三月、黒猫は夜街を歩く。
朝月春樹
三月、黒猫は夜街を歩く。
いつものように、僕は夜の街を歩いた。
僕を囲む家々からはちっとも明かりが出ていなくて、月や星々の明かりがぼんやりとこの街を照らしている。
空に浮かぶその満月は、僕の目と同じ色だ。
暖かい時期特有のほのかな匂いと目を覚した始めた花々の香りが僕の胸を高鳴らせた。
何か面白いことがありそうだ。
だとしたら、どんなことだろうか。何か良い物が落ちているとかだろうか。そんなことを考えながら、いつもの散歩ルートである、ブロック塀の上を歩いていていた。少しずつ花が咲きだした桜の木を通った直後、嗅ぎ慣れない香りがした。それはほのかに甘く、優しい。
桜の香りだろうかと思ったが違った。人間が窓際に座っていた。長く、端が切りそろえられた黒髪は、淡い水色の布一枚でできた服とともにはらりはらりと風で靡いている。陶器のように白い肌に良く映える、薄桃色の頬をしたそいつはとても綺麗だと僕は思った。
薄くかかっていた雲が晴れ、月明かりが地上を照らす。すると、そいつはようやく僕に気づいたように小さく何か言葉を放ち、窓から身を乗り出してきた。それからそいつは手を伸ばして、僕の頭にふわりと手を乗せ、柔らかな手つきで頭を撫でた。いきなり撫でてきて驚いたが、徐々にゆっくりとしたその撫で方を気持ち良いと感じた。
同じ縄張りで暮らしているやつは、せっかく整えた頭もぐちゃぐちゃにするからだろうか。
そいつは窓の縁に座り、その横に僕はちょこんと座った。そして、そいつは内緒話をするように色々な事を話してくれた。その話の内容は僕にはよくわからなかったが、そいつのゆったりとした話し方や蛍の光のようにふわっと明るい話し声、くすくすと笑う声、全てが心地良い。そいつの傍にいるだけで、だんだんと暖かいものが満ちていった。
それからというもの、寝静まる頃になると僕はそいつの所に毎日寄った。そいつの楽しそうに話す声を聞いて、時々ちゃんと聞いているかのように僕は「にゃあ」とだけ言った。
そして、夜の色がずっと深まり、月の色がより一層鮮明になった頃、それぞれ自分の寝床へ戻った。
僕はその時間が来てしまうことが嫌だった。もっとそいつの声を聞いていたい。
月が見えない夜。
強く吹き付ける風は僕のバランスを僅かに崩し、たくさんの花弁を空へ運んだ。
いつも通り僕はそいつの元へ行くと、そいつはいつもと何かが違う様子だった。
薄い桃色の頬じゃない。透き通るように白く綺麗な肌は何だか微かに青く、僕を撫でるその手は不自然に冷たい。いつものゆったりとした話し方は、ぽつりぽつりとした話し方になっていて、話す声はいつもより僅かに低い。
不思議に思っていると、そいつの目から雫がぽろぽろと流れ落ち、口から声がすこし漏れた。
その声は何だか悲しそうだというのに、薄紅色の花弁はひらりひらりと散って、それは美しくて。
そして夜の藍の色が深まった頃、そいつは絞り出したような明るい声を一言放った。それは僕に帰れと言っているようで、僕は帰路についた。本当は帰ってはならない気がするのに。
次の日も、また次の日も、そのまた次の日も。熱が地面に籠る日も、紅葉がひらひらと舞う日も、身体の芯まで凍える日も、僕はそいつのいる場所で立ち止まったが、そいつの香りが薄れていくばかりだった。
空に三日月が浮かんでいる夜。
薄紅色の花は地面に絨毯を作り、木々には少しずつ葉の先まで透けて見えそうな黄緑色の若葉が芽吹き出していた。
今日もまたそいつが居た場所で立ち止まると、妙に静かだった。その静けさが途端にそいつがもうこの世界にいないのだと僕に解らせた。
どうして、今まで気づかなかったのだろう!あの時!あの花が綺麗な時!あの日に気づいていれば!もっと話していれば!もっと話を聞いていれば!もっと、もっと、もっと…!
あぁ、僕は彼女の名前すら知らないじゃないか。
何とも言えないごちゃごちゃとした気持ちだけが募っていく。
静かな夜に「ニャオーン」という僕の声だけが響き渡る。
その反響する声を置き去りにして、僕はまた夜街へと歩き出した。
三月、黒猫は夜街を歩く。 朝月春樹 @mokumoku_cloud36
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