誤謬の果て
夏鴉
誤謬の果て
何故。
そんな言葉が死語になってもう数年が経っている。
そういうものである。
そう人間が万物を理解してからもう数年が経っている。
「降りないの」
わたしの言葉に彼女はくるりと此方を向いた。夕焼けが彼女の頬を灼く。
「どうして?」
形良い彼女の唇が吐いたのは、とうに使われなくなった言葉だった。
「危ないよ、其処」
わたしは答える。本当は、こうやって言語化しなくたって、分かることの出来るものを。
道理。
ことわり。
因果。
昔から編まれてきたそうしたものを人間たちが明確に形に出来たのは、人工知能の進化の故だろう。世に溢れる情報だけでなく、人の感情、思考までもがただの信号であり、デコード出来るのだと人工知能が至った故だろう。
全てが、情報に成り下がった。
人間には絶えず主観が存在する。情報が受容器官を通った途端主観というフィルターは半自動的に情報を変容させる。多くが、自身にとって都合の良いように。そして自身が理解できるように。それぞれにエゴに濾過された情報。それらを付き合わせた所で完璧な相互理解が得られる筈はない。
ならば、主観なぞ排除すれば良い。
「分かっているよ、そんなことは。分かっていて、私は此処にいる」
「どうして」
口を衝いた言葉に彼女の目が緩く細められた。
「君なら、考えられるんじゃないのかい」
人工知能は客観の情報をデコードする。人間の主観という不確定で曖昧な要素を排除して情報を出力し、人間へ提示する。真実無垢な情報が、人間へと直接手渡される。因果さえも全て包括した、完全な数式のような紋切りの情報。そこに何故はない。疑問さえも解きほぐされた結論までもがご丁寧に示されるだけ。老若男女を問わず、能力を問わず、普遍の情報を人間は摂取出来るようになった。
「わたしは、それを間違っていると、思う」
「どうしてさ」
「それは……」
「道徳を説かれるつもりはない。そんな、分かりきったものをくれてくれるなよ」
それは革命だった。
知の格差は消えた。
相互不理解なぞ起こる筈もない。
人々は一定の年齢になると端末を与えられた。リアルタイムで人工知能を接続されたそれは常に情報を人間に流し込む。摂理、道理、人の感情や思考さえ。人工知能は律儀にデコードし、客観の局地にて適切な情報へと変換し、端末の持ち主へ流し込む。
誰もが平等に、フルオープンな情報の中に放り込まれた。対人に困ることはもうない。理解力の差なぞ考慮する必要はない。他者の性格を、性質を慮ることもない。そんなものは全て人工知能に任せてしまえば良いのだから。人間たちはただ、情報を適切に摂取さえしていれば良い。疑問を抱く時間さえ不要だ。疑問の種が芽吹く前に人工知能は教えてくれる。それを得れば、全ては安泰だ。
「わたしには、分からない」
「そんな筈はないだろう。君は、疑問を口にしたのだから。つまりは、君も私の同類だろう」
だから、わたしは何か欠陥を抱えているのだろう。
きっと、目の前の彼女も。
「君だって、目眩を覚えているだろう。こんな世の中」
彼女の涼やかな目がきっと夕焼けを睨み付けた。
「人間の全てを情報に変換出来るのなら、私たちみたいな者は生まれない」
相互理解に満ちた世の中。
稀に、其処から弾かれる人間が存在する。
端末は、そこに内蔵された人工知能は優秀であり、絶対だ。それが何かを誤ることはない。それが当たり前の事実である。そう、人工知能は誤らない。その筈だ。
「私たちの思考には、デコードされた情報にはない空隙がある」
なのに、稀にいるのだ。
人工知能に全てをデコードされない人間が。
否。
「悍ましい話だよ、これは。気付かなければ良かった。気味の悪い話だ。なあ」
わたしは頷くことしか出来ない。
そうではないのだ。
「人間の知覚能力は衰えている」
「そう、なのかな」
「恐らく、そう言われやしないがな」
稀に、いるのだ。
デコードされたものが全てではない、と知覚してしまう人間が。
「何故、と問うことさえ出来ない。何故なんて、ないのだから」
誰もが人工知能を信じている。それを常識としている。人工知能が生み出した情報を見て、因果さえ理解した気でいる。
「そういうものである、としか答えてくれない」
「そうだ。今やこの世界は情報が飽和している。右を見ても左を見ても、情報ばかりだ。それをただ摂取さえしていれば、人間は幸せなのだと、人々はそれを貪っている。私は、それが恐ろしくって堪らない」
この世はそうである。
だってそうなのだから。
「人間の全てが情報になんて、出来ない」
「その筈なんだ。常に情報を垂れ流す人間がいるか? いないだろう。人間の思考には空隙が必ず存在する筈なんだ。人固有の、情報の遊び。それが、人工知能の提示するものには一切ない。客観の局地。一切の無駄のないコード。馬鹿な話だ。人間がそんな筈はない。機械に出来ないそれこそが、出力し得ないあわいこそが人を人たらしめる」
そうだろう。そうだと、わたしも考えている。考えているのだ。
考える人間は、すっかり数を減らしている。人間たちは順応しつつあるのだ。情報を適切に摂取し、運用出来るように脳は組み替えられている。それは、この機械的な情報化社会においては正当な進化なのかもしれなかった。
「いずれ、人は人でなくなる」
彼女は言い放つ。
「少なくとも、私たちの思う人という生き物ではなくなるだろう」
「それは、でも、今にとっては正しいのかも」
「だが私は許容出来ない。君は、違うのか?」
そんな筈はないだろう? と彼女の爛々と輝く瞳が声高にわたしを責め立てる。ボディランゲージ。これさえ、今の人々は読み取らない。読み取れない。その前に、人工知能に頼れば良いのだから。
わたしたちは、無駄なものを使っているのかもしれない。
時勢は、わたしたちを直に淘汰していくだろう。
「わたしは、まだ、決められない」
「……そう、か。そうなんだね」
急速に、彼女の語気が穏やかになる。まるで慈しむかのように。
「そうだね。君には君の考えがある。それは酷く正しいことだと私は信仰している。でも、私は私の考えを変えるつもりはない。だから、明確な答えのない君に、止められたくはないんだ。申し訳ないけれどね。だから、此処までだ」
そして、彼女の身体は傾いていく。
学校の屋上。コンクリートの地面へと自由落下を始める。
わたしはそれを止められない。
止めるだけの答えを、考えられないわたしには、ただ、見ることしか。
近年、自殺が増加している。
大多数の人たちは、ただ、そうなのかと、理解するだけである。
誤謬の果て 夏鴉 @natsucrow_820
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