花冷え

 瓦礫がれきの中、呪詛の残滓ざんしが漂う中で、黒に金の鬼が笑っている。この状況にはあまりにも不釣り合いな笑顔を、芳親は呆然と見上げるばかり。

 だが、脳裏に風晶の声が過って、カッと頭が熱くなった。利毒の呪詛を、ただ一人に受け止めさせると。その選択をした存在には、雷雅も含まれている。


「あれー、怒ってるねぇ? あ、そっかぁ。志乃がそんなことになっちゃったのは、確かに俺たちのせいだもんねー。だから怒ってるのかぁ」

「っ……なん、で……!」


 志乃の親だと名乗ったくせに、呪詛に命をおびかされている志乃を前にして、雷雅はのんびり笑ってみせる。風晶に抱いた戦意とは似ても似つかない、今までにも感じたことがないいきどおりをもって、芳親は鬼を睨みつけた。術が使えたら、使えるように少しでも回復できたなら、すぐにでも攻撃してやると。


「なんでって、志乃のことで、見たいものがあったんだよー。それに、芳親。君にも用があったんだー。志乃もそうだけどー、君のことも重視してたんだよー」


 灼熱しゃくねつの憤りは、暢気のんきな声の冷水で勢いを削がれる。けれどすぐに再燃した。芳親に用があるということは、つまり。そのためだけに志乃を利用した、志乃の命を危険にさらしたことに他ならない。


「用が、ある、なら……ッ、志乃に、呪詛、かける、必要、なんか……ッ!」

「うん? それは必要だよー。ほら、よく見て」


 芳親の怒りなど意に介さず、雷雅はしゃがみこんで、志乃に手を伸ばす。すかさず芳親が振り払うと、黄金こがねの双眸がきょとんと見開かれた。


「んえー? 志乃に酷いことなんてしないよー、大事な娘だものー」

「どの口が……っ!?」


 振り払われなかった方の手が、素早く芳親の腕に触れる。途端、しびれが走って、体勢が崩れた。腕に振れた手は芳親の体を支え、その場に撫でつけ寝かしつけると、次いで志乃を抱き起す。


「ほら、芳親。よーく見てよ。呪詛は確かに効いてるけどー、それ以上に、


 肩を抱き寄せ、自分にもたれかかせながら、雷雅は志乃の袖をまくった。打撲痕とり傷だらけの腕に、呪詛の赤い痕。痛々しい色合いの中で、呪詛の赤い印だけが、確かに縮小の動きを見せている。一番目立つ胸の赤黒も、じわじわと範囲を狭めている。

 現象は分かっても、意味は分からない。志乃に何が起こっているのか、芳親はただ、憤りと驚愕に掻き混ぜられるばかり。


「ね? まあ、処置は必要だけどー、んだよー。あはは、俺はこれを見て、確かめたかったんだー」


 雷雅は志乃を抱え上げると、嬉しそうにくるりと回る。長く艶めく黒髪と、黒一色の衣が、月光を弾いてふわりと舞った。場違いなほどの美しさで。


「それにしても、可愛いなぁ。今の志乃も、とーっても可愛い! また抱きしめられて嬉しくなっちゃうよー」


 呪詛の伝染を恐れることなく、雷雅は志乃を抱きしめたり、頬を擦り寄せたり、人形で遊ぶ子供のような振る舞いをする。途端、混乱を弾いた怒りに任せ、芳親は無理やり体を起こした。重傷の仲間を玩具おもちゃのように扱われるなんて、不快なことこの上ない。


「離、せ! ……志乃、は、お前、の、人形じゃ、ない……ッ!」

「んー? それはもちろん、俺にとっては人形じゃないよー。さっきも言ったじゃない。志乃は俺の大事な娘だーって」


 空虚に笑いながら言う鬼は、平然とそう言ってのける。先ほどからずっと、雷雅と芳親の話は交わらない。言葉は通じても意が通じない。

 けれど、芳親にはどうしようもなく察せられていた。雷雅はこちらを馬鹿にしているわけではないのだと、本気でそう言っているのだと。純粋に、正直に、思うままに振舞っているだけ。それこそが、妖怪を妖怪たらしめる性質なのだから。


「それよりもさー。君にも用があったって言ったでしょー? えへへ。まずは、たっくさんお礼を言わせてほしいんだー、ありがとうって」


 志乃を抱えたまま、再びしゃがんで芳親と視線を合わせる雷雅に、芳親は怪訝けげんな顔をする。雷雅に何かした記憶などない。強いて言うなら、沢綿島さわたじまで呪具越しに話をしたことくらいだろうが、その時だって有益な情報を渡したわけではなかった。芳親の身の上など、雷雅であれば調査も容易い。


「分かんないって顔だねぇ。それはそうだよぉ、今日起こったことについてだものー。まあ、前置きはこのくらいにしてー、ありがとう、芳親。志乃に『食べ物を食べる嬉しさ』を教えてくれて。お陰様で、志乃は用意した料理を食べてくれたしー、『美味しい』が分かったしー、俺にもありがとうって言ってくれたんだよー」


 にっこり笑ってなされた礼は、何の含みもないように聞こえる。芳親も驚いて目を見開いたが、すぐに浮かんだ連想が、表情を怒りの色に戻す。


「志乃、の、食事に……毒、仕込んだ、のか」

「眠ってもらう方法の一つではあったよー。動かれると困っちゃうもの。でも、食べ物に関しては、それが一番の目的だったわけじゃない。俺がやりたかったことはー、志乃に食事の楽しさを知ってもらうことだったからねぇ」


 それもまた含みのない言葉に聞こえるが、芳親は再び怪訝な顔をした。

 食事は、妖怪にとって確かに娯楽ではあっても、そこまで優先する娯楽ではない。志乃が人間の中で生きていけるように、という狙いがあったのなら分かるのだが……風晶に言われた方が、まだ頷ける余地がある。


「あれ。君は食事を楽しむんでしょー? それなら、志乃が食事をするのもー、味が分かるようになるのもー、喜んでくれると思ったんだけどなぁ」

「それは、いい、けど……、……何で、お前は……志乃、に、楽しんで、ほしかった?」


 かといって、目的を言い当てるまでには到達できず、芳親はいさぎよく疑問をあらわにした。「楽しいのはいいことでしょー?」と軽やかに返されても、疑心はそう簡単に消えない。


「妖怪にとって、食事は娯楽。それに伴う狩りも娯楽。君は知らなかったかなぁ、妖怪って、自分が獲った獲物には、『美味しい』を感じられるんだよー」


 それは聞いたことがあったため、芳親は頷いて……芋づる式に思い出された知識に、背筋を凍らされる。

 妖怪は、自分が獲った獲物には、抗いようのない美味を感じる。その味は、


「あ、知ってたんだー。じゃあ、次のお礼も、意味を分かってくれるよねー」


 その獲物が、その味をもたらしたものが――人間であったのなら、なおさら。

 知っている。知っていた。芳親は間近で見ていた。


棚盤山たなざらやまで、晴成の左腕を先に見つけないでいてくれて、ありがとう。お陰で、志乃が獲った初めての獲物、ちゃーんと食べさせてあげられたよー」


 獲物。

 その表現は、間違っていないのだろう。雷雅には、そう映ったのだろう。


「もちろん、晴成の左腕だけじゃないよー? ひと月ずーっと一緒にいたから、狩りで他の獲物も調達したし。どれくらい関わったら、美味を感じる獲物になるのかなーって、調査も捗ったんだよねぇ」


 だが、芳親にとっては違う。あれは失った物、失ってしまった物。自分が無力だった、自分が何もできなかった、その証だった。


「でもねぇ、ここで獲った獲物だけの料理より、晴成の左腕を使った料理の方が、志乃はずーっと美味しそうに食べてたよー。あはは。骨のずいまで使ってもらって正解だったなぁ。一欠片、一滴でも晴成の血肉が混ざっていたら、志乃ってば、すっごく目を輝かせて食べてたんだものー」


 同時に、志乃を救ってくれたものだった。志乃を救うために差し伸べられ、故にこそ失われたものだった。


「『美味しい』が分かることは嬉しいって。あはは、そう言った時の志乃、とっても可愛かったんだよー。あ、そうだ。晴成にもお礼を言わなくっちゃだよねー。あの子のお陰で、志乃は料理を食べてくれたしー、『美味しい』も感じられるようになったんだものー」


 それを、雷雅は。志乃に人の道を踏み外させる、その一歩に使ったと。


「……ふ、ざ、ける、な」


 内側で、水面が震える。溜まりに溜まった怒りの水面が、一滴の真実で震え、溢れ出す。


「ふざ、ける、なよッッ!!」


 獣のようにえて、芳親は雷雅に飛び掛かる。笑ったまま、抵抗しない雷雅の腕から、意識が戻らない志乃を奪い返す。もう、呪詛の苦痛は感じなかった。摩耗まもうした感覚は、苦痛を訴えなくなっていた。


「志乃、はッ……お前の、人形じゃ、ない! 妖怪でも、ない! 志乃は」

「志乃は人間になれないよ」


 唐突に繰り出された、ひどく穏やかな声と言葉が、あっさりと芳親を黙らせる。何の前触れもなく、軽々と放たれた氷塊が、一瞬で芳親の頭を無音に帰していた。


「六年も一緒に過ごしてたんだもの。志乃のことは、よーく分かってるんだー。加えて、今まで調べてきた〈特使〉に関する事柄から確定するに、志乃は人間になれないんだよー、芳親。そういう作りには、なっていない」

「……作りって、何。志乃は、人形じゃ」

「俺にとっては違うけどー、志乃は人形なんだよー? 志乃じゃなくても、妖雛はみーんな人形なんだよー」


 かろうじて返した言葉さえ、雷雅は軽々と一蹴する。おかしいのは、知らないのは芳親なのだというように、笑いながら。あざけりの色などない、無邪気な笑みを浮かべながら。


「特使っていうのはねぇ、早い話が『生贄』。幽月かくりつきの特使が、人間じゃ太刀打ちできない物の怪をその身に宿して、人間でも対応できる規模に縮小させる。そうして、常日の特使が完膚かんぷなきまでに消去する。要はさー、『英雄の化け物退治』をできるようにしよー! ってことー」


 おとぎ話のような、作り話のようなそれを、雷雅はつらつら語り続ける。美しい笑みを浮かべて、美しい声で彩って。

 信じられるか。そんなわけがあるか――反論を投げつけられる気力は、芳親に残されていなかった。闇夜に浮かぶ黄金こがねを、茫然ぼうぜんと見上げて。流れてくる言葉を、聞いているしかなかった。


「分かりやすいでしょー? だからさ、芳親。志乃は人間になれないけど、君は人間になれるし、そうじゃないと人間が困るんだよー。脅威に打ち勝てない敗北者、って烙印を背負っちゃうからねぇ」


 刻まれる言葉を受け止めて、染み込む真実を眺めていることしか、できなかった。


物の怪バケモノを殺すことで、英雄人間に。機能的な話をすれば、君たちってそういう関係なんだよ。殺し合うことが最上の幸せに設定されてるのもー、そういう理由なんだー。それも芳親が、志乃に気づかせてくれたんだよねぇ。夜蝶街やちょうがいで、物の怪が出た時に。あはは、ありがとうねぇ、芳親」


 言葉が刺さる。事実が穿うがたれる。のどかな声と微笑みが、容易く熱を刈り取っていく。

 自分たちには脅威ですらないモノを、前座のように打ち払って。その後、歓喜と共に切り結んだ鋼の縁。きっと、結ばれることなどないと思っていた糸が繋がって、嬉しかったのに。ようやっと見つけられた、片割れだと思ったのに。


 機能的。設定。人間どころか、妖怪ですらないとでも言うような、無機質な言葉。

 物の怪を殺すことで、英雄に。バケモノを殺すことで、人間に。利用価値を示さなければ、同じ場所に属せない、人界のことわりを示す言葉。


 春を飼うのどから、優しい音に包まれ降り注ぐ、冷たいひょうの言葉たち。はねの千切れた蝶も、崩れた牡丹も、打ち付けられて泥まみれ。芳親と志乃を表す言葉は、桜を散らす冷雨れいうに似ている。


「他の妖雛はー、君たちみたいに完成されなかった子たち。今となってはその名残みたいなもの、って言った方が正しいかなぁ。人間じゃないものを縮小させて宿す、妖怪の要素を掛け合わせた器。その試作品で雛型ひながただからー、妖雛っていうんだよー」


 雹を降らす雷の鬼は、のんびりとしたとどろきで、芳親の知らないことを話し続ける。本当なのか、嘘なのか。信じる当ては自分しかいないけれど、芳親は自分を信じられない。

 楽しい気持ちも、守れるという使命も、冷えて虚飾と解けていく。そうして現れた真正は、夢を見ていた未熟なつぼみ。見ていた絵空事の春は、雨に打たれて溶け落ちる。


「で、ここからが本題。志乃や他の妖雛たちは、そういう人形に連なるものだけどー。君だけは違う。君だけは、妖雛じゃなかった。妖雛と分類するしかないから、そう言ってるだけ。だから分からなくてー、気になったんだー」


 分からないことばかり言う鬼は、芳親を分からないと言って、しゃがみ込んだ。芳親は咄嗟とっさに志乃を抱え込んだが、雷雅は志乃に目を向けない。警戒の色を取り戻した牡丹色の目を、真正面から見つめている。


「君は常世に行って、帰ってきた。そうして、千と数百年ぶりに、〈常日とこひの特使〉になった。仮説はいくつか挙げられるけど、どれも根拠に欠ける。俺の調べられる範囲でも、根拠として据えられるほどのものは、見つけられなかった」


 ずっと弧を描いたままの黄金月が、さらに細められる。数多の心を蕩かしてきたという黄金には、梔子くちなしの蜜も混じっている。


「いっそのこと、芳親経由で常世に行っちゃおーと思って。俺も、常世にだけは行けないからねぇ。何とかして君に、常世への道を開いてもらいたかったんだー」


 妖魔の顔をしながら、純真な笑顔を浮かべながら、雷雅は軽やかに目的を開示し始める。牡丹の双眸から警戒され、締め出されても、気にすることなく視線を送りながら。


「利毒に協力したり、呪詛を志乃に受けさせたり、青鷺の命を費やしたり。最初は一まとめに解決しようとは思ってなかったんだけどー、色んな物事が出揃ってきて、ぜーんぶ一緒くたにできるなーって」


 忘花楼ぼうかろうで繰り広げられた大騒動、それまでに置かれていた布石を、雷雅は何てことなさそうに振り返っていく。黄金の瞳は霧を通したように、ほのかな濁りをたたえていたが、不意に澄んで光を宿した。狙いを定めた眼光を。


「利毒の目的は志乃、青鷺の目的は白雨はくう。そして、俺の目的は君だったんだよー、芳親。君が常世への道を、開かざるを得ない状況を作る。これまでのことは、君の選択肢をしぼるためにあったんだー」


 この一件に加担したのは、志乃が呪詛にむしばまれるよう仕向けたのは、青鷺を立ちはだからせたのは――すべて、お前のためだと。告げる鬼の微笑みは、柔らかい。悪意など欠片も抱いていない。

 ぐらり、もがきながらも立て直そうとしていた牡丹の瞳が、揺らぐ。既に打たれていたくい棚盤山たなざらやまでの一件に関する自責が、芳親の動きを鈍らせる。

 僕のせい、なのか? 守れるのに、守れたはずなのに。僕に力が、なかったから?


「君に常世への道を開けてもらうのが目的だったけどー、それ以前に、俺は君と話したかったんだぁ。さっきも言ったけど、君にはたーっくさん、お礼を言いたかったからさぁ。あはは、忘れないうちに、ここでぜーんぶお礼を言っておこっかぁ」


 ぐらり、ぐらり。揺れる牡丹の瞳孔に、曇ることなき爛漫らんまんの声が降り注ぐ。


「志乃に食事の楽しさを教えてくれて、ありがとう。志乃に、晴成の左腕初めての獲物を獲らせてくれて、ありがとう」


 食べることが楽しいと教えられなければ、美味しいことは嬉しいのだと教えられなければ、志乃はわなだらけの食事に手を伸ばさなかった。


「志乃に戦いの幸福を教えてくれて、ありがとう。志乃に至上の殺し合いを教えてくれて、ありがとう」


 戦うことは楽しいと再確認しなければ、最幸さいこうの楽しみが殺し合いだと知らなければ、志乃は人の側から離れなかった。


「志乃と出会ってくれて、本当にありがとう、芳親。君が志乃に働きかけてくれたからこそ、志乃は幽月の特使として目覚められた。君がいてくれたお陰で、志乃は本当の姿を取り戻せたんだよー」


 芳親という切欠きっかけがいなければ、志乃に欠陥けっかんという穴は空かなかった。否、既に空いていたそれは、広がらなかった。

 一枚ずつ、一枚ずつ、芳親の心側うらがわが崩れていく。ただ、楽しさと嬉しさを、分かち合いたくて。戦場にだけ現れる刹那の幸福を、分かり合いたくて。だからこそ、志乃の手を握ったのに。かつて自分が受け取った贈り物を、片割れと察した存在にあげようと思ったのに。

 空っぽな自分でも、人間になれると。人間と同じようにできると。そうして、同じ空洞を抱えた友を、人間にしてあげられると――幾度となく巡った思考に、横槍が入る。


 どうして、そう思えたの? どうして、絶対にできるなんて、信じたの?

 自分だって、なんにも分からなかったくせに。なんにも、分かっていなかったくせに。


 抱え続けた志乃の体が、重い。重くて温かい。けれどその目は未だ開かず、あかい痕跡は青や黒に変わっていく。生きているのに、枯れていく。保たれているのに、崩れていく。


「だけどー、それだと困っちゃうよねぇ。俺も、志乃がこちら側に来ちゃうのは困る」


 芳親が目線を下げても、雷雅は逸らさないまま、新たな言葉を紡ぐ。白々しい響きをしていればいいのに、その声色は混じりけのない白だった。黒を塗り潰す必要もなく、最初からそこにある白だった。


沢綿島さわたじまでも言ったと思うけどー、それは、誰かの策略かもしれないから。もちろん、志乃がこっち側に来ちゃってもー、俺はまた、最初から練り直せばいいんだけどー……君たちは、そうじゃないでしょー?」


 今は違えども、戻れば芳親と同じ目線上にある、二つの黄金月。真っ暗闇に浮かぶそれは、こんなにも近くで姿を見せていながら、実際は途方もなく遠い。


「それにさー。痕を見せた時にも言ったけどー、いくら志乃が呪詛を呑み込めるからって、処置は必要になる。君は、処置方法の一つを知ってるんじゃないかなぁ、芳親。君が常世にいた時って、天藤山あまふじやまの近くにいたんじゃない? そうじゃなきゃ、天藤の子……天藤がだーいじに囲う天授てんじゅの子との接点なんてー、持たないと思うんだけどー」


 花びらの覆いが失われた芯を、ざらりと撫でられた心地がして、芳親は顔を上げた。妖雛たちを愚弄ぐろうした声は、今度は茉白へ触れようとしている。


「天藤山は常世と近い。だからと言って、常世に入れるわけじゃないけどー、足掛かりさえ掴んじゃえば、入れる可能性が高いんだよねぇ。だから、事を起こすなら碧原へきげん府が良かったんだー。もし君に断られちゃったらー、現世にいる天藤の女の子に」


 ――ブンッ!

 鈍重な風切り音が、鬼の言葉を絶ち切る。芳親が刀を振るっていた。さやは抜かず、腰から引き抜いて。

 強引な動きをしたせいで、回復も遅々として進まない体が倒れ、志乃にぶつかりかける。雷雅はふわりと飛び退すさったが、おもてを覆う笑みにはひびすら入っていない。


「あはは、ちょっとは元気になったー? それなら、考えも追いつくよねー。君が今ここで、常世への道を開けてくれたら、俺の目的が達成される。同時に、この大騒動もおしまいを迎えられる。もちろん、君じゃなくてもいいけどー。その時は、天藤の女の子に頼るかもしれないねぇ」


 志乃を娘と呼びながら、平然と呪詛に晒して、重傷を負わせた鬼が何をするのか。予測しても、ろくでもない結果しか浮かんでこない。

 頷くか、逃げるか。最初から、芳親に選択肢など無かったのだ。


「ね、芳親。やってくれるでしょー?」


 刀を杖代わりにしながら、荒い息と共に身を起こす芳親に、再び雷雅は歩み寄る。重ねた黒の衣をなびかせて、結い上げても長い黒髪を流れ落として、牡丹と月を同じ高さに整える。


「志乃だって、放っておいたら危険になる。いま触ってるんだから、よーく分かるでしょ?」


 沈まない月が、言葉で事実を照らし出す。ふわり漂う沈香を伴い、突き付けられた数多の事象が、芳親を囲い閉じ込めていた。弱る身体からだへ、じわりじわりと圧し掛かってきていた。

 選べない。進めない。逃げられない。片手は己を支え、もう片方は友を落とさないために塞がっている。身動きの取れないおりの中、芳親にできることは、一つしか残されていなかった。


『――姉、上』


 常世へ助けを求める、ただそれだけ。

 霊力を通じ、常世へと呼びかける。たった一言で呼びかける行為が、かろうじて残されていた芳親の気力、その最後を奪い取った。

 体が更に前へ倒れていく動作と、口内に盛り上がる鉄の味を感じ取ったが、芳親の意識はそれらを最後に暗転していた。故に、牡丹の目が捉え認めることはなかった。雷雅が体を支えたことも、その手に吐血を受け止めたことも――助けを求めた声に応じ、白銀の影が現れたことも。

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