プラスドライバー 技術工作部・橘カヅキは普通じゃない

岩本ヒロキ

第1話 埃っぽい僕の居場所について

 父さんは僕に、一本のプラスドライバーをくれた。

 幼い頃、内緒で入った父さんの部屋の中はそれまでの僕の世界だった廊下やリビングの景色とは違っていた。まるで誰からも襲われる心配もない、まるで違う世界に足を踏み入れてしまったような、そんな感覚を覚えた。ピッチリとカーテンが閉められたその部屋は、そのカーテンの色を日の光が微かに通し、部屋全体を青く染めあげていた。まるでここは水槽の中で、自分は金魚なのだと。廊下とその水槽とを間仕切るドアからリビングのソファで寝息を立てる僕の監視員を窺いつつ、その世界へと僕は足を踏み入れた。

 父さんの部屋はリビングよりも少し小さめで壁に沿って机とシングルベット、本棚が置かれていた。どこかしこも父さんの匂いがし、ここが家の一部であることを確信する。ベットとは反対側の壁は一面本棚になっていた。当時の絵本程度しか目の当たりにしてこなかった僕には、その沢山の本は異質で、いきなり噛み付くかもしれないなどという恐怖心よりもそれが何なのか確かめたいという好奇心が優り、その色とりどりの背表紙を指で触り質感を確かめていた。本たちの中で一際大事そうに鎮座していた重厚感のある箱を見つけた。それは、手に触れると冷たく、持ち上げるには重く、その箱はなんだかこの家の中にあってはいけないような異質感を醸し出していた。濃い青色をしていたその冷たい箱にはステッカーが貼ってあり、当時の僕にはそれが何かは分からなかった。その意味を知るのは僕が中学に上がった後の話になる。

 仕事から帰ってきた父さんに靴を脱ぐいとまも与えずに、その水槽の中の宝箱の話をした。途端、母親は嫌そうな顔をし、僕を一喝した。けれど父さんは母の小言が終わるタイミングで躊躇う事もなく自室に僕を誘い、その宝箱の中身を見せてくれた。床に置かれ、その封印を解かれたその宝箱の中身は、当時は何に使うのかも見当もつかない様々な工具だった。キラキラした宝物を期待していた僕はひどくガッカリをした事を今でも憶えている。けれど、一つ一つの工具の名前や用途を説明する父さんの顔がいつもにも増して嬉しそうで、僕もなんだかその工具箱を開けると父さんが喜ぶんだと思い込み、何度もその工具箱を開けるよう父さんに催促をした。

 当時、母は会社員、父さんは高校の教員だった。仕事に使っていた訳でもないその専門的な工具を父さんが使っていたところを見たことはなかった。そんな日が続き、いつかの僕の誕生日に、父さんは簡単な工作で作る時計を買ってきてくれた。僕はそれがすごく嬉しくて、父さんと一緒に夢中になり作った。僕の思い出の中で、父さんと過ごした一番楽しい思い出は、そうやって一緒に工作をした時間だった。それから、今までは家に帰り食事を済ませるとすぐに自室に籠ってしまっていた父さんが帰っても部屋には入らず、すぐに僕のところへ駆けつけてくれるようになった。事あるごとに工作用の部品やおもちゃを買って来てくれ、晩くまで父さんと一緒に作った。休みの日になると嫌そうな母を横目に、公園でキャッチボールをしたり、一緒に電車に乗ったり、科学博物館などにも行った。それまで疎遠になっていた父方の祖母の家にも行った。しきりに「母さんには内緒だよ」と口酸っぱく言われた。当時の幼い僕にはその理由は分からなかったが、母と父さんの雰囲気が良くない自分の家に比べて、快く出迎えてくれた祖母の笑顔は心地良ささえ感じていた。

 母に興味本位でどうして祖母と疎遠なのかを尋ねたことがあった。母は「お婆ちゃんは病気なの」と言い、その話題の先を嫌がった。頻繁に祖母の家に遊びに行っていた僕の目には祖母は病気には見えなかった。祖母には「お婆ちゃん、病気なの?」と無垢に尋ねた。ニッコリと笑い、逆に「カヅキのお母さんがご病気なのよ?カヅキは男の子なんだから、あんまりお母さんに心配かけちゃダメだからね?」と小さな僕に目線を合わせ、諭すように祖母は言った。「男の子はね、お母さんのこと、ちゃんと守ってあげないといけないんだからね?」と。幼い僕は祖母からのそのお願いが急に嬉しくなり「わかった」とはしゃいだ覚えがある。

 そうして、僕が小学校に上がる頃、事件が起きた。自宅にランドセルが届けられたのである。差出人名は祖母の名だった。そのランドセルは数日前に祖母と一緒に行ったデパートで「どれがいい?」と一緒に選んだものだった。その時は祖母と二人きりで、父さんは他の店で買い物をしていた。色んな色のランドセルの中から、僕は父さんの工具のようなキラキラなバックルや装飾の付いた黒いランドセルを選んだ。他のものに比べて値の張ったそれを、祖母は快く「勉強頑張るんだよ?」と約束をし買ってくれた。自宅に届いた箱を急いで開封し、中のランドセルを取り出した。急いで背負い、母に見せようとした瞬間、家の空気がおかしい事に気がついた。母の顔が真っ青になっていたのだ。わなわなと震え、「どうして。どうして」と言いながら顔を覆い出す。父さんから「父さんが呼ぶまで部屋に行ってて」と耳元で囁かれ、そのランドセルを背負ったまま自室へ向かった。その後、母が叫ぶ声と、父さんが怒鳴る声が聞こえはじめ、何が起こっているのか分からなかった。急に怖くなり、お気に入りとなったそのランドセルとともに布団へ潜り込んだ。祖母の笑顔が脳裏に浮かぶ。僕の心地のいい時間は父さんと祖母といる時間であって、母ではない。僕の楽しい時間を潰すのはいつも母だった。母が全て悪い、二人を困らせているのは母なんだと、その当時は泣きならが一番安全な布団の中で思っていた。だとしたら、母を守るという祖母との約束は、とても酷なものなのではないか。そうやっているうちに僕は泣き疲れて眠りに就いた。

 父さんと母の離婚が成立したのは、僕が小学校3年生になる頃だった。ランドセルの事件以来、父さんと母は別居する事になったが、僕は何故か母に引き取られた。母と父さんが言い争っていた翌日、僕が幼稚園から帰ると家の中から父さんの荷物がなくなっていた。静かな家の中には僕と僕を睨みつける母だけとなった。僕の両親が離れてしまってとしても、僕自身は大好きな父さんや祖母と一緒に暮らせるのだと思っていた。だから神隠しのように僕の目の前から姿を消した父さんのその全てに、僕は酷く落胆した。僕は、彼らに捨てられたのだと。その週末には今まで暮らした思い出の部屋も引き払い、母方の祖父母の家で過ごす事になった。優しく出迎えてくれた祖父母は、当初は何だか僕を腫れ物でも触るかのように扱った。僕の機嫌を伺い続ける祖父母を他所に、母は僕に寄り付かなくなり、僕と顔を合わせても忌み子を見るような目で僕に接した。そうして僕が小学校高学年になる頃には、母は知らない誰かの母親となり、僕の知らない街へと行ってしまった。その頃、蒸発した娘を思うがゆえに、僕の両親の離婚の原因を祖父母が話してくれた。僕が原因であるかのようなその理由に、自分の存在意義について分からなくなっていった。

 父さんに会った最後の日は、母との離婚が成立し書類に捺印をする際だった。僕は嫌がる母に父さんに会いたいと連れ添った。それが僕が母に言った最後の我儘だった。久しぶりに見た父さんは以前にに比べだいぶ痩せこけ、血色の良かった肌もいつも着ていたきっちりとしたスーツも今では見受けられなくなり、いつの間にかどこにでもいるようなくたびれたおじさんになっていた。僕を見るなり、その目に涙を浮かべ「元気でな」と僕の頭をなでた。そして父さんは、あの工具箱の中にあった中では比較的小さくて綺麗なプラスドライバーを僕に手渡してくれた。ボールペンよりも小さい銀色のそのプラスドライバーは、一緒に工作をした時、父さんがいつも使っていたものだった。僕がプラスドライバーを受け取り父さんを見上げると、その目にはもう僕は写っていなかった。3人が別の方を向いてしまっているその空間がすごく居心地が悪かった覚えがある。けれど、その父さんが僕に渡してくれたプラスドライバーは親子の証なんだとそう思える僕の印になり、熱い思いがこみ上げた。自分の居場所が分からなくなっていた当時の僕にとって、その証は僕が唯一縋れるものだった。これがあれば大丈夫、自分を保てる。思春期に鋭利なものを持ち歩きその身の内の強さを固持するような、そんなものに近かったと思う。そうして僕は、その心の拠り所を常に持ち歩き続けた。


 教室のある本校舎から離れ、運動部が走り回る体育館の1階通路を抜ける。その先にはやけに埃っぽい技術室がある。余程の用事でもない限りここに来る生徒は居ない。強いていえば、選択制である技術の授業を取らない限りだ。授業を終え、毎日のルーティンである技術工作部へと橘カヅキは急いだ。昨日からお気楽な顧問からの難題に頭を悩ませているのである。一刻も早く課題を終えてしまいたい。

 中央中学校の中で技術工作部というのは、カヅキが入るまではいわゆる帰宅部の愛称であった。絶対にどこかの部活に属さなければならない中学において、塾や習い事などで部活動に時間を割けない生徒達が好んで技術工作部員へと名乗りをあげた。学校側も保護者から強く批難されることを恐れ、そんな生徒達の長期の部活動不参加を黙認していた。その結果、技術工作部は部員数は一定数いるものの、その活動内容は朧げなものであった。その為、純粋に技術工作を意として入部したカヅキを当時の顧問たちは持て余した。そんな中、名乗りを挙げたのが現顧問である野宮先生であった。カヅキが3年になる今も、忙しくバスケ部顧問との両立をしている。昨日は、野宮先生がバスケ部の方に行く前に技術室に現れ、カヅキに課題を置いて行ったのである。先生はいつも、校内の壊れたものや修理したい機械を技術室に運んでは、機械工作の得意なカヅキに修理をさせる。そうやって技術工作部は成り立っていった。昨日は、吹奏楽部から壊れたメトロノームを5台運んできた。音楽に疎いカヅキにとって、メトロノームと触れ合う機会など今の一度もなかった。その為、昨日はその構造と用途を知るところから始まった。気の遠くなるような作業だ。けれど、今日は水曜日で、間も無く他の部員が来るところだ。居心地の悪い教室をいち早く出たカヅキと違い、他の部員は違うだろう。技術室の棚から、ゴム製のマットと鉄製のバット(小さな部品を床に落とさないようにするための容器)を取りだし目の前に広げ準備をする。遠くでは運動部が準備運動を始める掛け声が聞こえ始めた。カヅキは椅子に座り、ポケットからプラスドライバーを出し、メトロノームの裏を返しその蓋を外す。小さなネジ緩め、そのネジを床に落とさないようバットの中で慎重に作業する。その間、埃っぽい技術室には静寂が訪れる。遠くに聞こえていた運動部の掛け声はいつの間にかカヅキの世界から消えてしまっていた。それはまるで、世界中がこの部屋1つしかなくなってしまって、カヅキ以外の人間が消えてしまったような時間だった。そして、いつのまにか残されたカヅキも、その空気に飲まれて消えて無くなってしまえたのなら。色々な事を考えながら、作業は進む。

 1台分のネジを外し終えたくらいで息を吐く。そうしてカヅキの世界に音が帰って来る。今まで近かった視界を広げようと見上げた先にいつの間にか2人の男子が座っていた。カヅキの他の技術工作部員だった。

 「今回はこれ?」とカヅキの前に座りこちらを見ながら爽やかに笑うのは鳥越ツカサ。ツカサは県のサッカーのクラブチームのジュニアチームに所属している。その為、中学にあるサッカー部には所属せず、授業が終わると県立のサッカー場まで練習に行っている、月曜と水曜は休みだ。ツカサはそんなに身長は高くないが、こんがり焼け、整った顔立ちで華がある。そんなツカサと同じクラスで技術工作部員、今もツカサの隣に座るのは若宮セイジだ。3人のうち1番背が高く、眼鏡で大人しく、かつ真面目である。そんなセイジは家が書道教室をしており、本人も書道である程度は有名だそうで、家の教室の忙しさの合間を見て部活に顔を出してくれる。けれどだいたいはこの2人が一緒に来ることが多い。なので、月曜と水曜は3人での部活となる。その他にも部員はいるはずだが、今の今までその2人以外見たことがない。

 セイジが立ち上がり、棚から工具箱やバットを取り出す。「俺のも!」とツカサが声をかけ、セイジがヒラヒラと手を上げ返事を返す。一気に集中力の途切れたカヅキにそのままツカサが話かける。

「5組、歴史の試験終わった?どんなんだったか教えてよー」

 屈託無く笑うツカサに、カヅキは、

「ん。待って。覚えてるから書き出すよ」

 と言いながら立ち上がり、こちらに向かって工具箱を運んでいたセイジの横を通り過ぎ、教室の前に鎮座する使った形跡の見受けられない黒板の前に立った。黒板の縁に置いてあった少し固くなったチョークを手に、カヅキは黒板に答えだけを書き出した。問題用紙の上から順に、答えだけ。覚えている限りを静かに書き出し、「ん。」と後ろを振り返る。途端、「ほー」というツカサの歓声と一心不乱にノートにそれを書き留めるセイジの姿が目に入った。

「さすが、学年トップさんは見事ですなぁ。おいセイジ、これ(解答)だけ覚えるなよ、ちゃんと問題文も予想しろよ。じゃ無いと勘ぐって違う問題出されたら詰むぞ」

「はいはい」とノートに答えを書き留める真面目で眼鏡ないかにも勉強が出来そうなセイジは、実のところあまり勉強が得意では無い。書道家には似つかわしくなく、むしろ身体を動かしている方が得意のような性分であった。

「問題文も、言おうか?」

 カヅキがまだまだ一心不乱に書き続けるセイジに尋ねると「んー、待って」と曖昧な返事が返って来た。「ん。」とだけ返し、チョークで汚れた手を洗うため、カヅキは技術室をでた。この学校の中で、カヅキがそういった本来ならばクラスメイトと交わすであろう会話ができるのはこの技術室だけで、この3人といるときだけだった。

 2人との出会いはカヅキが2年に上がってからになる。それまでカヅキ1人で活動していた中で、2年の春休み明けの放課後、2人がいきなり技術室のドアを開けたのである。その2人と一緒に連れ立っていた野宮先生はその年からその2人の担任になったそうで、暇があるならと技術工作部に顔を出すように言ったのだそうだ。今まで接点の無かった3人にとって、埃っぽい技術室で雁首揃えて座るその状況は苦しいもの以外何者でも無かった。どちらからも話し始める気配はなく、空気が薄くさえ感じた。しかし、同時に野宮先生が運んできた放送部の壊れたCDプレーヤーは難解で、修理までにかなりの時間を要することとなった。それを3人で直すうちに、いつの間にか打ち解け、今では居心地の良いものになっていた。明るいツカサに、終始聞き役のセイジ。カヅキに対し、最初からそうであったかのように接する2人に好感を覚えた。教室でクラスメイトから感じていた陰湿な何かを2人からは全く感じず、今まで人と関わる事を苦手としていたカヅキに、初めてと言っていいほどの友達ができた瞬間だった。

 そうして3年となり、それぞれ受験生になった。進路の話は今のセイジの前ではタブーなようで、たまにツカサとするくらいだったが、サッカーの忙しいツカサにとって、その特技を生業にしていいものなのかどうか、決断する岐路に立たされている現状は決して好ましい状況では無かった。そんなセイジも書道が好きなわけでもなく、セイジにとってそれはあくまでも特技の範囲であった。それに加え勉強も得意でない状況は、よく親と進路について口論になるのだと話した。そんなカヅキにとって、それらは羨ましい悩みであった。両親のいないカヅキにとって祖父母や先生の期待を裏切ることはあってはならない、特に祖父母が望むままの優等生であるための学業であった。カヅキにとって自分のことで迷うことなど、今の一度もあったことが無かったのだった。

 体育館1階の廊下に差し掛かる。併設された手洗い場で丁寧に手を洗い、着ていた体操着の端で軽く手を拭く。そのまま鏡に映る自分を見つめ、髪先を触る。そろそろ髪を切ろうか。前髪が伸び、勉強中に目に入るようになって来た。前髪を横に流し、技術室へ戻る。途中、開け放たれた体育館で、練習をするバスケ部が目に入った。もちろんその中には技術工作部顧問・野宮先生の姿があった。バスケ部の生徒をその笛の音一つで右往左往に操る野宮先生は、こんな普通じゃ無いカヅキを救ったその人だった。

 翌日、やはり勘ぐった先生の策略によりツカサたちのクラスの歴史試験はカヅキのクラスとは違うものが出題され、セイジは予想通り大敗した。その結果を聞かされたのは週明け、月曜日であった。もうその頃にはセイジの落胆と試験結果を持ち帰り家で一悶着あったことも、全ては後の祭りであった。自分たちは、この先何になりたいのか。何になれるのか。分からないまま大事な中学3年が過ぎていった。

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