

俺はカエルと、庭で洗濯物を干しはじめた母に聞こえるように大きな声を出すと家を後にした。外に出ると朝の陽射しが気持ちいい。ガレージからマウンテンバイクを持ち出し、体重を右足にかけて漕ぎ出した。住宅街の人通りのない道は7月とは言えまだ朝の涼しさが少し残っており、自転車で駆けると爽やかだ。しかし駅へと続く商店街までくると人が多く自転車もスピードを緩めざるを得ない。人の数が多いからか気温まで増したようで、少しペダルが重くなる。俺はここから駅へは行かず、あの交差点を右に曲がり、学校へ続く長い坂道へ向かう。曲がる直前、遠く駅の方へ向かう道に姉とその友人の後ろ姿を認めた。姉の隣でにこやかに笑う姉より少し背の高い赤毛の女子生徒は毎朝ここで見る女性だ。名前は、以前に姉から聞いていた気もしたが、忘れてしまった。二人は俺と違い紺のブレザー姿---隣町の進学校の制服だ。俺もかつてはその制服を着るために努力したものだが、いかんせん姉とは出来が違いすぎた。二人を何気なく見ていると、ふいに姉の友人がこちらを振り向き、俺と目が合う。俺は一瞬どきりとして顔を逸らす。注視されていたのでは相手も良い気はしないだろう。目の端で盗み見たが、彼女は少し寂しそうな顔を作るとすぐに前を向き直った。俺は何故か罪悪感を感じてふぅとため息を吐くと、気を取り直して道を右に曲がり長い坂道を消化する作業にはいる。やがて小高い丘の上に立つ学校が見えてくる。美しい並木に彩られた白い綺麗な校舎。雲の合間から射す日がそれをきらびやかに映し出している。俺はどんどんキツくなっていくこの坂道に立ち向かうべく、さらにペダルに力を込めた。


3


大通りの、さらに車や人通りが盛んなこの場所においても、それは片隅に忘れ去られたかのように存在していた。今どき中々見ることも少なくなった電話ボックスだ。その中で、男は受話器に熱心に聞き入っていた。受話器からは不規則な電子音が流れてくる。アナロジックプロトコルプログラム。これを知るものは意外と少ない、所謂裏プログラムだ。しかし、正直なところ使い道と言える使い道が存在しなかったので誰も知ろうとしなかった、と言うのが本当のところだろう。なぜなら今までは『彼等』がそこに帰る事もなく、ましてやその行く先を追おうとするものなどまずいなかったのだから。男は少し緊張した面持ちで、受話器に耳を済ませていた。

One second.

(もう少しだけ待って下さい)

「分かってる」

相手の声はノイズで掠れていた。今回通話用に準備したデジタル加工音声だ。合成音声の相手は、声を加工していてもかろうじて女性の声である事はわかる。淡々と彼女の声は告げる。しかしノイズはひどくなる一方で、聞き取れる単語の方が少なくなっていた。

I suf### interf##ence fro# ot#er a#changel# sur#ly・・・

(まさ・他の・いてん・・らの・渉を・・るな・て)

妨害を受けている?一体誰に?男は焦りを顔に浮かべている。

「もう良い、辞めよう」

男が告げるが、相手はしばしの沈黙の後、再び話し始める。再びノイズにまみれて、ほとんどの単語は聞き取れなかったが一文だけ聞き取れた言葉があった。

Believe me , Master

(マスター、私を信じて)

男の胸は僅かに波立つ。ここで彼女を失う事は避けたいが、彼女の言葉は決意を促すのに十分な響きを持っていた。

「・・・分かった。頼む」

All right.

(了解です)

と、次の瞬間、ガチャンという大きな音と共に回線は切断した。続けてプーップーッというビープ音が受話器から聞こえてくる。

「おい、大丈夫か?」

不安げに声を出す男は受話器に食らいついたが、返答はない。

ふと、彼は気がついて携帯電話に目をやると、そこにはメッセージが記されていた。

I have identified the ID.

(IDを特定しました)

No problem.

(問題ありません!)

We will be accomplished

(私たちならできます)

男はニヤリと、始めて笑みを浮かべた。そうとも、何としても成し遂げねばならない。アレを取り戻すために。男は電話ボックスを出ると携帯電話のGPSマップを呼び出し、街に向かって歩き出した。


4


その少女は学校の屋上にいた。この学校の屋上はだいぶ広く、綺麗に手入れも行き届いている。ベンチの傍には園芸部の作品である花壇が咲き誇り、今日の雲一つない晴れの日の、爽やかな太陽を思い切り受けて輝いている。屋上は昼休みは開放されていて、あちこちのベンチには人が眠ったり、本を読んだり思い思いの時間を過ごしていた。彼女がいたのはそのベンチの列の一角だ。遠くから見ると一瞬、白に色とりどりの水玉模様が落とされた大きな卵があるかと思いきや、それも違う。それは水玉模様の白い日傘だ。彼女はその下にうずくまって、白いヘッドフォンを頭につけ、手には携帯ゲーム機が握られている。傍には彼女の携帯電話、赤いスマートフォンがベンチの上に放り出されていた。尾張野蓮は彼女の後ろで大きくため息を吐いた。ゲームに熱中している彼女は全く気がつく気配はない。マジマジとその顔を横から見つめて見る。イギリス人である彼女の祖母から受けついだ、美しい赤毛のロングヘアは少し癖のある髪質で、くるくるとよれながら彼女の肩で美しい曲線を描いている。どうやら私が教えたらしいトリートメントは欠かさず使っているらしく、艶やかな髪質は健在だ。眉は薄く引かれ、口元にはごく薄い、よくよく観察すればわかる程度にリップクリームのツヤ。目は赤ちゃんのようなぱっちりとした大きさで、睫毛にはマスカラの類など何もつけていないのに恐ろしく長い。その完璧とも言える見た目に蓮は少しため息をつきながら後ろからそっと近づくと、彼女のヘッドフォンを一気に剥ぎ取り、大声を出した。

「紗矢香ーっ!」

ビクリとした麻谷紗矢香は、傘を放り出しながらいきなり立ち上がると、目を丸くしながら口をわなわなと動かした。手はどうして良いかわからずあたふたと怪しい挙動を繰り返す。どうやらびっくりし過ぎて声にならないらしい。慌てた拍子に宙に舞った携帯ゲーム機を蓮は危うげなくキャッチすると画面を覗き込んだ。

「『これから死ぬまで、俺はこの手を離さない』ねぇ」

ニヤニヤとした口元で悪戯心たっぷりと、画面の中の美男子が吐く甘いセリフを朗読した。

「ちょ、ちょっと!辞めてよ蓮〜!」

紗矢香は顔を真っ赤に染めながら、蓮の手からゲーム機を奪い取る。そして口を尖らせながらいそいそと赤いポーチにゲーム機を詰めた。

「こ、こんな所で何してるのよ。生徒会の会議は?」

「それはこっちのセリフよ。こんな所で何してるのよ?昌也君は?恵子ちゃんは?美来は?早希は?な〜ん〜で、クラスでお昼取らないのよ!」

紗矢香は親友にまくし立てられて、おどおどとポーチを握る。

「だ、だって。みんな昨日見たテレビの話とか好きな芸能人の話ばっかりだし・・・私、テレビ見ないし・・・」

はぁ〜っと蓮は深いため息を着くと、麻谷の隣に座った。尾張野蓮は全部知っている。麻谷が動画サイトばかり見て、テレビを全く見ない事も、ゲームばかりしていて異性に全く興味がない事も。何しろ5歳になった時からの付き合いだ。

「でもね、紗矢香。クラス替えしてもう4ヶ月よ?そろそろ馴染まないとさ。これから文化祭とかも始まって来ちゃうんだよ?」

蓮は素直に心配を口にしながら紗矢香の隣に座った。ふと紗矢香の携帯が手に当たり、それを手に取ろうとする。しかし、咄嗟に紗矢香は慌てた様子でそれを奪った。あまりの素早さに蓮は少し驚く。

「これはダメ!」

紗矢香は制服のポケットに手早くスマートフォンを入れると、蓮の表情に気がつきバツが悪そうに頬を掻いた。

「あ、ごめん。その、友達から相談受けてたメール読んでて」

さっきまでゲームをしていた人間が言うには、明らかに嘘とわかる内容だったが、蓮は構わずクスリと笑った。

「まぁ、そう言う事にしといてあげましょう」

彼女はやはり、思うところがあったのか、座ったばかりだというのに立ち上がって、歩き出した。そして紗矢香の方を振り向く。

「実は会議、抜けて来ちゃったのよ。戻るからまたね?ちゃんと教室に行くのよ?」

「わかった。セーブしたらね」

蓮はそれを聞いて快活に笑うと、元気に手を降って去って行った。麻谷紗矢香は静かにその後ろ姿を見送る。彼女は私にとっての太陽だけど、やはり彼女は本当の絶望を知らない。でも、それで良いんだと私は思う。そんなもの知らない方が幾分も幸せに生きられるから。紗矢香は蓮の背中を見送りながらポケットの中のスマートフォンをぎゅっと握りしめた。あなたとは違って、私は物語の主人公になれないんだって事。知るのは私一人で良いんだ。


5


普段は決して鳴らない父からの着信音が響いたのは、政宗が部活を終えた帰り道の事だった。

「何かあったの、父さん?」

「ああ。蓮が・・・な。とりあえず立川駅まで来られるか?車で拾うからな」

電話口の父の上ずった声に、ただならぬ様子を悟った政宗は聞き返す。今なんと言ったのだろう?姉に何かがあったというのか?

「立川?何でそんな所に・・・」

「蓮が搬送された病院がな。まぁ、とにかく急いでくれ」

父は一方的に電話を切った。政宗は『病院』という単語を聞いて胸がぎゅっと締め付けられた。意味するのは不穏な事柄ばかりだ。そして『急げ』とはどういう意味なのか。病院に自分が急いだ所で何ができるのだろう?政宗は自らを騙すように可能性を否定して行く。電車に揺られながら駅につき、自動車に乗り込んでも父とは一切口を聞かなかった。ただ、気まずい空気だけが流れて行く。口を開いたのは父の方だった。

「姉ちゃんが、蓮が、下校中・・・その、交通事故にまきこまれてな」

政宗は心臓が大きくどくんと動くのを感じた。途端に胸から言いようのない黒い不安が全身に広がって行く。彼は黙ったまま父の口が放つ一つ一つの言葉をなるべく正確に把握するべく耳を傾けた。めまいに似た酩酊感を覚える作業だった。父によると姉は下校途中、友人と2人でアイスクリームを食べるべくいつもの下校ルートとは違う幹線道路沿いを歩いていたそうだ。片道4車線にもなる流れの早い道路の途中、緩やかなカーブになっているそこにそのアイスクリーム屋はあったらしい。アイスを買った2人はカーブを曲がりきれずに突っ込んできた大型トラックに追突された。現場はガードレールがきちんと敷設されていたが、運転手は完全に居眠りをしておりスピードも高く、半ば横転するような形で襲ってきたという。荷物の過積載も恐らく大きな要因だったと警察からは聞かされている・・・と、そこまで語った父に向けて俺は口を開こうとしたが、声にならず口を結んだ。その話には最も大事な結論が欠落している。いや、それを言えないだけの事があったのだろう。しかし俺はそれを言わなければならなかった。俺は粘つく口を必死に動かす。

「父さん、肝心な事を言ってないよ。姉ちゃんは・・・その2人はどうなったの?」

少し口をつぐんだ後、父は重々しげにつぶやいた。目は何処ともない遠くを見ていた。

「蓮は、死んだ」

それまで抑えていた情動が一気にこみ上げてきた。姉さんが死んだだと?そんな事はあり得ない。政宗は様々な感情がごっちゃになり半ばわけがわからなくなった。今自分が姉の安否を気遣うためではなく、姉の遺体に会うために病院に向かっている事実を受け止められないでいる。

「蓮と一緒にいた子は体に打ち傷がある程度で無事らしい。どうやらあいつ、最後にその子を突き飛ばしたみたいでな」

確かに姉は剣道部主将を務め上げた反射神経の持ち主だ。いざとなれば隣で歩いている友人を守る事も出来ただろう。しかしそれは自身が逃げる事も出来たという事だ。せめて、もう少し軽症になる場所まで逃げてくれれば----俺の脳裏に鮮やかにその光景が浮かんだ。極限の状況において自らを危険に晒しても、大切な友達を守り抜いた姉の姿。わずか一瞬、トラックの撒き散らした金属片の漂う空中を、手から取り落としたアイスが地面に着くよりも早く足を踏みしめ友人を力強く跳ね除ける。黒い髪が急速に舞う、美しき最期の姿。目の前に迫る理不尽な暴力、あまりにも呆気ない自分自身の結末に、それでも姉の気高い瞳は最後まで目を逸らさなかったに違いない。危険が迫った状態で逃げ出すために足を浮かせるのではなく大地を踏みしめる事にどれほどの覚悟がいったか俺には想像もつかない。

「死亡が認定されたのは・・・本当についさっきの事だ。危険な状態が続いてたんだが・・・駅で待つ間に連絡があってな・・・最後の瞬間にお前にもあわせてやりたかった」

その言葉を聞いた時に俺の胸はさらに詰まった。父のたった一人の愛娘。自分もそばにいて励ましたかったはずだ。最後の瞬間を、娘の最後の言葉を聞きたかったはずだ。しかし父はそれをしなかった。俺のためにここに来た。

「とりあえず、病院についたら俺は母さんを連れて家に戻る。少し休ませてやらなきゃならん。お前はどうする?蓮に・・・その、会うか?姉さん『顔は』本当にキレイなんだ。」

言葉を選んだ父の優しさよりも、その言葉の意味するところの残酷さを理解し俺は嗚咽を漏らした。しかし父の目をしっかりと見て言う。

「行くよ。受け止めなきゃ」

行くしかあるまい。変な例え話だが、姉なら必ず逃げない気がする。俺は未だ半信半疑な自分と決着をつけるべく心を決めた。


6


病院についた頃にはもう日がくれていた。俺達は歩いて裏口から中に入った。夜の病院は人も少なく誰とも会う事は無かった。ほどなく母と落ち合い、泣きはらしたその目と疲れきった、震える頬は今朝から数年年老いたかのような印象をうけ痛々しい。俺は慰める言葉を探したが見つからず、そしてやはり息子を前にすると母は少し落ち着きを取り戻したかのようで、逆に俺が大丈夫かと問われてしまった。やがて父は母を連れて家に戻り、その後また俺を迎えに来てくれるという。俺は姉と2人にさせてくれるという父の無言の気遣いをどう受け取っていいかわからず、ただぼんやりと暗い廊下の待合室の長椅子に1人、座っていた。電気が消された暗い廊下の中で、俺の記憶はやがて、遠い過去の事を思い出していた。


7


「まーくん、この花の匂いかいでみなよ〜 すごく良い匂いがするよ〜?」

お姉ちゃんが手に持った花をこちらに差し出す。綺麗な白い花。僕が顔を近づけると、お姉ちゃんは親指でピンっと花の首を飛ばし、僕の鼻の頭に命中させた。僕はびっくりしてひっくり返る。姉は悪戯っぽく、あははと笑った。

「わっ、もう何するんだよ、おねーちゃーん!」

僕ははしゃぎながらその辺のクローバーをつかんでは引き抜き、お姉ちゃんに投げつけるのだけど、綺麗にするりと避けられてしまう。頭の上には姉が作ってくれたシロツメクサの王冠が乗せられていた。傍にいた姉の友達もあははと笑う。いつもの河原の土手だ。俺たち三人はそこで秘密基地を作り、いつも一緒に遊んでた。姉はその持ち前の明るさで、いつでも僕たちの太陽であり続けた。やがて高校に入るころになると、お姉ちゃんはさらに綺麗になる。このころから姉は気の強さを表に出す事は少なくなったが、それは人との関わり合いにおいての、したたかさを身につけたからに他ならなかった。どこまでも気高く、それでいて自由な姉。そんな姉がこの先の部屋で冷たくなっている事など、どうしたら信じられるのだろう?


8


どのくらいの時間がたっただろう。俺には2時間にも3時間にもなった気がした。その間に姉との思い出が次々と目の裏にフラッシュバックする。俺は目の前の廊下に目をやった。この暗い廊下の先の暗い一室で姉は眠っている。寝息一つ立てないまま、冷たい頬と硬くなった指を強張らせ、白い、白い肌のままで。その現実を、俺は受け入れる事が出来るのか? 俺は何時の間にか一人つぶやいていた。「なんでだよ、神様」


その時、ピピッという小さな音が俺のポケットの中で鳴った。なんだろう。いや、もはやなんでも良いのだが。しかしその時同時に俺は気配を感じて隣を見ると、今まで恐らく誰もいなかったであろう長椅子の俺の隣に茶色いスーツの男が座っていた。整えられた長めの髪に怜悧な目をしたメガネの男。俺は心の底から驚き、心臓が鼓動を早めた。何しろ場所が場所だ。幽霊か?死神か?確かに目の前の男はどこか人間離れした雰囲気を感じる。体温がないような、触ると透き通るのではないかという非現実感。いや、と気持ちを取り直す。この服装はどうみても現代人の、しかもよく見ると多分イタリア製の仕立ての良いスーツではないか。落ち着いて見てみると生命保険屋と言った方がしっくりくる見た目だ。

「この度はご愁傷さまでした」

口を開くとなお保険屋のようで、俺はさらに冷静さを取り戻した。

「なんなんですか貴方は?」

男はニタァっと嫌な笑いを浮かべた。俺は背筋に寒いものが走る。なんなんだこいつは?男は先ほどまでの氷の仮面に戻ると再び平然と話し始めた。

「その問いには、先ほどの考えが近いでしょうな。無論、保険屋ではなく、死神とかそういったもの。むしろ彼らとは知り合いとも言えますね。」

メガネをくいっと上げる。俺はそんな事を口に出しただろうか?と、考えていた矢先、彼はさらにとんでもない事をしゃべり始めた。

「おめでとうございます。政宗様?貴方はブレイクギアーを持つ事を許されました」

「・・・は?」

狐につままれたような顔をした政宗を尻目に、男はすっと立ち上がると指を突き出し俺の眉間につきつけた。不思議と素早い身のこなしについていけず、なすがままになる。

「ただし!よくお聞きください?今の貴方の精神状態では私の話をまともに聞く事が出来ない可能性があります。なので最初にお話しましょう。よろしいですか?この私の話を最後まで聞く事が出来た場合、貴方のお姉様は蘇ります。よろしいでしょうか?もう一度言って差し上げますよ?貴方のお姉様は蘇ります。ただし、今から私の言う事を理解すれば、ですがね」

早口で、力強く、口を挟む隙がないほど威厳に満ちた声で男は高らかに宣言した。むしろ胡散臭くなるほどのもったいの付け方である。俺は目を丸くした。何を言っているんだこいつは?俺がゆっくり口を開こうとした時、男はまたしても大声を出した。

「無駄な抵抗はおやめなさい。口を開こうにも貴方は何を言うかも決めてらっしゃらない。そうでしょう?これは完全な時間の無駄です。よろしいですか?貴方は姉を失ったのです。今更何を失うものがあるのですか?分かったら私の話を聞くのです」

丁寧だが完全なる圧力に満ちた物言いに俺はいよいよ観念した。この男、全てを見透かしている感じといい、やはり只者ではない。叶う相手ではない。と思うと同時に、もし万が一これで姉が蘇るなどと言う事があれば儲け物ではないか。分かった、と言うより早く俺が口を開くより先にまたしてもやつは矢継ぎ早に弁論を繰り返した。

「そうです。それで良いのです政宗様。何しろ少々時間がありませんのでね。少し長い話になりますが、なるべく早く・・・そうですね。父上が戻られるまでには終わらせられるようにがんばりましょう」

俺は力なくうなづいた。口を開く度に出がしらをくじかれるのはそれでいてなかなか疲れる物なのだ。

「まず最初に、政宗様は先ほど神様と仰いましたが、神と天使の存在を信じますか?」

急に自分に課せられた発言権に戸惑いながらも、俺は途切れ途切れに、だが正直に口を開いた。

「漠然とした存在として挙げただけだ。運命とか、そんな言葉と同義の・・・抗えない絶対的な象徴として、ね。つまりいてもいなくてもたいして俺にとっちゃ変わらないな。あんた宗教か?」

やっと口に出来た皮肉も気に留めず男は続けた。

「そう、そうなのです。今、世界中の多くの人は政宗様と同じような気持ちなのですよ。神などいてもいなくてもいい、とね。すると信仰を己の力としていた神は失墜し、大天使は力を弱められ、中級以下の天使は皆、形を保つのすら困難になりました」

何を言っているんだこいつは・・・?と表層では思いながらも、疲れきった頭には不思議と男の話は素直に染み込んでいった。

「神はその御力をいずれ来るであろうラグナロクに備えるため力を封印して、流出を防ぐためにお眠りになられました。まぁ、本当にラグナロクが来るのかは御神もご確信はない様子でしたがね・・・これはおよそ100年前の事です」

俺は呆然としながらも、何となく納得しながらその話を聞いていた。

「つまり、今は神はいないと」

「言葉尻だけを捉えるとそうなります」

男はメガネを掛け直した。その奥では男の青い目が冷たく光る。

「それに伴い、現在の天界では大天使が神の代行をしています。大天使は位の高い天使で、神のような無限の力を持たない代わりに、信仰の低下による減衰も少なくてすみました。その代わり、我々には寿命が設定されているのです。御神が我々をお造りになった時にね」

『我々』という言葉に俺の耳がピクッと反応した。男もにやりと、今度は品の良い微笑みを形頬に浮かべ、ぺこりと一礼する。

「申し遅れましたが私は『大天使』と申します。申し訳ありませんが人間には名前を名乗ってはいけない決まりですので。ご了承下さい」

俺は呆れて良いのか怒って良いのかよくわからないまま男の話を聞いていた。既に疲れていたし、半ば、姉の復活など出来るわけ無いのだからこの話が早く終わって欲しい、とさえ思っていた。あえて言うなら、せめて翼でもあれば簡単に信じたかもしれない。いや、この状況ならそれでもトリックと疑っただろう。何せスーツを着た天使だ。

「さて、ここからが本題です」

男は険しい顔つきになった。その顔があまりに険しかったので俺は不意に恐怖を感じた。男は淡々と続けた。

「先ほど申しました通り、大天使には寿命がございます。そのための世代交代が必要なのです。ですが、これも先ほど申しました通り、中級以下の天使達は皆、信仰心の薄れから、実体すら保てなくなりました。もともとの力が弱すぎたのです。そんな彼らが最初に篭ったのが雲の中です。想像できるでしょうか?雷雲の中で実態を持たず、絶え間なく変化する雷の瞬きや水滴の密と粗を信号化して、少ないエネルギーで体と能力を保ったのです。画期的なアイデアでした。つまり彼らは雲をディスクとして自らを信号化して焼き付けたのです」

「それは、コンピュータのデジタル化と同じだ」

俺はその余りのスケールから、思わず感情移入してしまい、気がつくと言葉を発していた。

「まさにその通りです。中級以下の天使達は人間がCPUやインターネットを開発するもう50年も前から雲の中でデジタル化していたのですよ」

事実だとすればたいした物だ。俺は息を飲む。もし天使が本当に雲の狭間から俺たちを見守っているとしたら、それはそれで神々しい存在のようにも思えた。

「そして時代は動きます。インターネットが開発され、人間の間でも膨大なデジタルネットワークの世界が広がると、天使達は落雷を通して地上の機器に己の信号を焼き付けはじめました。もちろんプロトコルの違いやファイアーウォールなど、いくつもの障害はあったようですが・・・彼らは長い時間をかけて、数多の犠牲を払いつつ、ついにネットワーク世界を羽ばたく翼を見つけたのです。彼らを私達大天使は、既存の天使と区別するためにこう読んでいます。『電脳天使』とね」

俺はツバを飲んだ。が、しかしそうそう信じきれるものでもない。

「ここからが、本当の本題です」

先ほども本題という言葉を使ったような気がする男が、ぬけぬけと話を続けた。

「先ほどお話したとおり、我々大天使の寿命は尽きようとしています。ですからその電脳天使達の中から優秀な個体を選別する、という決議が可決されました。約2年ほど前でしょうか。彼らに戦いをさせ戦い抜いた優秀な電脳天使には肉体を与え、新たな大天使とする。定員枠は1名」

俺はさらに混乱した。天使同士の争いだと?!狂っている。

「電脳天使達はそのままでは力を持つことさえ長年出来ませんでした。何しろ彼らは信号になっていますから、実態がありません。しかし近年現状がさらに変わりつつあったのです」

いよいよ核心に迫りつつある大天使の言葉に俺は耳を傾けた。

「天使が力を行使する最大限効率的な方法は、魔法陣を組むことです。まぁ電脳天使たちはプログラムでそれをやってのけますがね。しかしいかんせん、電脳天使プログラムは大容量だ。その上確立されたコミュニケーション手法を持ち、外界との接続手段や、位置認識可能なGPS信号も取り扱いたい。しかも大原則として持ち運びができなければ戦えない。そんな要求値を満たすデバイスはずっと、存在しませんでした。しかし、こんな媒体を何処かで聞いたことがありませんか?政宗様?」

政宗をこの時、この話が始まって以来の恐怖が襲った。先ほどこの男が現れる直前、何かが起こらなかったか? 何かが俺のパーカーのポケットで産声をあげなかったか? 俺はおそるおそるポケットに手を突っ込む。ほのかに暖かい、硬質の四角い物体。重さ135gの、それをそっと手にとって俺は自分の顔の前に持ってきた。大天使の声が冷たく響く。

「スマートフォンですよ」

画面は青く発光していた。

そこには短い文字が瞬く事なく表示されている。

『Nice to meet you, Sir!』

(はじめまして、ご主人様!)


9


こんこん、という優しいノックの音で俺は目覚めた。昨日と同じ細い指の生み出す、その優しい音が俺をはっとさせる。

「政宗っ! いつまで寝てるのよ〜 全く気楽なんだから〜」

姉の快活な声が聞こえた。そうか、夢だったのか。全て夢だったのだ。俺は、がばっと勢い良く起きるとカーテンを開けて今のこの現実感を確かめた。眩しいくらいの朝日と、二階の窓から見える隣の家までの狭い世界、間に生えた小さな柿の木と、庭の少し離れたところで洗濯物を干す母の見慣れた光景はまさに現実そのものだ。急いで振り向くとドアに向かって叫ぶ。

「ありがと〜 お姉ちゃん!それとおはよー!」

俺は姉の声が聞きたくて仕方がなく、返事を期待して大きな声を出してしまったが、既に姉は階下に降りており返事が帰って来るはずもなかった。俺は急いで身支度をすると一階にドタバタと降りて行き、ダイニングに用意してあった母の手料理をいただく。父は玄関から出て行くところだ。何も変わる事の無い普段の喧噪。父も母も元気で何事も無い普段の生活。あんな夢など、なんで見たんだろう。と、その時。

「何ぼ〜っとしてんのよ。その髪で学校に行く気?」

姉に後ろから頭をつかまれ、わしゃわしゃと揉まれる。彼女はもう全ての準備を終えて、革の鞄をもって家を出るところだった。白い肌に黒い髪がさらりと残り美しい。

「うるさいな〜 変な夢見ちゃって気分悪いんだよ〜」

姉は俺の愚痴など気にする事もなく玄関に向かっていった。当の俺はと言うと姉との対話自体がなんだかすごく久々であるかのように思えてすごく嬉しい。なぜか涙がこぼれて来そうになる。ふと、思った。なぜ今日はこんなに寝坊をしてしまったのだろうか。いくらぐうたらの俺とは言え姉に起こされるなどという失態はそう何度もするものでは無い。と、そこで思い当たる節があり、ポケットをまさぐる。そう、目覚まし時計だ。ポケットからお目当てのものを見つけ出し、とりだしたスマートフォンを見てみると・・・

Master,Good morning!

(おはようございますマスタ!)

その文字を見ると急に頭痛が俺を襲った。夢じゃなかった。あの事も全て。俺は再び、出来るだけ冷静に昨日の事を思い出しはじめた。まだ左手に残る、痺れの感触が蘇ってくる。


10


「もちろん、天使の戦いに君たち人間に協力してもらう訳ですからそれなりの対価は提示させてもらっています」

その如何にもセールスマン然とした大天使は、ぺらぺらと決まった文句を並べるかのように喋り続けた。協力?利用の間違いではないか?と言ってやりたかったが彼は淡々と筋書きを口にする。

「我々大天使には、地上の人間に祝福を与える権限が付与されています。と言ってもなんでも出来るわけではありません。例えば、通貨を大量に欲しいなどと言う願いは叶えられません。通貨は貴方方人間が生み出した物ですからね。我々が自由に出来るのはあくまで御神様がお造りになられた物だけです。自然や天候の操作、そして人間や生命の操作などです。人間の操作は大天使はかなり得意な分野ですね。例えば人間の怪我を治したり、寿命を伸ばしたりといったことです。おや、政宗様?その顔はどうなさったのですか?」

俺はその話を聞いて顔が自然と険しくなっていたのだろう。この男の回りくどい説明を聞いている間に、この男が初めから俺が何を言うか分かっていて、ここまで説明して来たことに苛立ちを感じずにはおられなかった。完全に手のひらの上で泳がされている感覚。

「なんでもない。続けろよ」

男はわざとらしく額に手を当てて眉を寄せながら中空を見ると、そしてそのまま話を続けた。

「・・・そうですか。しかしその中でも人間の蘇生は多少困難な部類に入ります。さらに言うなら死語、数日経過して腐敗が始まってしまうと不可能です。それが出来るのは死語間もない間だけ・・・しかし、天使の祝福は誰にでも与えられるわけではありません。この戦いに勝利したただ一人のみがその祝福を受けることが・・・」

「それじゃ遅いんだよ!」

俺はその優男の胸ぐらを掴んでいた。自分が抑えられなくて動いた体だったが、何も考えずにそんな事ができたのは驚きだった。よほど頭に血が昇っていたのだろう。俺は男を脅迫的な目で睨みつけた。男はそれでも涼しい顔だ。

「もちろんその通りです。そこでこうしませんか?あなたに限り特例を認めましょう。今この場で祝福を授けるというのはいかがかな?」

「な、なんだと?良いのかそんな事?」

俺は奴の胸ぐらから手を離した。いくらなんでも虫が良すぎる話だ。男は乱れたコートを涼しい顔で直した。

「ただし、あなたが一回でも負けた瞬間に、特例処置は取り消します」

俺は奴の言っている意味がわからなかった。しばし黙考して答える。

「つまり、俺が負ければ姉さんが・・・」

「死にます」

今度は明らかに俺に対する攻撃だった。そして悔しい事にその攻撃の効果は抜群だ。

「そして当然ですが、他のブレイクギアの所持者達には貴方に例外が適用されている事を言わないでください。わかりますね?あなた一人に肩入れしている事を他の天使が知ったら・・・ただ事では済まされませんからねぇ」

最後に、大天使は意地の悪いニタニタとした笑みを隠そうともせずに尋ねた。

「さぁ、どうします?」


11


その夜、俺は父に電話で断りをして1人で家に帰った。まだバスも電車もあったしそう遅くはない。俺は気持ちを落ち着かせるために一人で歩きたかったのだ。大天使の話では姉が蘇るための手続きをしなければならないとかで、姉が蘇るのは今夜中とのことだった。つまり明日の朝になれば先ほどの話の真偽も自然と明らかになる。そしてもし蘇らなかったとしたら、これはやはり悪い夢だったのだと自分に言いきかせるしかないだろう。大天使は俺の元を去る前に病院の外までついて来て、ブレイクギアーとやらの使い方をあれこれ喋っていたのだが、とうの俺の心はずっと上の空だった。妙な事に巻き込まれたという煩わしさと、姉を失って悲しんだら良いのか、それともこの幸運とも言える誘いに喜んだら良いのか全くわからなかったのだ。何時の間にか一人になっていた俺は当たり前のように暗闇を切り裂いて現れたバスに乗り込む。中はほとんど俺一人で、少しクーラーが効いた車内は寒く、照明も暗くてちかちかと点滅を繰り返す。この停止したような時間の流れの中で俺は徐々に感情を鈍化させていった。俺が本当に戦うというのだろうか。本当にこれが姉さんのためになるんだろうか。俺は現実感が欠如したその光景を思い描く。姉が仮に蘇ったとして、俺は一度でも負けたら姉を再び失うという恐怖に常に怯えながら生きなければならないのか。そして姉の生も背負いながら生きていくと?そんな生殺与奪のような真似が俺にできるのだろうか。そもそも姉を蘇らせてそれを守るという発想自体がおこがましいのではないか。いくら考えても答えなどは出ず、目的のバス停に到着した事で俺はまた居場所を追い出された。夜の駅は静かで誰もいなかった。ホームからは寂しげに電車の往来を告げるアナウンスだけが響いている。とりあえず家に帰ってこの状況を整理し体を休めたい。と、ホームへの階段を登ろうとしたその時だ、俺は突然誰かにぶつかった。いや、意図的にぶつかられたという感触だ。黒い塊かと思ったがよく見ると大振りな黒いフード付きのコートだった。目深に被ったフードからは表情は伺えない。ぶつかった拍子に俺は一歩後ろに下がると、すかさずそいつは俺に一歩近づく。と同時に俺の胸元で囁いた。

「お前の天使を渡せ」

落ち着いているが芯の通った男の声。はっとして急にこわばった俺をその男はきっと睨み、上目遣いをくれた。はじめてそこで顔が見えたがおそらく俺とそう年は違わないくらいの若い男だった。俺より少し背が低いと思われる細い体の男。顔はむしろ微笑んでさえいれば女の子のように見えるような童顔で目は大きく、しかしその目は何かを求めるように獰猛で、目の中の光がギラリとまたたく。その目を見るうちに、俺は自分でも気がつかずに不思議と交戦的な気分になっていた。あの大天使のせいだと何故だか感じた。

「天使って?」

わざとおどけたように聞く。そんな物ないと信じたい自分もまだそこにいた。

「ブレイクギアーだよ。わざわざIDをたどって見つけたんだ。まさか感染してないとは言わせないぞ?」

そう言うと男は恐ろしく速い動作で懐から小瓶を取り出し俺に向かって投げつけた。とたん、俺の体がスパークしたかのように青い火花を散らして光り、若干ノイズが走ったかのように俺の体が歪んで見えた。全身をビリビリと電撃が走るかのような痛みを伴う。

「つっ!何するんだお前っ!」

俺は飛び退くが、すぐに俺の体からは青い光が消え普段の様子にもどっていた。なんなのださっきの現象は?あの小瓶の力だろうか?

「どうやら無事にデジタリゼーションは済んでいるようだな」

「デジタリゼーション??」

「なんだそんな事も知らないのか」

男は呆れたように肩をすくめる。

と、彼のスマートフォン・・・いや、恐らくはブレイクギアーがピピッと鳴った。

I have confirmed the ID

BIG Sis is there.

There is no doubt

(IDを確認しましたが)

(お姉様はそこにいます)

(間違いありません)

男はそれを見てにやりとする。わざわざ接触した甲斐があったというものだ。彼ははやる気持ちを抑えて話しかけた。

「申し訳ないが君の天使をいただきにきた」

そう言いながら黒いコートを翻す。事態に巻き込まれているゆえの、行き場の無い怒りもあったのか、不遜なその言葉に俺はさらにムッと来ていた。なんでも良いからこの目の前の男に一泡吹かせてやりたい。俺はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。そして・・・

「天使ってこの?」

俺はかつてスマートフォンと呼ばれていたそれを引っ張りだし、奴の目の前でひらひらさせた。と、その時だ。一気に俺の頭を冷まさせる事態がめまぐるしく起こった。

「何してるんだお前っ!死にたいのか!」

最初に起こったのは目の前の男の怒号だった。

それまで鈍重だった俺の世界の時計は急に動きだし、世界に音が戻った。駅を電車が通過する音がけたたましく響く。

奴は大声で俺につっかかると、俺の手からブレイクギアを掠め取ろうとした。俺はひょいと手をどけて奴からギアを遠ざける。具体的に言うと上だ。先ほども言ったが身長には若干俺に利がある。しかし、俺がひょいと腕をあげた瞬間に、かつてブレイクギアがあったあたりに急激な空気の歪みを感じ、その途端バスンっ!という大きな音と共に俺のそばの手すりが吹っ飛ぶ。それは、俺の知っている最も近しい表現をするなら、考えたくも無い事であるが『狙撃』という物だった。カランカランっと乾いた音を立ててその『弾丸』が地面に転がる。それは大ぶりなコインだった。日本の貨幣ともまた違った形と色だ。誰がこんなものを投げたのか?驚いて飛んできたと思われる方角を見ると、小高いビルの上に人影が見える。ゆうに200mはある距離だ。目の前の男も流石に驚いたようだが、瞬時に状況を察したらしい。しかしその行動はおれの予想外のものだった。

「お前、障壁も張れないのか!何やってんだ全く!」

男は俺と狙撃犯の方角の間に立ちふさがり、俺をかばう気配を見せたのだ。その時、はじめて俺は思い出した。今のこの状況、これは否応なく俺の天使選抜がはじまってしまっているとしか思えない。とすると、今俺がやられてしまうと姉は・・・

俺は急に背筋が寒くなり頬が震えた。これは確かにぼうっとしてる場合ではない。俺は自分の立場を急速に認識した。姉を生かすためには自分の身は自分で守るしかない。つまり、俺には戦いで生き残るしか道は残されていないのだ。その時再び遠距離からの狙撃が俺たちを見舞った。しかしそれは目の前のフードを被った男の眼前で阻まれる。白く光るホログラフのような図形が幾つも出現しその弾丸を弾き飛ばしたのだ。光の粒子が火花のようにあたり一体に飛び散る。これが彼の言う障壁か。政宗は目の前で行われる非現実的な光景に目を丸くした。目の前の男は顔こそ引き締まって真剣そのものであったが、まだ余裕があるらしい。頬の端に笑みに似たものすら感じる。これは勝てるという余裕なのだろうか?男の黒いコートがばさばさとはためいた。俺は弾き飛ばされたものを見てみるとそれは長さ1mほどの金属パイプだ。こんなものがあの速度で命中したら堪ったものではない。

「お、おい!その障壁ってどうするんだよ?」

「な、お前、メイン画面から普通に設定できるだろ?」

「メイン画面ってなんだよ?っていうか俺のその、天使?名前をつけろってしか言わなくて・・・」

男は呆れたようにため息をついた。

「それ、まだ初期画面チュートリアルだな。名前ぐらいつけてやれよ。っていうか名前の入力があるのか」

男はなぜか少し寂しそうな顔をした。しかしすぐ眼前の敵を見据えて強い語調にもどった。

「お前が名前をつける必要はない。あいつは俺が倒し、お前の天使は俺がいただく。いや、迎えに来たんだ、そいつを」

男は一瞬優しそうな顔を見せた。それこそが彼の本当の顔なのかもしれない。何か事情があるのを俺は察した。と、手招きしながら男は小走りで駅の中に駆け出す。

「とりあえず場所を変えよう。しかし狙撃型の天使に目を付けられるとは厄介だな」

男はそそくさと階段を登り始める。俺はそれについて急いで走った。相手の男はかなり身のこなしが軽いように思われた。

「今夜はかなりの時間を使ってあいつを撒く。もしくは倒す。悪いが付き合ってもらうぞ。むざむざ死なれても困るからな」

彼はそう断言した。そして急に立ち止まり、触れ帰ると手を差し出す。握手を求められるとは思っていなかった俺は少し驚いたが、すぐに手を差し出した。

「俺は伊月総司。お前を・・・正確にはお前の天使を守る事にした」

何やら複雑な事情がありそうだったが俺は詮索はすぐにはしまいと言葉を飲み込んだ。

「俺は尾張野政宗。政宗でいいよ」

その時、ピピッと再び彼の天使が彼を呼んだ。画面を覗き込んだ総司は少しため息をつくと、小さな微笑みと浮かべたあと、そっけなく俺に向かってブレイクギアを突き出した。もうすでに屋内なので狙撃の心配は薄らいでいるのだろう。彼のブレイクギアの画面を覗き込むと少女のような可愛らしい字体で

I'm juli

Best regards!

(私はユーリよ。よろしく!)

との文字があった。だいぶん自己主張の強い天使のようだ。それとも俺の天使も名前をつけたらベラベラとしゃべり出すのだろうか。

「では政宗、お前の家はどちら方面だ?」

ずけずけとした様子で聞いてくる。やはりぶっきらぼうなのは相変わらずだ。俺たちはしゃべりながら電車に乗り込む。幸い中には誰もいない。話を聞かれる心配はないようだ。

「中央線の駅沿いだけど・・・」本当はその先にのびる青梅線の利用者であったが、流石に先ほどあったばかりの人間に家の所在まで明かしてしまうのもどうかと考え、俺はあえて曖昧な言い方にとどまった。

「わかった。それでは今は立川だから、吉祥寺で私鉄に乗り換えて南下しよう。南武線と青梅線は乗り換えの融通が効かないから挟撃されやすい。奴に君の家を特定されるのも避けたいからな。」

そう言うと彼はブレイクギアからMAPを表示させた。GPS経由で現在の位置情報を取得したそれは、周囲の地図を自動で呼び出すと同時に三つの点滅する点を描き出した。二つは中央で寄り添い、一つは少し離れている。

「このMAPはぼぼ同じものを敵も見ているはずだ。中央の点は俺たち。遠くの点は敵だ。この辺りのノウハウは聞いてると思うが、お前は何かと心配だからレクチャーしておく。生き残るためにな」

相変わらずな総司の物言いだったが政宗は大天使の説明を事実として何一つは聞いていなかったので言い返せず口を噤んだ。総司は慣れた講義をするようにスラスラと、しゃべり始めた。

「この天使選抜でもっとも重要な情報はお互いの位置だ。天使は今までネットの中の完全な電子信号だっだからな。現実世界に出るに当たってGPS信号を使って自己の位置認識をしているらしい。天使の中には座標さえ分かれば遠距離から砲撃を加える事ができる奴もいる。つまり自分の位置を敵には知られてはならないというのがこの戦いの大原則だ。普段このMAPには自分以外の位置は一切表示されていない。このMAPに相手を表示させたければ『索敵系』のスキルで相手をあぶり出すか、攻撃を命中させて『戦闘中』にしなければならない。あとは、そうだな、最後の手段としてPINGを打つ事もできるけど・・・」

「ぴん?」

聞き慣れない言葉に俺は訝しげに聞き直した。

「えっと、周囲100mの天使の位置を知る事ができる行為だ。その代わり、周囲100mの天使全員に自分の位置を知らせてしまう」

「それって袋叩きにあうんじゃ・・・」

「その通りだ。だからこれは全く索敵手段がない天使が賭けで行うものだ。近接型の中にはそういう天使もいるらしい。だがこれは圧倒的な攻撃スキルをもつ近接型だからできる、まさに例外だ。俺たちは間違ってもこのPINGボタンだけは押さないように注意すれば問題ない」

言いながら総司は自分のブレイクギアのMAP表示の左下にある黄色いボタンを指差した。一瞬ドキッとしてしまったがまさかこの男はそんなヘマはしないだろう。指は宙空で寸止めされている。

「あとはそうだな、強力なスキルは周囲に自分の存在を知られてしまう物も少なくない。轟音や閃光という形でな。それらの情報はすべて天使がシステム経由でモニタしてこのMAPに反映する」

総司は今度はMAPを表示切り替えし、再び敵の点を映し出した。

「さて今回の敵だが、先ほど俺が障壁を展開して奴の攻撃を受けた事により状態的には『戦闘中』の扱いになっている。この状態は二人の間でのみ自動PING状態になり、お互いに位置がわかるようになっているんだ。逃げ続けたとしても約1時間継続する。その時間を過ぎるとやっと敵のMAPから姿を消す事ができる。これがいわゆる『時間切れ』という奴だ」

そこまで話していったん息を切った。総司は窓の外を見ながらなお話し続ける。俺も状況を理解しようと必至で務めた。

「先ほどの攻撃からおそらく奴は『投射』の能力を持っているはずだ。投射は遠距離からの狙撃を得意とするが、反面敵をあぶり出すのは苦手だ。しかし奴は正確にお前だけを狙う事が出来た。とするとやつのもう一人の天使は高い確率で『索敵系』のスキルを持っているはずだ。しかもおそらく『設置型』のな」

「設置型?どういう事だよ総司」

「いかに索敵スキル持ちでも、初対面の相手のレベルはわからないし、MAP上の表示から相手の名前とか個人情報もわからない。とすると奴がどうやって君を初心者と判断したかだ。おそらく奴は『境界』や『感知』あたりの能力者である確率が高い。常に警戒線を張っていられる立場なのさ。普通警戒線っていうのは端から侵入されるが、もしいきなり警戒線のど真ん中に新しい反応が突然現れたらどういう事だと思う?」

俺はやっと合点がいった。

「そうか。それはそこで新しく生まれたとしか考えられないな」

「そう言う事だ。それを見た奴が新人狩りのためにほぼ無抵抗なお前を狩りにくる事は十分考えられる。政宗は俺が小瓶を投げつけたのを覚えているか?」

「ぁぁ。でもアレってなんだったんだ?? 体にこう、ノイズが走るし、結構な勢いで投げつけられたのにそんなに痛く無かったし・・・」

「すこし話がそれるが、それはデジタリゼーションの影響だ。デジタリゼーションとははつまり身体の電子化・・・ある意味で天使の存在を俺たちの肉体に上書きしたものと思って良い」

「電子化?どういう事だ・・・」全く話がわからず困惑する。

「つまり、今俺たちが受ける痛みや苦痛はすべて俺たちの上に上書きされた電脳天使が肩代わりをしてるのさ。俺のユーリや、政宗の名無し天使がな」

俺はうすら寒いものを感じた。大天使が横でしゃべっていた、聞き流してしまった言葉を思い出す。『もし君たちが死んでデジタリゼーションが解除されたとしても死ぬのは天使だけであり、人間は全く無事だ』と。天使に痛みだけ引き受けさせておいて俺たちは戦うのみ・・・ある意味で天使の代行戦争をしているわけだから当たり前とも言えるが天使達にとってはなんとも歯がゆい事か。しかし俺たちとて不憫かとも思われた。なにせ体が千切れるような痛みを受けても、頭を貫かれようとも、死ぬまでは五体満足で、死ぬその最後の一秒まで戦い続ける事を強いられるのだ。

「話はそれたが、俺は君がデジタリゼーションされていなかった場合、人殺しになってしまう可能性があったからな。先にデジタリゼーションが済んでるかを確認したわけだ・・・しかし、この行動が奴の行動をも促す結果になってしまったのは、悔しいが事実だな。あの時お前を見ていた狙撃手は、お前が障壁の展開方法も知らないと確信したわけだ。ゆえにブレイクギア本体破壊による一撃電子化解除を狙ってきた」

危なかった。俺は改めて身震いした。あの時もしやられていたら僕はともかく姉さんも死んでいたというのか。

「そこは、俺の注意が足りなかった。ごめんな」

総司は普段言わない謝罪の言葉が恥ずかしいのか、顔を伏せて言った。申し訳なさそうな、叱られた仔犬のように眉をしかめる。背も低いこの男は不遜な振る舞いさえなければまさに女の子のような可愛い顔だとも思うのだが・・・

「ともかく、俺が奴の狙撃を障壁でガードした時に火花の内側にいた君は、Dシステム上は俺に守られた事になり、ユニット管理上の仲間という定義をされている」

またしてもわからない言葉が出てきた。俺の思案顔を読み取った総司は即座に説明を付け加える。

「Dシステムって言うのは電脳天使の住む共通媒質さ。天使が魚だとすればDシステムは水槽に満たされた水。先ほど俺がお前から奪ったライフも、少しずつ時間と共に回復しているはずだ。それはお前の天使が携帯電話の通信回線越しにDシステムから失ったデータ領域を回復しているのさ。時にはWi-Fiアクセスポイントを経由してな。その他に例えば今回の敵も『投射』を使うわけだが、天使達はDシステムの補助を受けてあそこまでの狙撃を可能にする。それには細かいルールが無数にあるんだ。その力に沿ってしか俺たち所持者は力を発揮する。だから万能にはなり得ない。まぁ、ルールそのものと思っておけばいいよ。神様の力、と言い換えてもいい」

説明がめんどくさくなったのか途中で投げやりな口調になった。総司は少し疲れたように息を吐く。電車はすでに二、三駅を過ぎたが、全く人が乗り込んでくる気配はない。ため息を吐きたいのは俺も同じだった。

「覚える事が多すぎるな」

「お前は覚える必要はない。お前がブレイクギアに関わるのは今日一日のみだ。まだ天使の名前はつけてないだろうな?」

総司は妙に政宗の天使の、しかも名前にこだわるようだった。俺は思い返してふと疑問が浮かんだ。

「ちょっと待てよ。さっきあいつの天使は2人いると言ってなかったか?そんなのありなのか?」

そうか、とばかりに総司は人差し指を立てて自分の唇の下あたりを二、三叩き、目は右斜め上の何処か遠くを見て少し思案する様子を見せた。

「君は知る必要はないだろうが、一応説明しておく。天使というのは一つのブレイクギアにたいして2人感染するのが普通なんだ。1stの天使がレベル3以上になってはじめて2ndが覚醒するんだけどな。奴が俺に放った攻撃はレベル2スキルの狙撃投射だった。つまり敵の戦力は最低でも1stが投射のレベル3と2ndが謎のスキルのレベル1か、1stが謎のスキルのレベル4と2ndが投射のレベル2ってとこだな。ちなみにスキルのMAXレベルは1stが5、2ndが3だ。つまり最終的には8つのスキルを使用可能になるわけだな」

こちらを気遣ってゆっくり俺の目を見ながら話してくれた彼は、頭を抱える俺を見て気遣わしげにもう一言追加した。

「まぁ、君が覚える必要はないよ」

俺と年が違わないはずなのにひどく玄人地味ている少年を見て、俺は思わず訪ねていた。

「総司はいつからこの戦いを?」

予想外の質問に彼は少し戸惑ったようだった。また思案するように今度は目を細めながら下を見ると「1年・・・いやそろそろ2年か」

「長いんだな」

「いや、あっという間さ」

少し目の色に悲しい響きを見た俺はこれ以上聞いてはいけないような気がしたので、そこで踏みとどまった。何時の間にか外は雨が降りはじめていた。ふと、ピピっとユーリが声をあげた。総司はブレイクギアーを取り出して見る。

I'm sorry, master.

I bring not good news.

(すみませんマスター)

(悪いニュースです)

と、その瞬間ガタンっという大きな音ともに電車が揺れた。


12


暗闇の中、その鉄の塊は車体の軋む音を撒き散らしながら急減速していく。ブレーキから火花が挙がり、車体が大きく揺れると、ほどなくして完全停車した。ヘッドライトが暗闇の中続く線路と雨粒のみを映し出す。直後車内にアナウンスが鳴った。

「ただいまこの先の線路上に人が侵入したとの情報があり、現在確認のために数分間停車を・・・」

総司は舌打ちした。やられた。侮ったか。協力者を呼んだと考えるのが妥当だろう。総司は戦う事を考慮してさっと周囲を見渡す。この車内には酔っ払って眠るサラリーマンが一人とその他は総司と政宗のみだ。だが隣の車両には少し多くの客も乗っている。やはりここでは戦えないと踏んだ。単に追いつくための時間稼ぎなら列車を停めた協力者は一般人の可能性もあるが、もし天使が2人組んでるとなるとどうだ? 総司は考えを巡らせる。やっと見つけた探しモノだ。ここでむざむざやられるわけにもいかない。総司は敵の思考を読もうと考えをいろいろと巡らせたが、こちらはなかなかまとまらなかった。そもそも今まで天使選抜戦では暗黙のルールとして一般人を巻き込まないという前提が、ブレイクギア所持者の間には存在していた。何故なら圧倒的に最終勝利者になる可能性が低いこの戦いでは、ほぼすべての所持者がいつかは負け、それまでの普通の生活に戻る事になる。皆心の何処かではそれを大なり小なり自覚しているからだ。そしてそのためには社会的な規範からできるだけ逸脱したくないという自制が働き、結果として戦いの中のモラルを高く保つ事につながっていたのだ。それは現実世界への最後の帰還切符を机の中にしまっておくような、ひとところの安心感。しかし今、その切符を破り捨てようという輩がいるというのか?どこまでやるつもりなのか見当もつかなかった。電車を止めるくらいならここ東京ではよくある事なのでまだギリギリのラインであると言えたが、しかしもしこのまま電車に乗り込んで戦いを挑んで来るというなら??総司は最悪の事態を想定して次の一手にでた。

「政宗、濡れる覚悟はあるな?外に出るぞ」

「やっぱりな。分かったよ」

政宗は躊躇う事なく簡単な返事をすると、パーカーのフードをひょいと被った。初戦だというのになかなか度胸があるものだ、と総司は思いながら、非常開放コックをの蓋を開けると、ハンドルを思い切りひきはなった。ガクンっとロックが解除され、扉が開くようになる。総司は雨の夜に滑らかに滑り出すと、軽やかな身のこなしで柵を飛び越え、長い芝生のゾーンを疾走すると、その付近にあった立体駐車場に潜り込んだ。俺もそれに続く。総司は再びMAPで敵の位置を確認していた。

「敵はすぐ近くまで追いついているな。やはり電車を止めたのは奴の仲間ってとこかな」

彼はおれに向かって画面を見せた。なるほどすでに100mと少しの所まで来ている。

「しかしこれで奴の仲間が天使を持っている可能性は低いという事も分かった」

俺は彼の言う事が分からず頭に疑問符を浮かべた。

「政宗、奴の能力は投射だよ。しかも俺たちの位置が割れているんだ。この辺りなら、ここと、」

総司はMAPの上を指でなぞり地図上に▼印のマーカーを接地した。同じように続けてもう一つ印をつける。

「ここだな。仲間がいれば足止めをさせておいて、これらから俺たちの狙撃を狙った方が確実だ。」

「なるほどね。のこのここの距離まで来るというのはソロで戦っている証拠ってわけね」

俺はやっと合点が行き手を叩いた。そもそも初撃から遠距離狙撃で来るような慎重派の敵ならなおさらだろう。この総司という男、敵の心理を読む事には長けているようだ。おそらく敵もそうなのだろう。これが天使選抜戦というものか。俺は感心すると同時に恐怖すら感じる。こんな人種を相手に俺が渡り合って行けるだろうかと、不安ばかりがつきまとう。その時だった。大きなエンジン音と共に駐車場の一方の端に、この雨の中にも関わらずバイクが現れた。ヘッドライトを光らせながらこちらを照らすと、一旦そこに停車した。眩しくてよく見えないが黒いライダースーツにフルフェイスヘルメットのライダーがこちらを見つめているようだ。雨の音と混じり周囲の緊張感が支配していく感覚。相手はこちらの様子を見ているようだった。相手にとってはバイクで突っ込んで良いモノか、臨戦体制に入るべきか非常に悩む所だろう。しかしもうこうなってはお互いに、決着をつけるしかあるまい。時間は幾許もないように感じられた。

「政宗、戦いの前に一つ言う事がある」

総司が俺に告げる。エンジンの音はまだ高鳴り続けている。それがひときわ高くなったかと思ったその時、バイクは唸りをあげてこちらに突進して来た。

「でもそれってどう言う・・・」

「来るぞ!」

俺の声が総司に届くその前に、言葉はエンジン音に切り裂かれて消えた。漆黒のライダーはポケットから食卓用のナイフを無造作に何本も取り出して指の合間に束ねて構えると、振りかぶる仕草でそれを流れるように投げる。赤い光の尾を引きながらそれはまっすぐと総司の足を狙って放たれた。『投射』だ。それを総司は並外れた反射神経で横に跳躍して逃れる。駐車場の通路を挟んで政宗とは分断された形だ。敵は2人の間をすり抜け、少し離れた所に素早くバイクを停めた。するとヘルメットのフェイスガードをあげて喋りかけてくる。以外にも女の声だった。

「あなただいぶ玄人さんね。でも頼むから私の獲物取るの辞めてくれないかな?あなたが美味しくいただきたいのもわかるんだけどさぁ」

よく通る声が駐車場の中に響く。その声質には嫌味な感じこそ無いものの、妙に艶っぽく、大人の女のわがままさを覗かせていた。女はまた新しいナイフを両手に構える。

「貴方には用は無いのよ。やったらお互い疲れそうだしね。わかるでしょ?見逃してあげるって言ってるのよ」

最後の部分を強調して言う。女はフェイスガードの陰から覗く目を見てもかなり美人なように見て取れた。それでもヘルメットを外して美貌を武器にしないところは、彼女が自分の容姿ではなく、その強さで生き残って来た、そしてこれからもそうして行くという、強い意志が現れているような気がした。

「俺たち2人を相手にするなんて、思ったより頭が良くないみたいだな」

総司がはったりをかます。確かに俺がここまで無防備なのは向こうの知らないところだ。総司の事情が無ければ、俺にレクチャーをして2人で戦うのが定石にも思えた。

「今更見え透いた嘘は辞めて頂戴。あなた達に2人分の戦力があるなら、そもそもなぜ逃げる必要があったのかしら?見くびらないで欲しいわね」

総司はチッと舌打ちをする。

「悪いが」

総司がゆっくり口を開いた。

「こいつは俺が先約だ」

「そう。じゃぁ一足先に楽になるのね」

彼女は再びフェイスガードを下ろすと、両手のナイフを胸の前でクロスさせて構えた。直後、右手で俺に、左手に総司にナイフを高速で投げつける。総司は相変わらずの動きで車の影に隠れるが俺はそうはいかない。避けようとしたが思うように足が動かず太ももをナイフが貫く。途端にまたノイズが走り、青い閃光と火花の奔流の中で痺れるような痛みが俺が襲った。だが痛がってもいられない。刺されることによって一番痛いのは天使だ。俺の天使は俺以上に痛みを感じているはずなんだ。俺は食いしばるとナイフを抜いた。再び軽い痛みが襲う。俺は思わず呻き声を漏らした。

「本当に美味しいわね、君!ぞくぞくするわ!」

俺の苦しげな悲鳴が彼女の中の何かを掻き立てたらしく、敵の注意はこちらに集中したようだった。新しく斉射を開始すべく懐から取り出した大量の次弾を両手に装填する。その様子に気がついた総司は俺に小さくアイコンタクトをすると、近くに刺さっていた敵のナイフを引き抜いた。俺は咄嗟に総司とは逆方向に跳び、彼女の目を反らす。総司はすぐさま彼の胸の前にナイフを構え、最低限の軽い動作で下手投げに敵に向かって投げつけた。ヒュッと風を切るように投げられたそれは敵のものと同じように、赤い閃光の尾を引いて、油断していた敵のフェイスガードに鋭い音を立てて突き刺さった。ヘルメット越しに悲鳴が響き渡る。深々と刺さるそれはナイフの長さから言っても、恐らく顔の中央を貫き、眉間に深々と突き刺さっているに違いない。あまりの事に敵は愕然とした様子で、がくがくと震えたあと膝をついた。頭では死なないと分かっていても自分の顔のど真ん中にナイフが刺されば、精神的な動揺は抑えきれるものではない。無理もない事だった。しばし静止した後に俺が近寄ろうとした矢先、彼女は再び立ち上がった。そしてヘルメットを脱ぎ捨てる。中から現れたのは意外にも若い---と言っても2人よりは確実に年上だが---女性だった。おかっぱの黒髪の下に意思の強い目を光らせた、女性にしては背の高い人物だった。今はそのつり目気味の瞳に狂気の光を浮かべ、唇は屈辱に震えている。総司が再び眈々と俺に話しかけた。

「政宗、いくらこの世界に長くいると言っても、何故これほどに相手の動きが手に取るように読めたか教えてやる・・・見ての通り、ユーリの能力も『投射』なのさ」

総司は付近に落ちていたナイフを拾い上げ、手のひらの上でヒョイと投げてキャッチした。左手にはブレイクギアを光らせながら敵の眼前に立ちはだかる。

「そしてあんた、投射は2ndだな?この距離で追跡投射を使わないのはおかしいぜ。1stはレベル4で投射はレベル2の狙撃投射を覚えたてって習得具合かな?」

女は黙ったまま口をつぐんでいる。おそらく当たっているのだろう。悔しさが一層にじみ出ていた。

「油断を狙って一回攻撃を当てたくらいで良い気にならないで欲しいわね。この一撃は高くつくわよ」

女も負けじと両手にナイフを構える。よほど顔面を串刺しにされたのが悔しいらしい。いや、腰を抜かした瞬間を見られたのが悔しいのか。

「まだやるつもりならいいぜ。『物理型』の天使の扱い方をレクチャーしてやる。俺も2ndだがな」

言い終わらぬうちに、女の投げた無数のナイフが猛スピードで総司に向かう。総司は右手をサッと振り上げて構えると、自分の前で大きく手を振る軌道で地面にナイフを投げつけた。黒のコートがはためくと同時に、一瞬で敵のナイフがあちこちに弾け飛ぶ。いや、総司が弾き飛ばしたのだ。散らばったナイフと、総司が地面に投げつけたナイフが破壊したコンクリートの破片が辺りに飛び散る。

「コレは極意の一つだが、最期の記念に教えといてやる。投射には投げる瞬間の約0.3秒の間、投げる方の腕に『無敵判定』が発生する。どんな攻撃もDシステム上はダメージ処理を受け付けないのさ。防御に活かせばこの通り。なんだ?その顔は知らなかったのか?」

総司は振りかぶったまま眈々と説明をし、さらには挑発まてましてのけた。

「それよりさっきから投げ過ぎで天使が息切れしてるぜ」

総司は何時の間にか彼の左手に持たれたナイフを、目の前でひらひらと見せつけた。投げられたナイフの一本を手で受け止めていたのだ。

「こいつにはDシステムの補助が全くかかってない。無闇に投げ過ぎたな」

「くっ」

相手の女は自分のブレイクギアを見て悔しそうに呻いた。恐らく残りのエネルギーのようなものが表示されているのだろう。総司はピンっとナイフを弾き、遠くに捨てた。尚も抵抗しようとする敵を見て、今度は自分のブレイクギアを見てから言う。

「まぁ、ここは電波も良いし少しは回復もしていると思うが、あまり無理はしない事だな。悪いがとどめを刺させてもらうよ。君はどうやら協力な索敵系の能力を持っていそうだし、今後付け狙われても困るしね」

そう言いながら総司はいくつかのカートリッジを懐から取り出した。透明なプラスチックケースのようなそれは茶色の中身が透けて見える。

「俺にもね、ナイフを武器にした時代があったさ」

両手で赤い光を放ちながら一瞬で加速させる。総司が振りかぶって投げると、同時にその何かは弾け飛びながら無数の針に姿を変える。全方位攻撃。もはや面という面が針で埋め尽くされ回避のしょうがない。それは爪楊枝だった。先ほどのナイフとは比べ物にならないほど多くの、まさに無数と言える針が彼女の全身に突き刺さる。総司は振りかぶる際に体にかかったコートを払いながらつぶやいた。

「人呼んで、ニードルサーフェイス」

青い閃光があちこちにスパークし、ノイズが弾けとぶ。断末魔さながらの叫びをあげながら彼女はその場に倒れた。

「大丈夫だったか、政宗?」

総司はこちらに近づきながら手を払った。俺は緊張がほどけて思わず座り込んでしまう。

「だ、大丈夫だよ。しかし総司は強いな」

「相手より多少情報量が多かっただけさ」

「そうか・・・しかしこれで彼女の能力は謎のままだな」

総司は放心状態で倒れたままの彼女をチラリと見た。

「さっき言ったみたいに電子化の解除は死じゃない。意識が戻ったらまた詳しく聞いてみるさ。そろそろカーコに溜まってる借りも返したいし・・・」

そこまで言ったところで総司はなにかにはっと気がつき、こちらに向かって走りこむ。そして俺に手を延ばしながら叫んだ。

「ユーリッ!」

Itri!(やってみます!)

その時、総司の体越しに、その倒れていた彼女が何かを叩くのが見えた。と、その次の瞬間だった。ガラスを爪で引っ掻くような耳障りな音が大音量であたりに響きだす。轟音。これは空気を猛烈に揺らす音?と、あちこちで車が爆発を始める。彼女の能力が空気を異常振動しているのだ。閃光で周囲が包まれた時、総司の体から展開された障壁が俺たちを覆うのを俺は見たが、その時にはもう2人は吹き飛ばされていた。俺たちは数メートル吹き飛んだあと、地面を転がった。幸い総司の障壁のおかげか俺にはほとんど傷は無い。あたりはもうもうとした煙に包まれている。空気の振動音はなくなったが、恐らく大多数の車のガソリンがあの瞬間に爆発したため、あちこちは火の海になっていた。残りの車も次第に引火しているようだ。俺は俺の体の上に総司が横たわっているのに気がつくと、彼の肩を揺らした。

「総司?!大丈夫か総司!」

総司はぐったりと力がなくなっている。爆風のショックをもろに受けたようだ。障壁と言う名のバリアも万能ではないのだろうか。意識を失った彼は一言も発することがなかった。まさかと思い心臓に耳を当てるが音は無い。しかし、はっとした瞬間に俺の首に彼の吐息がかかった。彼は確かに生きている。俺は戸惑ったが、もしかしたこれがデジタリゼーションという物かも知れないと考えなおした。むしろこの際あまり詮索も推理もしている余裕はない。それでも学校の身体測定の時にはどうするべきかとそんな考えを引きずりながら、俺はとりあえず総司の体を背負い駐車場から離れようとした。外は未だに雨が止んでおらず、長い草むらを濡らしていた。俺はなるべく暗い方にと雨の中を、体を引き擦りながら歩く。敵も瀕死のはずだ。どこか時間さえ稼げれば。総司が目を覚ますはず。その時、総司の右手に握られたままのブレイクギアが目に入った。

Damn it!

(なんてことなの!)

ユーリも相当参っているようだ。

「ユーリ、なんとか逃げられる方法は無いかな?」

I have no idea.

(思いつかないわね)

「そっか・・・あ、そうだ、さっき総司が、ユーリは2ndだって言ってたよね?総司の1stの天使さんは助けてくれないの?」

well・・・well・・・

(えっと・・・その・・・)

と、途端に遠くから足音が聞こえた。遠くから規則的に聞こえる草を踏む音は、まさに死神の足音に聞こえる。敵に見つかったのだ。俺は総司を背負ったまま足音のする後方を振り返る。と、その瞬間バイクの残骸が猛スピードで飛んできた。これを投げたと言うのか。赤い光に包まれた巨体が、スローモーションで俺の視界を埋めていく。雨粒を潰しながら鉄の塊が少しづつ俺に近づいてくる。だめだ、もう間に合わない。俺は無意識に、自分のポケットの中の物を握りしめていた。もう終わったと、観念しろという誰かの声が頭に響く。目の前に姉さんの顔が浮かぶ。死なせたくない、あんな思いはもうしたくない。でもどうしたら良いんだ、あんな奴を相手に。どうすることもできないじゃないか!自問と自答が刹那に弾けたその時、脳裏に何処からともなく言葉が響いた。

Are you not a little in the early to give up?

(あら、諦めるのは早いんじゃございません?)

何処となく優しい、しかしいたずらめいた口調。続けて言葉が流れてくる。

Always, Joker is in the pocket?

(切り札っていうのはいつだってポケットの中にあるものよ?)

その途端、パーカーに突っ込んでいた俺の左手に強烈な痺れが走ると、眼前に青い電撃の帯が走り、迫り来る障害物をなぎ払った。俺の右手にガシャリとバイクの残骸が転がる。俺は目を見開くと同時に、自分の手に走った痛みに耐え切れず呻きを漏らす。右手からは背負っていた総司を取り落としてしまった。

「政宗・・・」

総司の呻きが聞こえた。意識が戻ったようだ。少し痛みありげに体を捩らせる。体が何度か薄青くノイズを散らした。総司は痛みを堪えて、なお口を開き続けた。

「政宗、お前の・・・天使は、俺の1stだ」

俺には戦慄が走った。俺の天使が総司のもの?どういう事か全く事態が把握できない。俺の戸惑いの表情を見て彼は苦い表情を作った。

「名をアスカと言う・・・俺の、死んだ大切な人と同じ名前のな。ふふふ、今になって笑えてくるよ。俺は今の今までその天使をアスカの生まれ変わりだって・・信じてた。ついさっきまでな。だから逃がしたのさ。2日前に強敵と当たってどうしても・・・彼女を死なせる事ができなかった。おそらくこんな奴は天使選抜始まって以来の事だと思うが。だが、その天使はどうやらやはり彼女じゃないらしい」

総司は悲しそうな顔をする。目は黒に沈む空を凝視していた。俺は思わず口を開いていた。半分は自分に言い聞かせながら、辛い言葉を吐く。声が震えていた。

「総司・・・死者は、自分のために生きる事をきっと喜ばないよ」

俺はポケットの中で自分のブレイクギアーをしっかりと握りしめ、立ち上がり、そして眼前の敵を見据えた。敵はもう見えるところまで来ていた。

「そして、こんな狭い場所に、君の大切な人はいない」

俺は俺のブレイクギアと完全に呼応していた。光があふれる。今から俺が何をしようとしているのかも、その結果も俺の天使はすべてわかっているような気がした。

「ぁぁ、分かっているさ。アスカはもう、2年前にいなくなったんだ」

総司は顔を伏せる。しかし口調だけは気高く、芯を貫いた声で叫んだ。

「呼べ、政宗!お前の天使はお前が名付けろ!」

俺は顔を伏せたままの総司の方を向き頷いた。光の奔流が儀式の始まりを告げる。

「目覚めろ・・・アリス!俺に力を貸してくれ!」

光が溢れた。いや、それは光ではなかった。凄まじいまでの電気の渦が俺を中心に渦巻いていた。電撃がスパークする青白い火花が辺りに弾け飛ぶ。

Good evening, master.

I'm honored to meet you

(ごきげんよう マスター)

(お会いできて光栄ですわ)

「覚醒、しちまったか」

総司は複雑そうに声を挙げる。冷たい雨が彼に降り注ぐ。俺の耳には戦いの前に総司が俺に言った言葉が蘇ってきた。

『人を殺した事は?』

『無いに決まってるだろう!』

『それで良い。これからもな』

『それってどう言う・・・』

今なら俺には総司の言う事がわかった。この状況で踏み出せなかった方が負ける。躊躇している暇などどこにもない。それに、俺には姉さんの命も掛かっているのだ。デジタリゼーションを解除されるわけにはいかない。

「この能力は、やはりボルトか」

総司がつぶやく。俺には能力の名前などは、もはやどうでも良かった。だが不思議と俺にできる事はなんとなく理解ができた。

「アリス、あいつを倒すぞ」

Forgive me, even though I sleep?

(私は寝てて構わないかしら)

「バカ言うな・・・よっ!!」

俺は辺りに散らばる電撃を束ねて思い切り奴にぶつけるべく振りかざした。辺りに乱暴に電撃の束が散乱する。だが思ったより遠くまでは届かない。どうやらボルトは遠距離向きの能力とは言えなさそうだ。敵の頬をピリピリと電撃がかすめた。俺は奴に向かって走り出した。一瞬雨に濡れた地面に電気を流す事も考えたが、流石に一気に電力を消費してしまうのではないかと躊躇した。それに地表を伝わった電気が総司に届かない保証もない。やはりなんにせよ奴が構えモーションに入る前に、直に接触する必要がある。敵は今度は少し小振りのナイフを取り出すとこちらに向かって連続で投げつけてきた。弾幕は確実に薄くなっており、素人目にもポイントの枯渇が見て取れる攻撃だ。俺はチャンスとばかりにさらに前進した。ナイフは痛みはある物の、あたりどころが悪くなければ致命的なダメージは防げると踏んでいた。俺の左手に一本刺さり、また電子の歪みが発生する。痛みが駆け抜ける中で俺は、『アリス、ごめんな』と心の中でつぶやく。彼女はもっと痛いはずだ。俺は敵が特に力を入れて振りかぶった瞬間に一気に踏み込み、敵が振りかぶった右手の外側、奴の背中側に一気に飛び込んだ。肩口に深くナイフが刺さり、鋭い痛みが駆け巡る。しかしそんな痛みに負けるわけにはいかない。俺は顔を歪めたがさらに一歩を踏み込み、完全に死角に回り込んだ。と思ったその時だ、奴はその左手を背中越しに回し、手に持った小瓶の中身を投射した。赤い光の奔流が俺を襲う、それは砂だった。奴は近接戦時の切り札として砂を準備していたのだ。俺は避けきれず、身体中に激しい痛みを感じる。しかしその刹那、アリスが瞬時に反応を示した。

Can go.

No problem.

It is done

(行けるわ、問題ない。)

(やってしまいなさい)

「アリスッ!」

俺は最後の力を振り絞り両手から放電した。電気が砂の中にわずかに含まれた砂鉄を通じて奴の体に流れ込む。

「く、あぁ!」

彼女は青いノイズを散らしながら二、三回身悶えしたかと思うとその場に崩れ落ちた。彼女のブレイクギアは一瞬強く光ったかのように見えたが、画面が暗くなり文字が表示される。

It was fun. Thank you.

(楽しかったよ。ありがとう。)

「テロメア・・・ミリス・・・」

恐らく彼女の天使の名前であろう名前をつぶやき、彼女は先ほどまでの感情の高ぶりが嘘であるかのように憑き物の取れた、すっきりした顔をしてこちらを見た。

「罪よね。このゲーム。いつかは天使とお別れしなきゃいけないなんてさ」

俺はなんと言っていいかわからず、口を開いてもう一度閉じた。天使と添い遂げるただ一つの方法は、すなわち最後まで生き残る事。しかしそれは限りなく低い確率でしか無いのだ。俺は不意にアリスに名前をつけた事を少し後悔していた。自分で名前をつけてしまったのだ、愛着がわかないはずが無いではないか。と、その瞬間、ピリッと左手に電流が走る。ブレイクギアーを握っている方の手だ。見るとアリスが何か喋りたそうにしている。

Please do not look like that to win.

(勝ったのになんて顔してるの)

その無機質な英語に、なぜか俺は無意識に姉さんの声を当てはめている自分に気がついた。

And take me to heaven.

(私を天界に連れていってね)

姿すら見えない電脳の天使がにこりと笑いかけたような気がして、俺はいつ別れるとも知らないこの天使に、なんと応えたものかと立ち尽くしていた。雨だけが、静かに三人を濡らす。

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