縒り合わせ

 碧原へきげん府は蕾平つぼみだいら郡、藤裾ふじすそ。天藤山の麓一帯にして、天授の家系である天藤分家が居を構えているここは、江営こうえい擁する武咲たけさき郡の隣に当たる。

 禁足地から連れ出された後、志乃と芳親は天藤分家の屋敷に通され、がらんとした客間で茉白を待っていた。人の気配は絶えず感知できているが、どれも近寄ってくる動きは見せない。二人の妖雛にも、着替えに行った茉白にも。


「お待たせ、二人とも」


 見慣れた作務衣姿で笠を手に戻ってきた茉白は、誰も連れず客間に顔を出した。敷居をまたがないまま妖雛たちを呼んで連れ出し、立派な邸宅をさっさと後にする。正門を出てしまうまで、家人らしき人間は誰も姿を見せず仕舞いだった。


「気づいてたと思うけど、誰もいないわけじゃないよ。私が手出ししないよう命じたから、誰も出てこなかっただけ。麗部うらべ先生や紀定さんについて来てもらわなかったのも、接待で顔を合わせたくないって我儘を通してもらったから。と言っても、紀定さんには門の前まで護衛してもらったけど」


 振り返りもせず、屋敷から町への坂道を下りながら、茉白は淡々と説明した。この中では唯一、事情を知らない志乃が質問を声に乗せるより、先んじて封じるように。


「あそこは確かに私の生家だし、お役目も変わらず担っているけど、好きじゃないの」


 震えを抑え込むような声で早々に終止符を打ち、茉白はそれ以上、何も話さなかった。日を避ける笠の垂れ衣が、茉白の追及されたくなさを代弁しているように揺れていた。

 微妙に破りがたい沈黙を保ったまま、坂を下り終えた三人は、なごやかな町中を歩いていく。初夏を迎えた町と人々の装いは、いずれも涼しく軽やかだ。さすがにまだ打ち水などはされていないが、どこかに吊るされているらしい風鈴の音や、町を流れる水路の流水音が、夏の足音を伝えている。


 春よりはずっとハッキリした白昼の道を進んで、一行は二階建ての旅籠屋はたごやに辿り着く。ここで直武と紀定が待っていると、妖雛たちは告げられていた。受付への挨拶も手短に、笠を取った純白の髪についていく。


「――おかえりなさい、三人とも」


 目的地の部屋は、最初から障子戸が開け放たれていた。緩く流れ込む風と一緒に、若者三人を迎え入れる男の声が差し伸べられる。志乃と芳親はひと月ぶりに見る直武の微笑が、同じく開け放たれていた窓が切り取る逆光の中、やんわりと形作られていた。


「天藤茉白、ただいま戻りました」

「花居志乃、ただいま戻りましたぁ」

「……境田芳親、ただいま、戻りました」


 きっちりと返す茉白に続いて、志乃と芳親が締まり切らない口調で返す。三人が部屋に入ってから、もう一つ「おかえりなさい」と声がした。直武の斜め後ろに控えている紀定だ。そちらにも「ただいま」が三つ分返され、五人になってもまだ余裕のある室内に溶けていく。


「さて、志乃君に芳親。今回は私が不甲斐なかったせいで、君たちには多大な負担を強いてしまった。まずはそれを詫びたい。すまなかった」


 茉白が紀定のように斜め後ろへ避けていたため、真正面から直武の叩頭を受け止めることになったのは妖雛たち。ぎょっとした若者四人が腰を浮かせても、老いた男はいわおのように姿勢を保っている。

 直武様、師匠、麗部の旦那、麗部先生……狼狽えた呼び声が四つ聞こえてしばらく。ようやく直武が頭を上げると、どうすればとざわめいた空気も落ち着いた。


「……師匠、悪くない。……悪いの、全部、雷雅」


 開口一番は、声を不満で染め上げた芳親。さらに顔も、不満に不満を塗りたくった渋面になっているのを見て、直武と紀定が目を見開く。


「僕、あいつ、嫌い。……大っ、嫌い。あいつが、全部、悪い、から……師匠が、謝る必要、ない」


 私怨と嫌悪を剥き出しにする芳親に、まあそれはそうと苦笑している志乃を除いた全員が呆気に取られる。ぽかんと空いた沈黙は、しかし唐突な大笑に突き破られた。直武の笑い声だった。


「っはっはっは! そうか、大っ嫌いか! それにあいつって……っふ、ふふふ」

「む……師匠、僕、真面目に……」

「分かってる、分かっているよ。私もあいつ嫌いだし。芳親がそんなキッパリ言うようになるなんて思わなかったものだから。笑ってしまってごめん」


 温厚篤実な好々爺の普段着はどこへやら、転げ出た素面の笑い声を片付ける直武だが、「ふっ」としばらく取りこぼしていた。お陰で芳親はしかめ面でそっぽを向く始末。茉白と紀定は呆れを顔に滲ませ、志乃は困り気味な愛想笑いを浮かべて、空気が落ち着くのを待っていた。


「ふう。いや失礼したね、みんな。芳親も、どうか機嫌を直してもらえないかな」

「知らない」

「機嫌を直してもらえないと、君たちのこれからについて話せないだろう」


 至極真っ当だが、強引さが拭えない直武の言葉に、芳親はぐぎぎと首を戻す。不満いっぱいな顔は戻っていないが、苦い影が一差し混じっていた。その隣で、志乃の変わらない愛想笑いが、初夏の日差し半分を受けている。もう半分は、薄暗い影に浸っている。


「麗部の旦那。それについては、俺が先に発言をしてもよろしいでしょうか」

「ふむ。芳親はどう?」

「……いい、よ」


 不自由ではなく言い難さで途切れの入った肯定が、室温を巻き込んで落ちた。低下を読み取った面々が身構える中で、朗らかな志乃の笑みだけが、あるがまま。先駆けて答えを告げるように、そのまま。


「〈幽月かくりつきの特使〉は極鬼ごくきをその身に宿し、〈常日とこひの特使〉に討伐されること。お互いに殺し合うことが至上の喜びであること。俺たちは、そのどちらも認めました。俺たちの結末は、殺し合いしかあり得ない」


 志乃の前後で、息を呑む気配が二つ。前は紀定、後ろは茉白。直武はまだ、眉一つも動かさないでいる。志乃が終わりというまで口を挟まない。

 もちろん、その言葉の出番はまだ。続くのは「ですが」と繋げる言葉だ。


「俺は人の側に留まりますし、妖怪側に行くつもりもありません。芳親もまた、俺を殺すより前のことを優先しています。俺たちの終わりは決められていましたけど、そこまでの道程も、進む速度も、俺たちの自由ですから。自分たちが得た灯火の示すまま、誰にも何も言わせない歩みと終わりを手に入れる。それが、俺たちの導き出した結論です」

「僕は、志乃に死んでほしくない」


 そうか、と直武が開きかけた口を、滑り込んだ芳親が制する。すっかり苦い影に覆われた顔で、膝上で拳を握り締めて。


「死んでほしくない、けど。……志乃を、殺すのは、僕。その役目は、絶対、誰にも、渡さない。その時が来るまで、僕は、志乃を、殺さないし……誰にも、殺させない」


 やりたくない、認めたくない。だが、譲れないし譲りもしない。芳親から立ち上る気迫は、真っすぐで純粋なものではなくなっていた。それでも芳親は前を見ている。逃げはしないと睨みつけている。


「……そうか」


 待ったを掛けられていた直武の声が、窓外の青葉と同時に落ちた。この場に座る若者たちが何度も聞いてきた、相手を柔らかく解きほぐす声だった。


「君たちは、果てを知ってもなお、そこまで共に歩き生きることを選んでくれた……いいや、選び取ったんだね。他ならぬ君たちの意志と手で」


 志乃はにこりと笑みの色を深め、芳親はにこりと笑みの色を塗り重ね、彩られた沈黙を以って肯定する。終着点がどうであれ、二人は生きるために戻ってきた。しるべとなっていた紐を離し、手を繋ぎ直して。鋼で結んだ縁を、繋いだ手で結び直して。


「麗部の旦那。その上で、俺は旦那にお尋ねしなければならないことがあります」


 改めて背筋を伸ばし、直武と向き合った志乃が、初めて笑みを消した。意識された男の座り方も相まって、これから戦場へ赴く若武者のような、凛乎りんことした雰囲気がかもし出されている。


「俺はいずれ、人間の敵となり、人間に害をなす存在となってしまうでしょう。旦那が掲げ、指し示してくださった道とは、別の道を行くことになる。旦那の理念に、そぐわなくなる日が来る。そのような身でも、まだ……旅路の供をすることは、できますでしょうか」

「できるよ。君が選んだのだから」


 柔らかくも芯のある即答が、何も残らない志乃の空洞を打つ。けれど、塞がらない穴から落ちてしまうことはない。いずれ壊れて失うとしても、今は、志乃が掴んでいる。


「私からも、君たち二人に尋ねたいことがある。いいかな」


 拒否の声は上がらない。直武は体に余分な力を入れることなく、志乃と芳親に向き合っていた。


「前にも言ったように、私の命は短い。私に呪詛を刻んだ物の怪はまだ大人しくしているが……年内に動き出すだろうと、君たちが常世にいた間に予測も出た。限られた私の時間は、君たちの見つけた灯火を更に強められるよう、使わせてほしい」


 詳細ではないにしても、明確に示された直武の終わりに、妖雛たちの臓腑が冷える。だが、それは二人の体を支配するほど強くはなかった。容易に押し退けて、二人は先達の火明かりに答える。


「光栄です、麗部の旦那」

「もちろん、だよ、師匠」


 誇らしげな微笑さえ浮かべてみせる妖雛たちは、変わった。その変貌に、直武も、見守っていた紀定と茉白も微笑んだ。微笑むことができない事情があろうとも、喜ばしいことは喜ばしい。


「ならば、これからも旅を続けよう。君たちの目指す場所も確認できたことだし、次の行く先について話そうか」


 妖雛たちの足元の盤石さを受けて、直武は話を切り替えた。立って歩き、探し回る行動すべてに支えを要するようだった二人は、谷底に突き落とされても這い上がってこられるまでに成長している。過度に言葉を連ね説き伏せずとも心配ない。


「単刀直入に言ってしまうと、次の目的地とやることは決定しているんだ。これから私たちが向かうのは、藍山あいざん静漓しずり郡は林濱はやしはま。そこで毎年行われている慰霊祭に参加する。〈静堅せいけんの惨禍〉で失われた人々……地元の方々はもちろん、被害を拡大させないよう尽力した、色護衆の人々のために、ね」


 見苦しくないよう取り付けられた微笑はそのまま、直武は瞳を翳らせる。この室内で、〈静堅の惨禍〉を実際に駆け抜けたのは直武のみ。脳裏に、あの場で散っていった者たちが、かつて見せた表情を思い浮かべられるのも、直武しかいない。

 皆まで言わずとも、この場にいる若者たちは、直武がどこへ思いを馳せているのか察していた。体験したか、していないかの溝は埋まることこそないが、思いを重ねることはできる。


「通常は、色護衆からは渡碓山とたいさんに所属している中枢十三家、渡辺家と碓伊うすい家を始めとした家々の代表が赴くのだけれど。今回は帰路の途中なこともあって、兼久君たちにも参加してもらうことになった。彼らは先行して林濱に向かっているから、私たちはその後を、これから追うことになる」


 碧原府蕾平郡と、藍山府静漓郡は隣り合っている。そもそも、天藤山が両郡に跨っているため、今この場所から境を越えることは容易い。目的地である林濱までは、数日かけて向かわなければならないが。


「到着予定は慰霊祭の三日前。余裕を持って到着できた場合は、当日まで待機となる。その間に……志乃君の課題を何とかしなければならない」

「晴成に関することですね」


 一気に緊迫が張り詰める中、志乃は緩やかに即答した。意識せずとも顔に戻ってきた愛想笑いには、諦観めいた影が差している。


「旦那、姿を変える許可をいただけますでしょうか。見ていただいた方が、お気づきになられることも多いかと思います」

「うん、お願いするよ」


 直武の言葉も変わらず緩めだが、双眸は硬い光を弾いている。老いの褪色たいしょくも抱く瞳の前で、志乃は音もなく姿を切り替えた。白と黒の片身代わりが失われ、黒が増え深まった鬼の姿に。物々しさも伴う姿に、その場の誰もが黙しつつ多くを察していた。


「その面頬は、阿伎戸あぎとが作ったものだね」

「はい。雷雅さんが言うには、俺が晴成を喰わない意思を保っていられるのなら、抑制の役割を果たしてくれると。外したければ手で外せますが、あまり外さない方が良さそうと考えております」


 さらりと人喰いのおそれを交える志乃の隣で、芳親が耐えるように拳を握り直す。茉白と紀定も、険しさに苦痛を混ぜたような顔で、今までより表情が窺いづらくなった志乃を見守っていた。


「人を喰いたいという欲が抗いがたいことですとか、今までにも同じ状態に陥った妖雛たちの末路についても、芳紅よしべに様……芳親を育てた仙女様より聞き及んでおります。それでも、人の側にいると決めた以上は、避けて通れないことだと承知しています」


 青白く光る目が、直武の目を見つめ返す。白昼夢にすら溶け込めないような夜の色彩をまとう鬼は、隠れることなくたたずんでいる。そのいずれにも、決意が宿っていた。ほのかで欠片ほどながら、一目で重いと分かる意志が。


「ご迷惑をおかけしますが、俺が抗うことをお許しいただけますでしょうか」

「君を許すのは君だけだよ。私たち周囲がするのは、指導や支援だからね」


 答える直武の声が再び、張り詰めた空気をほどいていく。その中へ視線を巡らせれば、見守りに徹していた三人が、直武に首肯を返してくる。志乃にも見えるほど、しっかりとした首肯を。

 言葉など不要。この場にいる者は皆、心を同じくしている。

 老いにせた視線が戻ってくる頃には、志乃は姿を人間のものに切り替え直していた。少なからず、空虚ではなくなった笑みを被って待っていた。


「ありがとうございます。麗部の旦那、芳親、茉白、紀定さん」


 その場にいる全員と顔を見合わせたのち、志乃は深々と頭を下げる。その背には日差しが当たり、低すぎる体温を補って、志乃を温めていた。


 □


 直武一行は再び集結し、旅路は次へと繋がった。生きる目的たる灯火を得、自分たちの最果ても見留みとめた妖雛たちは、同じく終わりが定められた老兵と共に歩いていく。

 季節は、生死が濃くなる夏と秋が続く。明瞭にして鮮やかな色が渦巻く「これから」が、妖雛たちを待っている。

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