第十章 きゅうを経てかなう
序/急
魔縁・前
梅雨も近付く皐月の終わり頃。湿気でべたつく空気の中でも、舟吉町は四大花街の名に恥じぬ賑わいを見せている。しかしその裏では、元よりあった人界の暗闇以外にも、じわじわと
『――シャァアアッ!!』
水路に面した路地裏にて。月光や
けれども、獣の歯牙は何も害することなく消えていく。相手が振り抜いた、
「見事だ、
「ああ、危なげもなく優秀だった。指導した一人として、私も鼻が高い」
後方から見守り、評を告げる男が二人。片方は恵まれた体格の大男、熊井元助。もう片方は藍色の髪と目という奇異な姿の青年、星永晴成。黒い獣を散らした脇差を収めた華奢な影は、微笑む二人に歩み寄っていた。
「澄美は、役立つに足りますか」
少し癖のある焦げ茶の髪をまとめ、目元や首元に
澄美は
「役立つとも。隊長殿に副官殿、
「左様ですか」
声にも顔にも色を出さないまま、澄美は淡々とした調子を崩さない。役に立つと分かったのなら、それでいい。
先ほど澄美が斬り捨てた黒い獣、成り損ないと呼ばれるモノは、物の怪の邪気に中てられた弱者たちの成れ果てであり、通常ならば物の怪が現れる前兆とされる。しかし今回、舟吉町に成り損ないが出現している原因は利毒だ。膨大な恨み辛みを一所に集める凶行が、徐々に口を開いて牙と舌を覗かせている。
「む。まだ来る……、うん?」
いち早く険悪な空気を感じ取った晴成が、澄美の背後へと目を向け、しかし眉をひそめる。同じく気配を察知し、成り損ないの到来を捉えた元助も、妙な感覚に気付いた。
「逃げている、ようだな」
こちらへ走って来る成り損ないは五体ほど。形の異なるどれもが、殺気も伴わず疾駆している。三人のことは確実に見えているだろうに。
振り返った澄美も、遅れて奇妙さに気付きかけたが。五体の成り損ないが音もなく、一瞬で
「……え」
掠れた呟きが漏れるより早く、視界が元助と晴成の背に阻まれる。何が起こったのか、何が来たのか。分からず固まった澄美とは違い、二人は意識を起こす間もなく抜刀していた。
間もなく――ずん、と。空気が三人を押さえつける。次いで、足元から怖気が蔦のように這い上がり、動きを制して胸中へと入り込んでくる。
「きぃ、ひ、ははは。ここにおったか、おったな」
軋むような笑い声。かん、こん、かん、と下駄の一本歯が鳴らす足音。凝った闇の中にぼうっと、白すぎる肌に銀髪が浮かび上がり、人の形が生まれ出る。否、人ではないとすぐに看破できた。まるで輪っか状の冠を被っているかのごとく、頭部から複数の角を生やしていたために。
「くぅ、ふ、ふふふ。畏れ、よき畏れかな。だが恐れは不要ぞ。今宵のわれは、なれらに害をもたらさぬ」
古い時代と異国の要素が見える、緑がかった灰色の装いに、毒々しいほど映える赤の帯や鼻緒。性別を判じがたい顔に嵌るのは、白目が黒く瞳は白い眼球と、
「……こんな所へ何用か、
「かぁ、ひ、ははは。なれは熊井の者か。なぁに、ここらの天狗どもに、ちと挨拶をしに参っただけだ。だけだったのだが、雷雅の若造に呼ばれてな。面白きことが起こるかと来てみれば、境田の気配と馴染みある気配を感じた故、寄り道をしに来たのよ」
唸るような元助の問いかけに、異様な鬼は軽やかな答えを転がす。声も性別を判断しにくい音色だったが、何となく女性的な響きが強い。
だが、「そこの」と発せられた三つの音は低く、男性的な響きで打ち出される。染め物のような赤肌の、奇怪なほど長い指に長い爪を生やした手が、晴成を指していた。
「その藍髪に藍の目。
鬼の顔が、笑みで歪むのが見えたかと思いきや。瞬く間もなく眼前に、宙に浮いて現れる。鼻先が触れるほど近くから覗き込まれ、さすがの晴成も仰け反ったが。嫌悪や恐怖の類は湧かず、むしろ惹き寄せられるように、白い瞳を覗き返していた。
「くぅ、ふ、ふふふ。やはり。なれの血には星の力が混じっておる。薄れてもなお分かるぞ。なれも分かるであろう、われも遥か昔には、天の
爪を引っ込めたらしい細長の手で、鬼は晴成の顔を撫で回す。片方の手は首を這い、肩を伝い、左腕へと下っていく。
「これはどうした。雷雅……いや、違うな……ははは、きぃ、ひひ。あれが娘と呼ぶ人形か? ああ、それに会うのも楽しみにしておったのだ。まさか、ここで気配を感じ取れるとはなぁ」
塞がった切断面をなぞり撫でながら、けれど目は藍色を覗き込んだまま、鬼は笑う。
「して。これはくれてやったのか? それとも奪われたか?」
押さえつける空気が、圧し掛かる空気に変わる。笑顔も、撫でる手も変わらないのに、返答を間違えば首を折られそうな寒気を擦り込んでくる。
それらを感じ取っていながら、水中に押し沈められるような心地を味わっていながら。不思議と、晴成には息が出来ていた。畏れで締め上げきられてはいなかった。
「腕はくれてやった。奪われたのは心の方だ」
微笑みさえ浮かべて答えた晴成に、きょとん、と鬼が人らしい顔をする。が、それは束の間。すぐさま歪んだ笑みと、つんざく
「きゃはははははは! きぃひはははははは! 心、心を奪われただと! たかだか人形如きに!! かはははは! ああ、ああ!! なれはとんだ大馬鹿の星か!!」
おぞましさと無邪気さが同居する顔で一しきり大笑すると、鬼は離れて、再び晴成と対峙する。
「奥湖の者、星永の者よ。名を申せ」
「晴成」
「晴成。晴成……ああ、しかと憶えたぞ。くぅ、ふ、ふふふ。参った、参った。新しい
一方的に告げて、鬼はパッと姿を消してしまった。同時に、圧迫されていた空気が和らぐ。残っていた緊張を息に乗せて吐き出す元助と晴成の後ろで、がくんと澄美が崩れた。
「……っ、澄美!」
倒れ込む寸前で、男二人が澄美を支える。澄美は澄美で混乱していた。体が、上手く言うことをきいてくれない。頭はしきりに恐怖を叫んで、使い物にならない。
こちらからは見えなかったのに、見られていた。意識など何もない、ただ小石を蹴飛ばしてしまった、たったそれだけで命を吹き飛ばされてしまう確信と恐怖が、ぴったり張り付いて離れない。今も。
「無理もない、慧嶽は……すまない、説明に割ける時間がない。晴成、このまま任せても構わないか。他の隊員に来るよう伝達しておく」
「承知した、行ってくれ」
手早くやり取りののち、元助が駆け去っていく。一瞥で見送りを済ませ、晴成は澄美に向き直った。
「……申し、訳、ありま、せん……」
「なに、想定外など誰にでもある。それに、恐らくあの鬼は妖怪というより、神に近いモノだったのだろう」
途轍もない存在を平然と引き出せるのは、そういうモノが身近にあったが故。天授の家系という、超常の存在が傍らにあるが故だ。
それにしても、と。澄美の背を
解けないどころか、解かない方が良いとまで言われた雷雅の結界に阻まれ、幽世に踏み込めない兼久隊。そこに属する晴成もまた、危機を見逃すことを強いられる事態に、奥歯を噛み締めていた。
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