空ビンに託された願い

トポ

短編

 ベルリンのレイト・ナイト・ショップで夜勤なんてしていると、色々変な人たちを見かける。レイト・ナイト・ショップとはアパートの一階を少し改造しただけの、狭くてみすぼらしいコンビニのような店だ。ここでは毎晩少なくとも一回ぐらいはハプニングがある。幸い、身の危険を感じることはあまりない。この街はドラッグとナイト・ライフが盛んだから、この店に来る客はみんな浮かれていて、店内に流れるEDMに合わせて身体を動かしながらビールやタバコ、それに無漂白ペーパーを買っていく。だからハプニングと言っても、喧嘩とかじゃなくて、麻薬を摂取しすぎた人たちが店の前で倒れたり、僕は働かなきゃいけないのに酔った客に朝まで政治や宗教の議論に巻き込まれたり――そんな感じのものだ。

 具体的なエピソードとして、瞳孔が極限までに広がった女の子にじゃれつかれたことがある。彼女は露出度が高すぎる衣装を着ていて、なかなかセクシーだった。こう出来事はあまりない。レアな体験だけど、仕事中ではなにもできないので、ラッキーというよりはちょっぴりウザい。どうせ相手もそれを知っているから、僕を口説こうとしているわけではなく、ただからかっているだけなのだろうけど。

 まあ、素面で凧より高くハイな人たちの相手をするのは疲れる。だけどあるドイツのラッパーが歌ったように、僕は若くてお金を必要としているし、やり甲斐はなくても結局のところは退屈しない楽しい仕事だ。

 クラブでパーティーをする人たちがレイト・ナイト・ショップに来るのは一回かぎりが多い。やっぱりベルリンでは観光客が多いし、毎週同じクラブに通っている人は少ないからだ。そのため店の常連の殆どは、一晩中公園とかでビールを飲んでいるアル中ばかり。その二割くらいはホームレスなのではないかと僕は思う。

 僕がホームレスだと思っている内の一人は、毎回土日の朝の四時ごろにスーパーから盗んだ買い物用のカートを押してやってくる。そのカートはいつも空ビンでいっぱいだ。ドイツでは空ビンを換金できるから、金曜日から月曜日にかけて夜の街を徘徊して、パーティーする人たちが飲み終えたビンをホームレスたちが集めている。それで稼げるお金は微々たるものだけど。

 ところで、普通の客からはビンの換金を受け付けるな、とトルコ人のオーナーに言われている。こんな小さな店では色んな種類のビンを選別して保管しておくのが面倒だからだ。しかし、三十本以上持ってくる客は換金しろ、とも言われている。

「朝方ではスーパーなんて開いてないから、ホームレスたちも大変だろう。だから彼らのビンはちゃんと買い取るんだぞ」ティーネージャーのころは共産主義者だったらしいオーナーは言う。

 空ビンを換金できるレイト・ナイト・ショップは他には近くにない。だからあの男は欠かさず土日の午前四時ごろにこの店にやってくるのだ。彼は明らかにアル中で、ドイツ語はあまり喋れない。だけどいい人ではある。身振り手振りで数回ほど話して、どうしてかはよくわからなかったけど、一緒にゲラゲラ笑ったことがあるのを僕は覚えている。

 でもやはりその男も変わっている。朝方にやってくる客はみんなそうだ。なにが変わっていると言うと、彼は空ビンを換金するたびに、ちょうど二十本目に当たるビンをお金にせず、大切そうに分厚そうなコートの下に隠すのだ。そして彼は一番安いビールを三本買う。毎回三本だ。それ以上飲みたいと彼は時々愚痴るのだけれど、スーパーで買う方が安いから、レイト・ナイト・ショップで買うのは三本と我慢しているらしい。

 ある夜、彼は空ビンを充分に集められなくて、ビールを三本買うのには五セント(五円くらい)足りなかった。だったらコートの下に隠した二十本目の空ビンを換金すればいつものように三本買えるよ、と僕は言ったのだが、彼はそれはダメだ、と首を振り、仕方なく僕が足りない分を出した。

 なぜそこまで二十本目の空ビンに執着するのかと僕は不思議に思った。そのことを僕はある時彼に訊いてみた。するとそのホームレスの男はニッと飴色の歯を見せて笑い、僕のドイツ語がよくわからない、と答えた。仕方なく僕は肩を竦めて、彼に合わせてニッと笑った。

 そのレイト・ナイト・ショップを僕は一年半ぐらいで辞めた。込み入った理由なんてなく、ただ単に夜勤は精神的にも身体的にも応えるし、大学の勉強の妨げにもなっていたからだ。

 そして二年後、僕はある日曜日の朝方、働いていたレイト・ナイト・ショップからさほど遠くないクラブの前にできた行列に並んでいた。僕にはその晩、女の子の連れがいた。彼女とは二週間前にデーティング・アップを通して知り合い、数時間前始めてリアルで会った。最初僕たちは他のクラブに入ったのだけど、そこの音楽はヒップホップ系ばかりだったので、違う場所に行くことにしたのだ。僕たちの瞳孔は広がっていて、なにもかも鮮やかに映っていた。写真より可愛い彼女を饒舌になった僕は色んなことを話して楽しませようとしていた。

 そうして立っていると、明るすぎる街頭の下にあのホームレスの姿を見かけた。僕は驚いて、少しの間彼を凝視した。彼女にどうしたの、と揺さぶられた。ホームレスの男は蓋が開いていないビールビンを三本入ったカートを押して、僕の視野から出ていこうとしていた。

「ち、ちょっとここで待ってて。先に入らないでね」と僕は彼女に叫び、急いでホームレスの男の後を追った。

 彼の毎日はこの二年間少しも変わっていないようだった。いまだに彼は空ビンを集め、僕が働いていたレイト・ナイト・ショップでビールを三本買っている。僕は仕事を辞め、今は家庭教師として働き家賃を払い、大学の勉強も進み、元彼とも別れて、新しい彼女ができて、また別れて、一ヶ月前は全然知らなかった女の子を口説こうとしているのに、彼の人生は、時計が壊れて止まるまで果てしなく回り続ける歯車のような同じ毎日を刻んでいる。

 道を曲がって一瞬彼のことを見失ったかと思った。だけどあたりを見回すと、彼はベルリンでも薄汚く、誰もいない公園の隅のベンチに座っていた。遠くからクラブの音楽がそれ以外は静寂の夜に浸透している。ウツ、ウツ、ウツ、ウイーン――と、いうふうに。僕は無言で彼に近づく。

「やあ、覚えている?」僕はビールを美味しそうに飲むホームレスの男に言う。二年前よりは彼の体臭が強くなっている気がした。

 彼は首を傾げたが、すぐに頷く。「わたし……君覚える……覚える」

「近くにいて、君のことを見かけたから……」僕はなにを言えばいいのかよくわからない。男は鼻を赤くして微笑んでいる。僕は恐る恐る切り出す。「あのさ……前から知りたいことがあったんだよね」

「欲しい、知る? なに?」

 僕は男のコートを指差す。「持っているんだよね、二十本目の空ビン」

 男はコートのジッパーを開けて、内側のポケットから空ビンを取り出す。昔のように大切そうに。「これ?」男は訊く。

「うん」僕は頷く。「それをどうするの?」

 男はへへへ、と笑う。そして男は突然立ち上がったかと思うと、空ビンを地面に叩きつけた。僕は驚いて身構える。ほんの一瞬だけ、刺されて殺されるかと思った。

 だけど男は僕に向かって手を振る。「全てOK。危険、ない」

 ホームレスの男は腰を折って、地面に散らばった茶色のガラスの破片を眺める。なにかを探し求めるように。しばらくの間、僕は地面にうずくまる男を見守っていた。やがて彼は立ち上がり、「今日……また、ハズレ」と残念そうに言う。

 僕は首をかしげる。すると男は自分を指差して言う。「わたし」それから今度は粉々に割れた空ビンを指差す。「宝くじ」

「えっ? どういうこと?」

 男は瞬きをする。額の皺と長く伸びた髭の間に隠れた彼の目は街頭の光を反射して真っ青に輝いている。公園は華やかなダンス・ミュージックで満たされている。この場所を迂回するような足取りで、次のクラブへと急ぐパーティー客のグループが目に入る。

「本物……高い……買えない」

 ホームレスの男はニッと飴色の歯をむき出して笑う。

「毎週……楽しみ」


 引用:Eko Fresh, Ich bin jung und brauche das Geld(エコ・フレッシュ、俺は若くて金がいる)

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