Fin Heureuse

くすり

le 25 Mai, rue du Faubourg Saint-Marceaux.

 その日、一人の弁護士が監獄を訪れた。監房は世辞にもいい環境とはいえず、囚人たちは固いベッドと僅かな食事につねに不平不満を漏らしている。

 弁護士の目的である土埃で満たされた低い天井の監房にいたのは、一人の若い青年であった。

 彼はオノレ・フランソワ・ユルバックといって未だ二十歳で、フォンテーヌブローの入市税取立所のちょうど傍にあるワイン店で働いていた。

 弁護士がユルバックに声をかけると彼はゆっくりと頭をあげ、落胆した目で応えた。

「アンリ先生がきても私は絶対に控訴しませんよ」

 彼は罪を犯し、死刑の判決を受けたばかりだ。三日以内であれば控訴を行う権利があるにもかかわらず、何人かの人が控訴をすすめるのにも断固として拒否しているのだった。

 彼の罪というのはほかでもない、予謀による自発的殺人である。彼は一人の立派なだ。

「ユルバック。控訴しないというのは、いったいどうしてなのか聞かせてくれ」

 彼の古い知り合いであり、信頼される弁護士アンリがきたのも、そういうわけである。

「私はすぐに死にたいのです。私の控訴は卑怯な行為だ。私にはがあるということをお見せしたい」

 彼は殺人を犯したのちいったん逃亡したが、他の容疑者が逮捕されるのを見て自首した。しかし法廷では予審調書ではみとめた犯意と犯行をなかなかみとめなかった。だが、複数の証人の証言から、ユルバックがみずからの悲劇的結末を予言していたことがわかり、判決は決定的となったのである。

 アンリは若い死刑囚のその言葉を聞いて、虚勢を張る二十歳の若者の心理をたちどころに理解した。そして老練な弁護士としての手腕から言った。

「きみは控訴をしないことでみずからの罪を全面にみとめ、潔く死刑を受けることが〝勇気〟だと考えているようだが、じつはそうではないのだ」

「どういうことですか?」

 アンリはいかにも説得力のある言葉遣いを心がけた。

「このまますぐに死刑執行を受けるより、控除申請して三十日か四十日もの長い間を、決定的瞬間を待つほうがはるかに〝勇気〟と〝精神力〟を要することなのだよ、ユルバック」

 彼は弁護士の言葉を聞いて少し考えている様子だったが、その日は何も言わず、弁護士はしぶしぶ監房をあとにした。

 明くる日、弁護士はユルバックの控訴した旨を人づてに耳にして満足したが、結局この控訴は却下された。弁護士の仕事は終わったのだった。

 しかし、アンリはまだ彼のことを考えていた。



 サン・マルソー街の事件の場所は、一時の喧騒をようやく逃れ、以前の静けさをわずかにだが、ようやく取り戻していた。

 五ピエ(一ピエは約三十センチ)ほどの高さの黒い十字架が厳かに建てられたこの場所は、いろいろな花で飾られ、この不運な娘の死を悼んでいる。

 

 殺された女──エメ・ミロの名前と年齢、出身地、死亡年月とともに壁に書かれたその文句のとおり、アンリはそこをじっくりと眺めてみた。そうすると十九歳にすぎない哀れな娘がそこで息絶える無惨な姿が浮かび、アンリは思わず目を伏せた。

 壁にもたれてアンリは、神に祈りながら思いを馳せた。青年オノレ・フランソワ・ユルバックがいかにしてここで罪を犯したのか。



 ユルバックは朴訥な若者であった。彼の働く城外、取引所の外側のワイン店では入市税のかからない安いワインを売り、繁盛していた。

 金にがめつい店主には時おりきつく当たられることもあったが、彼はひどく忙しい仕事に対して十分とはいえないまでも、生活に不足のない給金に満足していた。

 彼はある日、ある美しい羊飼いの娘が店の前を通るのを見た。その女がエメ・ミロだった。彼はひと目見て彼女を慕わしく思った。

 ユルバックはたまの休みの日には娘に会いに行った。初めはよそよそしかったが、しだいに打ち解けると故郷のイヴリーのことや家族のことを話してくれるようになった。

 ユルバックは牧草地が好きで、そこで遊ぶ羊たちや牧羊犬を見るのが楽しかった。たびたびエメとともに草の生えそろった牧草地を目指して、羊を連れて敷地を歩かせたが、草を踏む足の感触も、豊かな緑の匂いも、彼の気に入らないものはなかった。

 羊飼いはこの世界でもっとも古い職業のひとつで、だからこそもっとも美しい職業のひとつでもありうるのだと、とっさに若者は考えた。古代の草原の情景が頭にありありと思い浮かび、その中で羊を連れて遊ぶエメの美しい姿も容易にみることができたのだった。

 この一人の若い労働者は、毎日ワインを売り、ただ暮らしてゆくだけの生活のなかに、ひとつの彩りを発見したのだろう。そしてそれを自分にもたらした娘のことをいっそう気に入った。

「エメ、きみはぼくのことをどう思う?」

「どうって、いいひとですわ」

 ユルバックは彼女も自分を愛しているのだと疑わなかった。だからしばらく経った次の休日、十分に暗くなってから彼女を訪ねた。

 羊の世話を終えて、小屋の掃除をしていたエメを見つけた彼は、意気揚々と声をかけた。

「エメ……」

「ああ、ユルバックさん。今晩はどうしたの」

「ぼくは……」

 言いかけて、ユルバックは後ろを向いたままのエメに抱きついた。彼の予想をうらぎって、エメは抵抗した。

「ユルバックさん! いけません!」

「どうして? ぼくはきみを愛している……」

 しかし、エメはユルバックの手を振りほどくと、そのまま小屋を出ていった。彼は落胆して家に帰りワインをしこたま飲んで眠った。

 次の日、ユルバックが二日酔いの鈍い頭痛を抱えながら瓶がいっぱい詰まった木箱を運んでいると、店主の親父に呼び止められた。

「ユルバック、お前あの娘さんには近づくな」

「ど、どうしてですか?」

 彼は仰天していた。エメとのことを知らないはずの店主からそんなことを言われるとは。

「あの奥様はうちのお得意さまだろうが! きのうの夜半、奥様がいらしておっしゃったんだ。羊飼いに使っている娘さんがお前に言い寄られて困っているってな!」

 ユルバックは金槌で殴られたようなショックだった。何も言えなかった彼に最後に釘を刺すと、店主は仕事に戻っていった。

 仕事をしているうちも、家に帰ってからもユルバックは上の空で、少しも集中できなかった。彼の頭の中には美しい羊飼いの少女が羊たちとともに牧草地を駆けまわり、牧羊犬と戯れている姿だけがぐるぐるといつまでもめぐるのだった。

 数日が経ち、ようやくユルバックの待ち遠しかった休日がやってきた。彼は起きるとすぐに、しかし慎重に準備を整えると、どこか後ろめたい様子でこそこそと牧場へ歩いていった。

 エメを見つけると彼はにわかに表情を明るくし、しかしすぐもとの暗い顔に戻る。彼がきていることを知らない美しい娘は、羊を連れて楽しそうに笑っている。その笑顔はきらきらと輝いて、彼には聖マリアのようにさえうつるのだった。

 昨夜の夜露の光る草木の中を駆けるエメの姿はどこか神々しく、自然と文明の交合を目にしているようだ。かの少女は聖なる光を湛えて、神の御使みつかいの羊たちと悠々と戯れる。ユルバックの焦がれる思いなど知らないふりをしている。

 ユルバックは思わず声をかけてしまった。

「エメ……!」

 娘はユルバックの顔を見たとたん、顔色をさっと変えて、すぐに屋敷のほうへ逃げるように駆けていった。青年は胸を裂かれるような痛みでいっぱいになって、しばらく立ち尽くしていた。

 しかしすぐに屋敷の女主人に見つかると大変なことになると悟り、ユルバックも牧草地を去った。

 彼は女主人がいくら自分とエメの仲を邪魔しようとしても、エメ自身の気持ちを知らないことには諦めるわけにはいかないと考えていたのだ。

 それにエメは自分のことを愛しているとユルバックは希望を捨てなかった。彼女が自分を愛してくれさえすれば、自分は無敵になれると思っていた。

 だがその希望も、いまや虚しい絶望に変わってしまった。ユルバックを愛するものは誰もいない。もはや郷里に残した母親や、兄妹のことも思い浮かばなくなっていた。

 彼は薄暗い欲望に、彼女のすべてを自分のものにするという欲望にもはや支配されかけていたのだ。

 彼の計画はこうだった。彼はエメが月に一度、女主人や屋敷の客人のためのワインの買い付けにユルバックの店に来ることを知っていた。ユルバックはその日、ちょうど店主に休みを言いつけられていた(彼とエメとが鉢合わせることを嫌ってのことだろうが)ので、十全に計画を実行することができるだろうと考えた。

 彼は店の近くでじっと身を潜めていた。うす汚れたぼろを着て変装し、城外の街の薄暗い路地で目を凝らして娘を待っていた。

 娘が来た。ユルバックは逸る気持ちを押さえつけて待ち続けた。彼女が買い付けを終え、店を出るのを見計らって路地を出た。

 彼は付かず離れずの距離で娘を追い、これという好機をまた待っていた。サン・マルソー街の路地でようやく、彼は覚悟を決めた。

 彼は走った。懐に忍ばせた短剣を取り出しながら、娘へと一目散に走った。そして、背中に短剣をひと突きした。

「ああ!」

 エメは何者かの凶刃を感じたのか、倒れ伏しながらも犯人の顔を見ようとし、その汗にまみれぎらぎらと光る目をした顔が、彼女もよく知るユルバックのものであるとわかると、ぞっとしたような顔になって言った。

「やめて、もうやめて……」

 人間は簡単には死なず、ユルバックは完全に娘を殺すために何度かさらに刺す必要があった。血に濡れる短剣は簡単に手から落ちてしまい、拾い直したり力を込めて握るために、ぼろで拭ってやらなければならなかった。さいわい人気はなく、凶行を見られることなしにそれをできた。

 全部で五箇所ほど刺したあと、ほとんど虫の息になった美しいエメを見て、ユルバックはようやく我にかえったのだった。

「エメ、エメ……」

 名前を呼ぶことしかできない彼に、もはや応える力は娘に残っていないようだったが、唇を動かしているから、ユルバックはそっと口元に耳を寄せた。

「……神よ、彼に救いがありますように……」

 そう言ったあとは、娘はひと言も口をきかなかった。あたりは血溜まりになって生臭く、また美しいエメの最期の言葉を聞いて恐ろしくなったユルバックは慌てて逃げ出した。

 残された娘は、しばらくのあいだ浅く弱々しい呼吸を繰り返していたが、しだいにそれは聞こえなくなり、最後には深く息を吸って、吐いた。

 彼女は死んでいた。



 ユルバックの控訴は棄却されたが、結果として弁護士の言うとおり、死罪への数十日の猶予が与えられることになった。

 そのおかげで彼は、貧しい育ちのためにこれまで受けることができなかった聖体拝領を初めて受けることができた。

 キリストの血肉となるパンとワインは彼の死を待つばかりの身体にさえ沁み渡り、強く彼の心を動かした。

 この死刑執行という決定的瞬間を受けるまで、彼はよく祈り、神のもとに召される準備をよくできた。これまでのひどい暮らしの中では到底ありえなかった深い信心と、神の慈悲が、ついに彼の中に芽生えたのである。

 ユルバックはもはや死を恐れていなかった。

 彼は清々しい気持ちで断頭台にのぼり、やがて自分にやってくるその死を受け容れた。

 彼の死は清らかだった。



 パリの処刑場では、一人の弁護士が、一人のとるにたらない死刑囚の執行を見届け、その遺体の運ばれるさまを、群衆の中で見つめていた。

 その遺体は彼の知り合いだった。弁護士は彼の生きていた頃のことを、もはや思い返すことはできない。しかし、どうしても彼は城外の劣悪な暮らし、パリの冷たい貧しさに苦しそうに喘いでいたようにしか思えなかった。

 断頭台のもとの、彼の最期の表情など、群衆の中で遠くからでは見てとることはできなかった。弁護士には、彼の最期が安らかならんことを祈ることしかできない。

 そのときふと、馬車が石につまづき、その勢いで運ばれる遺体を包むぼろが剥がれた。凄惨に首を絶たれた遺体が姿を現す。

 弁護士は目を伏せるが、にわかに立ち上がった喧騒に辺りを見回さずにいられなかった。

 遺体を見た馬上の憲兵の一人が気を失って落馬したようだった。そこに民衆、民衆が寄ってたかって押し寄せ、馬車に飛び乗るものもあった。

 弁護士は痛む頭を押さえながら、人混みに押しつぶされては大変だから、足早に処刑場を離れた。



Un roman est un miroir qui se promène sur une grande route.

Tantôt il reflète à vos yeux l’azur des cieux, tantôt la fange des bourbiers de la route.

Et l’homme qui porte le miroir dans sa hotte sera par vous accusé‚ d’être immoral !

Son miroir montre la fange, et vous accusez le miroir !

Accusez bien plutôt le grand chemin où est le bourbier, et plus encore l’inspecteur des routes qui laisse l’eau croupir et le bourbier se former.


Le Rouge et le Noir, Stendhal, éd. le Divan, 1927, t. 2, chap. XIX (« L'Opéra Bouffe »), p. 232

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