蜘蛛と蝶
男の人にしては、雰囲気が変わっているなと思っていた。あの子は女の子だよと教えられた時は、ひどく驚いた。
女という存在は弱くて、囲いの中に閉じ込められて、生きていくものだと思っていた。自分より大柄な人たちに負けず劣らず、悪を成敗する女の子なんて、おとぎ話の存在だった。
だから、あの子が女の子だと分かった時、まず抱いたのは憧れだった。男たちの中で、華と謳われる喧嘩の中で、
憧れていた。尊敬していた。けれどそれは、あの子が被っていた面でしかなくて。被っていたというよりは、主に見えているのがそれだったというだけで。
それを知ってしまったのは、夜。姉と慕った人を
私はそれを、すぐ傍で見ていた。姉さんと男の人の幸せそうな顔を。姉さんが倒れ苦しみ、男の人が訳も分からぬまま、殺されてしまうところを。
どうしてなのか、分からなかった。実っていた幸せが、一瞬にして腐り落ちてしまった理由が。姉さんだったものが手当たり次第に暴れ、痛々しいほど泣き叫ぶ光景に、どんな気持ちを抱けばいいのか。
怖かったのは確かだけれど、それ以上に、姉さんを助けてあげたかった。私を助けてくれた人だから。閉ざされた世界の中で、
でも、私はただの、無力な小娘でしかなくて。怨霊となった姉さんを助けることなんて、到底できなかった。
あの時の私にできたことは、助けを呼んでくること。見回り番を連れてくること。だからこそ私は思い至った。力と自由を持っているあの女の子なら、きっと助けてくれると。
その判断は間違いではなかったし、運良く見つけられた見回り番もあの子だった。間違いではなかったけれど、間違っていた。運が良かったけれど、悪かった。だって、姉さんは苦しんだままだった。救われるはずの魂は、救われることなく斬り捨てられた。
月下、青白い瞳を輝かせて、憧れたはずのものが笑っている。強くて自由で、そして朗らかなはずの女の子は、化け物だった。人の死なんて何とも思っていない、異物だった。
怖かった。恐ろしかった。何も分からなかった。それでも、
姉さんを斬り捨て、消し去った化け物を押し倒して、絞め殺そうとした。それだけの力があったのに、
言い訳をするなら、その懐刀は、姉さんから貰ったものだったから。幸せになれるようにと贈ってもらったものだったから。贈ってくれたその人を傷つけるなんてことに、使いたくなかった。使えるわけがなかった。
そんな風に弱かったから、私は結局、化け物を絞め殺すことだってできやしない。
私は弱い。どうしようもなく弱い。容貌が良いからなんだ、芸ができるからなんだっていうんだ。それが私を幸せにしたことなんてなかった。私の幸せは姉さんだけだった。物心ついた時から
怨霊となった時点で、姉さんは死んでいるし、末路だって分かっている。でも、でも、それは安らかなものじゃなかった。痛くて苦しくて、悲しいことだった。なのに、どうしてお前は笑う。どうしてお前は斬り捨てる。どうして、どうして――お前みたいな化け物なんぞが、檻の外で笑っているんだ!
花居志乃。その名を忘れたことはない。我が
だけど。何もできず、死ぬ度胸もない私の前に、この上ない救いが現れた。柳の陰と花の
生憎、神様とて、花居志乃を殺すことはできなくなってしまったけれど。それは都合良くも受け取れる。だって、死んだらそれきりだ。姉さんが受けた苦痛を、一瞬で済ませてなどやらない。その笑みが二度と咲けなくなるよう、消えようのない傷をくれてやる。
たった一つ選び取った、私の道。極まったその先でやることもまた、たった一つだ。
■
利毒に手を引かれ、
一歩、一歩、踏みしめるようにゆっくりと。そうすることで、呪いをさらに高めていく。
「……そういえば、利毒。あの狐、なんて名前だったの?」
「はて。憶えておりません。ワタクシは珠花様のお名前と、妓名の夕立御前のお名前しか呼んでおりませぬゆえ。アアしかし狐が自分のことと勘違いしたのか夕立の別名を名乗っていたような。ンフフフいま思うと
黙っているのも飽きが来るので、適当に利毒へ話題を放る。すると利毒は楽しそうに、きゅるきゅる
忘花楼には数多の
この先に、恨み続けた女がいる。まだ一度もその姿を見ていないこともあってか、未だに信じられない気持ちもあった。
男に劣らぬ力を以て、自由に飛び回る女の子。檻の中で飾られていた自分と違い、檻の外で
七階を経た先、八階は、九尾を誇った狐の部屋だったという。喋り続ける利毒は、丸ごと全部くれてやったのだと言った。ずいぶん気前が良いなと思っていたら、「
九尾は珠花の
大抵のことは忘れてしまった珠花だが、九尾の一側面は、見てきた遊女たちの一部を思い出させた。綺麗な着物に縛られて、生温い暗がりの中で過ごして。そうやって
ぼんやりと思い返しているうちに、暖かな狐火が灯っていた八階の部屋が、珠花が纏う呪詛の
今までの階と比べ、八階と九階は小さく造られている。しかし、呪詛の花と彼女の手を引く鬼は、丁寧な歩調を急かさない。積み上げてきたものを、確実に。腐り落ちる結末など、決して迎えないように。
そして、九階。鬼の語りを聞きながら、咲きかけの花は留まった春に踏み入った。
廊下を
利毒の手が、音もなく離れていく。ここから先は珠花の道。悲願の花、その大輪を咲かせるための道だ。
容易く溶けた春の覆い。その中に、力なく座る影が一つ。黒と白、金と青。夜の色を纏ったそれは目を閉じ、
一歩、一歩、また一歩。これまでそうしてきたように、眠る鬼へと近づいていく。
果たして、珠花は足を止め、根を下ろした。紅と黒から伸びる純白の
音は、何もない。
どさり。
しばらくすると、珠花は志乃から手を離し、床に落とした。呪いを移しきったわけではない。第一段階を無事に終えられただけだ。まだ油断などできはしない。
「――起きなさい、花居志乃」
冷酷な声で言い放ち、珠花は片腕を上げる。合わせるようにして、彼女の足元から、ずるりと持ち上がる長い腕が現れた。
舞を打つように下ろされた珠花の腕とは違い、蜘蛛の腕は容赦なく、倒れた志乃を
上座から珠花が
「やっと会えたわね、
微笑み、歌うように語りながら、珠花は再び腕を持ち上げる。既に出ていた蜘蛛の腕以外にも、七本、継ぎ接ぎの蜘蛛の腕が現れた。足元から四本、珠花の背後から四本。
「忘れなかった花、忘れられた花、忘れようのない花……数多の花、即ち願いが作り上げた
蜘蛛と毒に守られた花が笑う。叩き落とされ地に潰れ、ひしゃげた蝶を嗤う。
「これより舞いますのは、貴女のために仕立てた舞踊。貴女を
旋律を奏でる楽器がなくとも、珠花はゆるりと舞い始める。紅を宿す黒髪を連れ、
先んじた音はなかったが、
殺さないという制約上、蜘蛛の足が繰り出す打撃自体に、そこまでの威力はない。しかし、呪詛という毒を纏い、刻み付けてくるが故に、志乃の体を確実に蝕んでいく。事前に仕込まれた毒の
幽冥の闇夜に咲いた、呪い
第二段階も、完了が間近に迫ってきた。恨み続けた鬼の少女は、
呪いに適ったこの身が、願い叶える時、仇に敵う時もまた、間近。打擲の奏でに耳を傾けながら、珠花は咲ききる瞬間まで、
■
大切な人を奪ったものへの憎悪。大切なものを失った悲哀。生じた責を、罪を忘れさせまいとする、冷たさと強さ。
そのすべてを、志乃は今でも生々しく思い出せる。それらを持っていないから、育ててくれた人々と同じになれないのだと、そのとき初めて理解したから。
だから、あの遊女だと。あの手の持ち主とすぐに分かった。
自分の身に何が起こったのか。自分を取り巻く現状はどうなっているのか。鈍って上手く動かない頭でも、状況が悪化していることは分かる。
黒と紅に変じた部屋の上座、禍々しく変色した
裏付けるように、頭の中に声が聞こえはじめる。
痛い。苦しい。かなしい。辛い。悔しい。
どうして。どうしようもない。どうにもできない。どうすればいい。
助けて。救って。殺して。殺せ。
ゆるせない。ゆるさない。ゆるされるな。ゆるせるものか。
忘れられない。忘れられた。忘れるな。忘れさせるものか。
頑張ったのに。尽くしたのに。信じていたのに。信じられていたのに。
奪われた。捨てられた。傷つけられた。裏切られた。
憎い。憎い。憎い。憎い。誰が、何が、自分が、お前が、すべてが――憎い。
枝から離れた木の葉のように、翅を破かれた蝶のように、志乃は
痺れたままの体。
どうすれば、いいのですか。――叫び続けた問いに、応答する声はない。
答えがないのなら、目の前の現実だけが答え。黒と紅の情に血、
自分に罪があるというのなら、
痛みの根源――傷は、
殺傷、戦い。それこそが生。けれどそれは、正ではない。人間にとって、正ではない。
それでは、人の側にいられない。害することこそ生きることなら、人の傍に、いるべきではない。
「なら、それでいいじゃないか」
「最初から、他人のことなんて考えなければ良かったんだ。
一瞬にして幾百もの声を背景にした声の主が、
「
ああ、そうだ。そうだった。思い出した。
どうして忘れていたのだろう。あの時、あの瞬間、悟ったのだ。たった一人の片割れ、境田芳親と殺し合うことこそ、至上の幸福に他ならないと。
自分たちの幸福は、生死が浮き彫りになる戦場に。ただ一度きりの刹那の中に。
その戦場は、ここではない。その刹那は、ここにはない。
「……邪魔、です、ね」
ぽつり、
「――なあ、お前。邪魔だ」
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