第3話
その痩せたスズメのような女の子は《女優》だった。
早稲田の周辺や中央線、はたまた西武線沿線にあまたある小劇団の一員だ。
彼女自身いわく《準・看板女優》とのことである。
俺はスズメの芝居を一度だけ観た。
江古田のあるホールを使って行われたその芝居のタイトルも、劇団の名前ももう思い出すことはできないが、《機械工房劇団》だとか《自遊劇舎》とか、そんな名前を当てはめてくれればいい。
『僕の羽根が折れて君の赤い糸にからまった時に』とか、そういうタイトルを、適当に当てはめてくれればいい。
暗転した舞台にピンスポットが灯り、照らし出されたのが、痩せたスズメである。
少年の役らしく、前髪をまっすぐに切りそろえ、細いボーダーの長袖Tシャツを、持てあまし気味に着ている。
短パンにハイソックス。
そしてズック靴だ。
両脚を思い切り開き、両腕を広げた姿で、板付き状態である。
意味不明の、間。
「さあ、飛ぶんだ! ウミガメのスープのように澄み切ったこの時空を飛び越えて! さあ、そして、たどり着くんだ! 僕らが住むべき、この世界のネガフィルムの森へ!」──まあそんな台詞を思い浮かべてくれたらいい。
言うまでもなく、その芝居は《とてつもなくくだらない》シロモノだった。
その芝居は、五日くらい公演したんじゃなかったか。
俺が行ったのは《ラクビ》つまり、千秋楽の日だった。
なぜって──たいていの芝居だと、楽日は公演後に打ち上げとなり、タダ酒がたんと飲めるからだ。
が、その劇団の芝居は人の集まりも悪く──つまりはご祝儀の酒も集まらず、楽日の宴会もささやかなものだった。
蛇の目のついたぐい呑みで、日本酒を二杯くらいいただいたんだっけか。
芝居の感想を求められたので、あたりさわりのないことを言っておいた。
一行は、行きつけのおでん屋に移動するという。
仮に《どんでん》とでも呼ぼう。
《どんでん》は、一番安いネタだと、こんぶが五〇円──そんな店だった。
最初に会費を千円徴収された。
店には人が入りきれないので、外の路地にビールのケースを置き、そこに板がさし渡してあった。
そんなところに腰掛けて、清酒や焼酎なんぞをやりながらおでんをつまむのである。
さつま揚げの中にゆでたまごがそのまんま入っている《ばくだん》や、ぞうりみたいに大きな《ぞうり》を食ったら、もう腹一杯だった。
《準・看板女優》を自称するスズメのような女の子は、誰彼となく嬉しそうに話していたが、俺は特にこれといった話し相手もなく、路地でうつむいて、ただ飲んでいた。
安酒は頭に効いた。
頭蓋骨に発泡スチロールを詰め込まれたような、鈍い酔いを感じた。
もうそろそろ帰ろうかなと思った時にちょうど、群れから一匹が羽ばたくみたいに、痩せたスズメのような彼女がやってきて、俺の隣に腰掛けた。
「飲んでる?」
「飲んでるよ。だけど、頭が割れそうになるな、この酒は」
「焼酎にすればいいのに」
「いや、もうじゅうぶんだよ」
「ね、これからどうすんの?」
「電車がなくならないうちに帰るさ」
「少しくらい、待てない?」
俺は腕時計を見た。
まさに、そろそろ行かなくちゃならない時刻だった。
「少しってどれくらいだい? もうリミットだよ」
「そこの角曲がったところの、果物屋さんの前で待ってて」
「長くは待てないよ」
「とにかく待っててよ」
俺は立ち上がった。
安酒は、頭だけじゃなく、脚にも来ていることが判った。
駅前の果物屋は、その時刻でもまだ店を開けていた。
路地から出てきた目には眩しすぎるほどの灯りに照らされ、色とりどりの果物が輝いていた。
電信柱にもたれて、タバコを一本吸い終わるくらいの時間、待っていた。
それでもスズメがやって来ないので、駅に向かって道を渡ろうとしたその時、彼女は路地から転がり出るようにやってきた。
俺に向かって小走りにやってきて、シャツの裾をつかんだ。
「さ、行こ!」と、息を切らせてそう言う。
「どこへさ」
「いいから」と、信号も見ずに、駅に向かって引っ張る。
俺は何気なく、スズメが飛んできた方向に目をやったんだったが、そこから現れたのは、かの劇団の座長の男だった。
「おい! 待てよ!」と、太い声で呼ばわっている。「待てったら」
座長が無理に横断しようとしたので、急停車したタクシーがクラクションを鳴らす。
なんだかやっかいなことになりそうだなと思う間もなく、奴は俺の前に立ちはだかった。
スズメはなんとなく、俺を楯にする具合だ。
「君には関係ないから、どいてくれるか」
座長はごつい顎を突き出すようにして、酒臭い息で俺に言う。
スズメは俺のうしろに回り込む。
座長が手を伸ばし、スズメの手首を捕まえる。
「とにかく待てったら!」
「やだったら、やだ! 離してよ!」
俺を中心にしての、惑星間のもめ事のようだ。
「離してやりなよ」と俺は言った。
「うるせえ!」と座長。
その隙にスズメは、座長を振り切り、定期かなんかを持っていたんだろうか、何事もないように改札をくぐって、駅の中へ消えた。
俺は切符を買わなくちゃならなかったので、座長を無視して券売機に向かった。
座長は、手こそかけなかったものの、俺の前に顔を突き出してきて、なにやらわけの判らない台詞で威嚇してきた。
切符を手にした俺の前に立ちはだかった。
「どいてください」と俺は言った。
「うるせえ!」
「うるせえのはあんただろ」
と、言い終わらないうちに平手が飛んできたが、本能的にうしろに反ってかわした。
それでもやつの爪の先は、かすかに俺の顔を引っ掻いた。
一瞬、やってやろうかとも思ったが、駅の改札口でのこともあるし、躊躇した。
あれは、うまい具合になっているものだ──警察官が一人飛んできて、割って入ってくれた。
俺はつとめて冷静に直立していたが、座長の男は警官を振り切ろうとした。
それがまずかった。
警官は、座長の腕をねじ上げながら、俺に向かって、
「知り合いなの?」と聞いた。
手を出したのが奴なのを、警官は見ていたはずだ。
「ぜんぜん知らない人です。酔ってるみたいですね」
「関係ないのね?」
「関係ないです」
「じゃ、早く行って下さい」
俺は改札を抜け、ホームへの階段を上がった。
間もなく、上りの終電車がやってきた。
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