24、選び間違えた男

「嘘よ! あたくしより、そんな貧相な女を選ぶというのっ?」


「ミ、ミアはまだ僕の婚約者だ!」


「ですから、今日は貴方に婚約を解消してもらうために会いに来ましたの。はい、ここに記入してくださいませ?」


 思わず痛みを忘れて二人に反論すると、ミアがオスカーからなにかを受け取り、折りたたまれたものを開いて提示する。そこには婚約破棄の文字があり、ジョルの不貞により二人は自らの同意の元に婚約を正式に破棄する旨が記されていた。両名の署名の欄にははすでにミアのものが書きこまれている。ジョルの署名さえあれば、この書類は神殿の法に則り効力を持つ。


 倒れたジョルの手元に万年筆と一緒に差し出した彼女は、先ほど過激な一撃をジョルに与えた人とは思えぬほど落ち着いた様子だ。ジョルは黙り込んで俯く。アンディに捨てられた上に、ミアにまで見切りをつけられそうになっている自分に気付いたのだ。今ならミアとやり直せるかもしれない。そんな考えが手を鈍らせた。


「ミア、僕は……」


「婚約者のある身でありながら、親しい相手の奥方に手を出した恥知らずな方。貴方はわたくしに婚約破棄の署名さえ残しては下さらなかった」


 好奇の目を向けてくる周囲が驚いたようにざわつく。


「なんて酷い男なの!」


「人妻に手を出して、しかも婚約破棄のマナーさえ守らないなんて、あのご令嬢は本当にお気の毒ね」


「男から見ても最低な奴だな。あれってどこの奴だ?」


「あの優男、ファーレ子爵家の三男だろ」


「ってことはあちらのご令嬢はアオラマス伯爵家の方か」


「あの人妻も恥知らずだな。大通りで騒ぎを起こすなんて馬鹿な奴等だぜ」


 庶民達の非難とせせら笑いに堪えかねて、ジョルは全てを否定するように怒鳴り散らす。


「うるさいうるさい! お前達下民には関係ないことだ! ミ、ミア、僕が間違っていたよ。アンディの色香に惑わされていただけなんだ!」


「あたくしのせいではないわ! オスカー様、見てください。あたくしこそがこの男に騙されたのです! どうか思い直してくださいませ。もう二度とオスカー様を裏切りませんわ。どうかあたくしをもう一度妻に……っ」


「自惚れるなよ、アンディ。お前の性根の悪さは、もはやその容姿程度では補えんぞ。纏わりつく醜聞にまともな男は誰も相手にしなくなるだろうよ。お父上のダナ男爵もお前を受け入れる気はないそうだ。どこへなりと好きに生きよと伝言を預かっている」


「そんな、嫌よ、絶対にいやぁぁ……っ!! オスカー様の妻は美しいあたくしであるべきなのよ!」


「くっ、お前のような悪女に目が眩んだ僕が馬鹿だった! ミア、お願いだ! 今回だけ僕を許してくれ!」


 オスカーに冷徹な表情で拒絶されて泣き崩れたアンディは、変わらず美しいはずなのに腹立たしさしか浮かばない。顔を覆って嘆く様子は、哀れなほど無様だ。しかし、それは自分も同じことだった。


 ジョルは矜持を捨てて股間の痛みを堪えつつミアの前に両膝をつく。あれほど自分に好意を抱いていたミアなら、こうまで頼めば折れるだろうという計算もあった。この場さえ乗り切れば、オスカーに見せたように恥ずかしげな眼差しで、再び自分を見つめてくれるだろうと。愛を取り戻せると思っていた。けれど、それがいかに甘い考えであったかを思い知らされる。


 ヒュッと風を切る音がして、髪を掠めて何かがドスッと目の前に振り下ろされた。恐る恐る顔を下げると、ミアの手に握られた凶器が膝前に迫っていた。その恐ろしさに腰を抜かすと、無表情のミアが冷え切った口調で言う。


「見くびらないでくださる?」


「ひぃ……っ」


「貴方のことを想うだけで幸せになっていた、そんなわたくしは死んだのよ。それほどの仕打ちをしておきながら、謝罪一つで許されるはずがないでしょう?」


「どうすれば……」


「子爵家からの支援は二度とないわ。ファーレ子爵は三男のあなたとは絶縁を選ぶそうだから。覚悟なさい、あなたは先程下民と蔑んだ民衆の皆様と同じ立場に身を置くことになる。わたくしが苦しんだように、あなたも苦しみなさい」


「ミ、ミア……」


 背筋が泡立つほど黒い微笑みを浮かべる彼女に、ジョルは絶句した。あれほど一途に慕ってくれた女性と、目の前の彼女が同一人物であることが信じられない。その変貌に本気の怒りを感じて、全身が震え出す。


「やれやれ、ようやく馬鹿なお前も理解したか。やり直せるなんて妄想は捨てるんだな。早く婚約破棄に同意してやれ。お前がミアにしてやれることはそれだけだ。それとも、オレに無理やり書かされたいか?」


 オスカーに厳しい口調で追い打ちをかけられる。ここで抵抗したところで無意味なのだ。もう、取り返しなどつかないのだ。打ちのめされたジョルは項垂れたまま、のろのろと地面に落ちた婚約破棄の書面に手を伸ばす。転がった万年筆を拾い、震える手で自分の名前を書き込む。最後の字を書きこんだ瞬間に、オスカーに抜き取られる。その一瞬、オスカーが囁きを残す。


「苛烈なミアはオレに似合ういい女になっただろう? ──よし。偽名で誤魔化してはいないな。ミア、もうここには用はないだろう。婚約破棄の書類を提出に行くぞ」


「えぇ、そうね。では、お二人とも苦しんで。二度と遭うことがないように願っていますわ」


 オスカーに手を差し出されたミアは、迷いなくその手を取って身体を寄せる。寄り添う二人の背中に、堪らずジョルは叫ぶ。


「ミア……っ」


 彼女の足が止まり、純粋さを失った黒い微笑みが振り返る。青い目に冷えた侮蔑を宿し、ミアは優しく告げる。


「わたくし、あなたに一つだけ感謝しているの。夢見がちな【私】を殺してくれてありがとう。おかげでようやく長いこいから目が覚めたわ」


 それだけを言い残し、ミアはオスカーと一緒に去っていく。アンディの嗚咽と下民の囁きをぼんやりと聞きながら、ジョルは簡単に手放してしまったものが、どれだけ大事にするべきものだったのかを思い、深く項垂れた。


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