花冷え
だが、脳裏に風晶の声が過って、カッと頭が熱くなった。利毒の呪詛を、ただ一人に受け止めさせると。その選択をした存在には、雷雅も含まれている。
「あれー、怒ってるねぇ? あ、そっかぁ。志乃がそんなことになっちゃったのは、確かに俺たちのせいだもんねー。だから怒ってるのかぁ」
「っ……なん、で……!」
志乃の親だと名乗ったくせに、呪詛に命を
「なんでって、志乃のことで、見たいものがあったんだよー。それに、芳親。君にも用があったんだー。志乃もそうだけどー、君のことも重視してたんだよー」
「用が、ある、なら……ッ、志乃に、呪詛、かける、必要、なんか……ッ!」
「うん? それは必要だよー。ほら、よく見て」
芳親の怒りなど意に介さず、雷雅はしゃがみこんで、志乃に手を伸ばす。すかさず芳親が振り払うと、
「んえー? 志乃に酷いことなんてしないよー、大事な娘だものー」
「どの口が……っ!?」
振り払われなかった方の手が、素早く芳親の腕に触れる。途端、
「ほら、芳親。よーく見てよ。呪詛は確かに効いてるけどー、それ以上に、志乃がものにしてる」
肩を抱き寄せ、自分にもたれかかせながら、雷雅は志乃の袖を
現象は分かっても、意味は分からない。志乃に何が起こっているのか、芳親はただ、憤りと驚愕に掻き混ぜられるばかり。
「ね? まあ、処置は必要だけどー、志乃は呪詛を呑み込めるんだよー。あはは、俺はこれを見て、確かめたかったんだー」
雷雅は志乃を抱え上げると、嬉しそうにくるりと回る。長く艶めく黒髪と、黒一色の衣が、月光を弾いてふわりと舞った。場違いなほどの美しさで。
「それにしても、可愛いなぁ。今の志乃も、とーっても可愛い! また抱きしめられて嬉しくなっちゃうよー」
呪詛の伝染を恐れることなく、雷雅は志乃を抱きしめたり、頬を擦り寄せたり、人形で遊ぶ子供のような振る舞いをする。途端、混乱を弾いた怒りに任せ、芳親は無理やり体を起こした。重傷の仲間を
「離、せ! ……志乃、は、お前、の、人形じゃ、ない……ッ!」
「んー? それはもちろん、俺にとっては人形じゃないよー。さっきも言ったじゃない。志乃は俺の大事な娘だーって」
空虚に笑いながら言う鬼は、平然とそう言ってのける。先ほどからずっと、雷雅と芳親の話は交わらない。言葉は通じても意が通じない。
けれど、芳親にはどうしようもなく察せられていた。雷雅はこちらを馬鹿にしているわけではないのだと、本気でそう言っているのだと。純粋に、正直に、思うままに振舞っているだけ。それこそが、妖怪を妖怪たらしめる性質なのだから。
「それよりもさー。君にも用があったって言ったでしょー? えへへ。まずは、たっくさんお礼を言わせてほしいんだー、ありがとうって」
志乃を抱えたまま、再びしゃがんで芳親と視線を合わせる雷雅に、芳親は
「分かんないって顔だねぇ。それはそうだよぉ、今日起こったことについてだものー。まあ、前置きはこのくらいにしてー、ありがとう、芳親。志乃に『食べ物を食べる嬉しさ』を教えてくれて。お陰様で、志乃は用意した料理を食べてくれたしー、『美味しい』が分かったしー、俺にもありがとうって言ってくれたんだよー」
にっこり笑ってなされた礼は、何の含みもないように聞こえる。芳親も驚いて目を見開いたが、すぐに浮かんだ連想が、表情を怒りの色に戻す。
「志乃、の、食事に……毒、仕込んだ、のか」
「眠ってもらう方法の一つではあったよー。動かれると困っちゃうもの。でも、食べ物に関しては、それが一番の目的だったわけじゃない。俺がやりたかったことはー、志乃に食事の楽しさを知ってもらうことだったからねぇ」
それもまた含みのない言葉に聞こえるが、芳親は再び怪訝な顔をした。
食事は、妖怪にとって確かに娯楽ではあっても、そこまで優先する娯楽ではない。志乃が人間の中で生きていけるように、という狙いがあったのなら分かるのだが……風晶に言われた方が、まだ頷ける余地がある。
「あれ。君は食事を楽しむんでしょー? それなら、志乃が食事をするのもー、味が分かるようになるのもー、喜んでくれると思ったんだけどなぁ」
「それは、いい、けど……、……何で、お前は……志乃、に、楽しんで、ほしかった?」
かといって、目的を言い当てるまでには到達できず、芳親は
「妖怪にとって、食事は娯楽。それに伴う狩りも娯楽。君は知らなかったかなぁ、妖怪って、自分が獲った獲物には、『美味しい』を感じられるんだよー」
それは聞いたことがあったため、芳親は頷いて……芋づる式に思い出された知識に、背筋を凍らされる。
妖怪は、自分が獲った獲物には、抗いようのない美味を感じる。その味は、人間が妖怪へと変じ、道を踏み外す一歩目にもなりうる。
「あ、知ってたんだー。じゃあ、次のお礼も、意味を分かってくれるよねー」
その獲物が、その味をもたらしたものが――人間であったのなら、なおさら。
知っている。知っていた。芳親は間近で見ていた。志乃が人の腕を獲る瞬間を。
「
獲物。
その表現は、間違っていないのだろう。雷雅には、そう映ったのだろう。
「もちろん、晴成の左腕だけじゃないよー? ひと月ずーっと一緒にいたから、狩りで他の獲物も調達したし。どれくらい関わったら、美味を感じる獲物になるのかなーって、調査も捗ったんだよねぇ」
だが、芳親にとっては違う。あれは失った物、失ってしまった物。自分が無力だった、自分が何もできなかった、その証だった。
「でもねぇ、ここで獲った獲物だけの料理より、晴成の左腕を使った料理の方が、志乃はずーっと美味しそうに食べてたよー。あはは。骨の
同時に、志乃を救ってくれたものだった。志乃を救うために差し伸べられ、故にこそ失われたものだった。
「『美味しい』が分かることは嬉しいって。あはは、そう言った時の志乃、とっても可愛かったんだよー。あ、そうだ。晴成にもお礼を言わなくっちゃだよねー。あの子のお陰で、志乃は料理を食べてくれたしー、『美味しい』も感じられるようになったんだものー」
それを、雷雅は。志乃に人の道を踏み外させる、その一歩に使ったと。
「……ふ、ざ、ける、な」
内側で、水面が震える。溜まりに溜まった怒りの水面が、一滴の真実で震え、溢れ出す。
「ふざ、ける、なよッッ!!」
獣のように
「志乃、はッ……お前の、人形じゃ、ない! 妖怪でも、ない! 志乃は」
「志乃は人間になれないよ」
唐突に繰り出された、ひどく穏やかな声と言葉が、あっさりと芳親を黙らせる。何の前触れもなく、軽々と放たれた氷塊が、一瞬で芳親の頭を無音に帰していた。
「六年も一緒に過ごしてたんだもの。志乃のことは、よーく分かってるんだー。加えて、今まで調べてきた〈特使〉に関する事柄から確定するに、志乃は人間になれないんだよー、芳親。そういう作りには、なっていない」
「……作りって、何。志乃は、人形じゃ」
「俺にとっては違うけどー、志乃は人形なんだよー? 志乃じゃなくても、妖雛はみーんな人形なんだよー」
かろうじて返した言葉さえ、雷雅は軽々と一蹴する。おかしいのは、知らないのは芳親なのだというように、笑いながら。
「特使っていうのはねぇ、早い話が『生贄』。
おとぎ話のような、作り話のようなそれを、雷雅はつらつら語り続ける。美しい笑みを浮かべて、美しい声で彩って。
信じられるか。そんなわけがあるか――反論を投げつけられる気力は、芳親に残されていなかった。闇夜に浮かぶ
「分かりやすいでしょー? だからさ、芳親。志乃は人間になれないけど、君は人間になれるし、そうじゃないと人間が困るんだよー。脅威に打ち勝てない敗北者、って烙印を背負っちゃうからねぇ」
刻まれる言葉を受け止めて、染み込む真実を眺めていることしか、できなかった。
「
言葉が刺さる。事実が
自分たちには脅威ですらないモノを、前座のように打ち払って。その後、歓喜と共に切り結んだ鋼の縁。きっと、結ばれることなどないと思っていた糸が繋がって、嬉しかったのに。ようやっと見つけられた、片割れだと思ったのに。
機能的。設定。人間どころか、妖怪ですらないとでも言うような、無機質な言葉。
物の怪を殺すことで、英雄に。バケモノを殺すことで、人間に。利用価値を示さなければ、同じ場所に属せない、人界の
春を飼う
「他の妖雛はー、君たちみたいに完成されなかった子たち。今となってはその名残みたいなもの、って言った方が正しいかなぁ。人間じゃないものを縮小させて宿す、妖怪の要素を掛け合わせた器。その試作品で
雹を降らす雷の鬼は、のんびりとした
楽しい気持ちも、守れるという使命も、冷えて虚飾と解けていく。そうして現れた真正は、夢を見ていた未熟な
「で、ここからが本題。志乃や他の妖雛たちは、そういう人形に連なるものだけどー。君だけは違う。君だけは、妖雛じゃなかった。妖雛と分類するしかないから、そう言ってるだけ。だから分からなくてー、気になったんだー」
分からないことばかり言う鬼は、芳親を分からないと言って、しゃがみ込んだ。芳親は
「君は常世に行って、帰ってきた。そうして、千と数百年ぶりに、〈
ずっと弧を描いたままの黄金月が、さらに細められる。数多の心を蕩かしてきたという黄金には、
「いっそのこと、芳親経由で常世に行っちゃおーと思って。俺も、常世にだけは行けないからねぇ。何とかして君に、常世への道を開いてもらいたかったんだー」
妖魔の顔をしながら、純真な笑顔を浮かべながら、雷雅は軽やかに目的を開示し始める。牡丹の双眸から警戒され、締め出されても、気にすることなく視線を送りながら。
「利毒に協力したり、呪詛を志乃に受けさせたり、青鷺の命を費やしたり。最初は一まとめに解決しようとは思ってなかったんだけどー、色んな物事が出揃ってきて、ぜーんぶ一緒くたにできるなーって」
「利毒の目的は志乃、青鷺の目的は
この一件に加担したのは、志乃が呪詛に
ぐらり、もがきながらも立て直そうとしていた牡丹の瞳が、揺らぐ。既に打たれていた
僕のせい、なのか? 守れるのに、守れたはずなのに。僕に力が、なかったから?
「君に常世への道を開けてもらうのが目的だったけどー、それ以前に、俺は君と話したかったんだぁ。さっきも言ったけど、君にはたーっくさん、お礼を言いたかったからさぁ。あはは、忘れないうちに、ここでぜーんぶお礼を言っておこっかぁ」
ぐらり、ぐらり。揺れる牡丹の瞳孔に、曇ることなき
「志乃に食事の楽しさを教えてくれて、ありがとう。志乃に、
食べることが楽しいと教えられなければ、美味しいことは嬉しいのだと教えられなければ、志乃は
「志乃に戦いの幸福を教えてくれて、ありがとう。志乃に至上の殺し合いを教えてくれて、ありがとう」
戦うことは楽しいと再確認しなければ、
「志乃と出会ってくれて、本当にありがとう、芳親。君が志乃に働きかけてくれたからこそ、志乃は幽月の特使として目覚められた。君がいてくれたお陰で、志乃は本当の姿を取り戻せたんだよー」
芳親という
一枚ずつ、一枚ずつ、芳親の
空っぽな自分でも、人間になれると。人間と同じようにできると。そうして、同じ空洞を抱えた友を、人間にしてあげられると――幾度となく巡った思考に、横槍が入る。
どうして、そう思えたの? どうして、絶対にできるなんて、信じたの?
自分だって、なんにも分からなかったくせに。なんにも、分かっていなかったくせに。
抱え続けた志乃の体が、重い。重くて温かい。けれどその目は未だ開かず、
「だけどー、それだと困っちゃうよねぇ。俺も、志乃がこちら側に来ちゃうのは困る」
芳親が目線を下げても、雷雅は逸らさないまま、新たな言葉を紡ぐ。白々しい響きをしていればいいのに、その声色は混じりけのない白だった。黒を塗り潰す必要もなく、最初からそこにある白だった。
「
今は違えども、戻れば芳親と同じ目線上にある、二つの黄金月。真っ暗闇に浮かぶそれは、こんなにも近くで姿を見せていながら、実際は途方もなく遠い。
「それにさー。痕を見せた時にも言ったけどー、いくら志乃が呪詛を呑み込めるからって、処置は必要になる。君は、処置方法の一つを知ってるんじゃないかなぁ、芳親。君が常世にいた時って、
花びらの覆いが失われた芯を、ざらりと撫でられた心地がして、芳親は顔を上げた。妖雛たちを
「天藤山は常世と近い。だからと言って、常世に入れるわけじゃないけどー、足掛かりさえ掴んじゃえば、入れる可能性が高いんだよねぇ。だから、事を起こすなら
――ブンッ!
鈍重な風切り音が、鬼の言葉を絶ち切る。芳親が刀を振るっていた。
強引な動きをしたせいで、回復も遅々として進まない体が倒れ、志乃にぶつかりかける。雷雅はふわりと飛び
「あはは、ちょっとは元気になったー? それなら、考えも追いつくよねー。君が今ここで、常世への道を開けてくれたら、俺の目的が達成される。同時に、この大騒動もおしまいを迎えられる。もちろん、君じゃなくてもいいけどー。その時は、天藤の女の子に頼るかもしれないねぇ」
志乃を娘と呼びながら、平然と呪詛に晒して、重傷を負わせた鬼が何をするのか。予測しても、ろくでもない結果しか浮かんでこない。
頷くか、逃げるか。最初から、芳親に選択肢など無かったのだ。
「ね、芳親。やってくれるでしょー?」
刀を杖代わりにしながら、荒い息と共に身を起こす芳親に、再び雷雅は歩み寄る。重ねた黒の衣を
「志乃だって、放っておいたら危険になる。いま触ってるんだから、よーく分かるでしょ?」
沈まない月が、言葉で事実を照らし出す。ふわり漂う沈香を伴い、突き付けられた数多の事象が、芳親を囲い閉じ込めていた。弱る
選べない。進めない。逃げられない。片手は己を支え、もう片方は友を落とさないために塞がっている。身動きの取れない
『――姉、上』
常世へ助けを求める、ただそれだけ。
霊力を通じ、常世へと呼びかける。たった一言で呼びかける行為が、かろうじて残されていた芳親の気力、その最後を奪い取った。
体が更に前へ倒れていく動作と、口内に盛り上がる鉄の味を感じ取ったが、芳親の意識はそれらを最後に暗転していた。故に、牡丹の目が捉え認めることはなかった。雷雅が体を支えたことも、その手に吐血を受け止めたことも――助けを求めた声に応じ、白銀の影が現れたことも。
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