対岸に見えるは、

 会話が一段落してから間もなく。複数の足音が聞こえてきた。縁側の二人が振り返った先、閉められたふすまの向こうから、「志乃君、入っても構わないかな」と直武の声が先行してくる。


「それと、晴成君もいるかな? 茉白君が話をしたいと言っていたから、一緒に来てもらったのだけれど」

「おっと、おれも年貢の納め時らしいな」


 苦くも楽しげに口の端を、案内をする時のように腕を上げて、晴成は返事を促す。流れるように志乃が是を返せば、苦笑を浮かべる直武と、仏頂面の茉白が現れた。


「私、しばらく安静にしていてくださいと頼んだはずだったんですけど。何か言うことはありますか、晴成?」

「すまん。どうしても志乃と話をしたかったのでな、脱走した」


 竹を割ったような申し開きに、茉白は大きなため息を吐く。協力したという芳親からも、同じことを聞いたのだろう。


「ふふふ。ごめんなさいね、茉白。兄さまがご迷惑をおかけして」


 直武を挟んで隣から、ひょっこりと静も姿を現した。おそらく野次馬目的で来たのだろう、晴成と同じく、感情を隠すことなく顔に出している。


「何だ、静。からかいに来たのか」

「あら、茉白のお手伝いをしているだけよ。志乃に会いたいだけだった殿方よりマトモでしょ?」


 言いながら、真っ先に入室したかと思うと、静は二人の前に座り込む。後続は直武だけが座り、茉白はすぐに出るためだろう、一歩下がった場所に立っていた。


「ね、志乃。兄さまから何か言われた? 色めいたこととか、つやのあることとか」

「そういうのは女だけの時に話すのではないのか、静。麗部殿もいらっしゃるのに」

「ええと、そう解釈できるようなお言葉もいただきましたが」

「そしてお前は答えるんだな、志乃」


 聞かれても恥ずかしさは無いのだろう。むしろ女性側の恥じらいを考慮して突っ込む晴成に、志乃は首を傾げ、静は余計な口を挟むなと一瞥を投げた。


「いただきましたが、の続きは何かしら。兄さまは気にしていないから、答えてちょうだいな、志乃」

「はあ。……いただきましたが、俺は色恋沙汰と縁遠いので、尊敬を示していただいたという意味でお受け取りしました。それだけでも、俺には勿体ないお言葉でしたが」

「そうだったの。……兄さま、こういう時ってお酒をおごると良いのだったかしら」

「なにゆえ袖にされたと決めつけているのだ。全くお前という妹は」


 憐れみの目で見つめてくる静に、晴成は顔をしかめて腕を組んだ。


「今は受け取れませんでしたが、理解できるようになったら、改めて考えさせていただきたいと思いま……あ、でも。俺は上洛しなければなりませんし、今ここで答えを出すべきなのでしょうか」

「ああ、それなら心配無用だぞ。己も色護衆しきごしゅうに入るから、納得がいくまで熟考してくれ」


 軽く明かされた進路に、志乃の目がまん丸く見開かれる。驚かせようと思っていたのだろう、晴成は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「兼久殿に同行する故、お前より先の上洛となるが。答え云々は一旦置いて、気は早いが、同僚としてよろしく頼むぞ」

「――こほん!」


 流れていた和やかな空気に、茉白の咳払いが割って入る。「そろそろ引き上げていただいても?」と、控えめながらも譲らない強さを覗かせる一言に、藍色の兄妹はすぐさま立ち上がった。


「ごめんなさい、茉白。要らない時間を浪費してしまったわね」

「己からもすまぬ。元はと言えば、己を連れ戻しに来たのだからな」

迅速じんそくに動いていただいたので、時間の浪費は帳消しです。では先生、私たちはこれで。志乃も、また後でね」


 別れの挨拶も手短に済ませて、三人は速やかに撤収していった。座って待機していた直武は、大して気にしていなかったのか「賑やかだったね」と笑っている。


「……麗部うらべの旦那、まずはお詫びを。今回は敵の策に嵌り、自陣に要らぬ被害をもたらしてしまいました。旦那の顔に泥を塗ってしまい、申し訳ありません」

「うん。心に隙が出来ていた君に、非を見つけ出そうとすればあるかもしれないが、今回は利毒が上手だったからね。何より、心に隙ができるきっかけを作っているのは私だ。君一人が責を負う必要は無いし、多くは君を赦している」


 ぴくり、志乃は肩をかすかに震わせたが、言葉を発しはしなかった。


「戦いでは、完璧な勝利を収められることの方が少ないよ。人妖兵じんようへいという強大な戦力がいても、ねずみや白蟻の如く小さな存在の一噛みで、状況ががらりと変わることもある。勿論、自陣に何の影響もないことが最良だけれど、そうじゃなかったからと言って、良くなかったとは言えない」


 戦場は、被害を生み出す場である。完璧な無事などありえざる場所。直武だけでなく、戦場に身を投じる者にとって、当たり前すぎる事実だ。それが、どれほど許しがたいことだったとしても。


「それに、辻川君のことを話していなかったからね。彼の行いには良いことも悪いこともあるし、容易く語ってはいけないようなこともある。だから、なるべく君が安定した頃に話したかったのだけれど」

「大丈夫ですよ」


 いつもの笑顔を被って、志乃は再度、手を付いた。


「取り乱しはしましたが。過去にいかなる所業があったとしても、親方は親方です。どうか、お聞かせ願います」

「そうか。分かったよ」


 理解を示しながらも、志乃が大丈夫でないことなど丸分かりだった。けれど、どこがどう大丈夫でないのか、それが想定する箇所と同じとは限らない。仮に間違った場合、志乃が直武の意見に同調し、本音を隠す可能性もあった。……そうなった場合のため、事前に静の能力を頼り、視てもらったのだが。

 何であれ、辻川忠彦について話すのは必定であり、優先事項。言及は後回しにせざるを得ない。


「まず、教えておかないといけない子のことから話そうか。笹塚ささづか寿々乃すずのという女の子なのだけれど、辻川君の過去を語る上で欠かせない子でね。辻川君の相棒だった子なんだ」

「寿々乃さん、ですか。はて、どこかで聞いたような……」


 志乃は記憶をさらい出す。知識や教養はたまに忘れてしまうが、大好きな身内のことなら忘れはしない。その自信を裏打ちするように、一つの記憶、刻まれたかすかな声がよみがえった。


「思い出しました。珍しく親方が泥酔してしまわれた時、声を掛けたらその名前を仰っておりましたねぇ。親方が懇意にしている女性がいたのかと、その場にいた兄貴たちがざわめいていらっしゃいました」

「ああ……志乃君は、雰囲気が寿々乃君に似ているからかもしれないね。それに、あの子も妖雛ようすうだったから」


 直武もまた、面影を見出しているのだろう。どこか遠くを見る目で、妖雛の少女を見つめていた。


「辻川君と寿々乃君とは、二人が山賊を壊滅させたところに遭遇してね。私と兼昌かねまさ――兼久君の父親とで保護したんだ。数十年……三十年近く前の事かな。あの時の彼らは十にも満たなかったから」

「三十年も前の事なのですか。あ、そういえば。親方からほんの少し、当時の環境を教えていただいたことがあります」


 曰く――今よりもずっと、地獄だったと。

 とある極大の物の怪の動きが活発だった時期であり、物の怪の出現も多発。合わせて妖怪も、人間に危害を与える事例が後を絶たず、形ある災禍が跳梁跋扈ちょうりょうばっこする地獄だった。人間は住む場所を破壊され、賊徒や孤児と化すのが当たり前になっていた。


「そうだね。前の世代が残した束の間の平穏が、終わって久しい時代でもあった。そしてまた今日、束の間の平穏が訪れている」


 聞かされた言葉でしか、その地獄を知らない志乃。その地獄と今この時が地続きの直武。二人は決して埋まらないみぞを挟んで向き合っている。


「今よりも切迫していた時代だったからね。保護した後は実力を見込んで、色護衆に入ってもらうべく稽古をつけることになった。意見を聞いた上ではあったけれど、二人とも最初から戦う気でいたよ。自分たちには戦うことしかできない、相手を殺して勝ち取る以外に能が無いからと」


 殺人ならばとがめられても、討伐ならば功績と讃えられる。讃えられずとも、文句をつけてくるようなやからはいなくなる。戦うと決めた者にとって、色護衆は居場所となった。今もその側面はあるが、当時は尚更そうだった。


「そんな時代に、それぞれ守遣兵しゅけんへいと人妖兵になったあの子たちは、二人で組んで戦っていた。藍山あいざん府から連れ帰ったから、渡碓山とたいさんの所属ではあったのだけれど、どこにでも赴いていたよ。あの二人だけで一部隊として機能していたし、認められていたほどだ」

「……二人だけで、一部隊ですか?」


 思わず、志乃も訊き返さずにはいられなかった。いかに人妖兵という規格外と組んでいるとはいえ、さすがに一部隊として数えられるのは特例が過ぎる。


「人妖兵たる寿々乃君が強かったこともあるけれど、辻川君も肩を並べる実力者だったからね。彼は個人で妙術を扱える稀有な人間だった上に、素養も異常なほどだった。これで人間だということが、何かの冗談だとすら思えるほどに」

「旦那ですら、そう思われたのですか」


 まだ新しい記憶、喜千代の評が思い出される。「辻川忠彦の実力は、今の守遣兵と比べても桁違い」と。間もなく直武から頷きが返されたが、脳裏に思い出した評が、肯定されたように見えた。


「物の怪という災害を討伐するために積み重ねてきた血と、それに保証された力を持つ私たち中枢十三家に、旧武家や術師の家系ですらない人間が比肩する。それだけでも規格外だよ。あの天賦の才が受け継げるのなら、十四番目の家として、中枢に組み込まれていたかもしれない。まあ、彼はそういうことに興味が無かったし、命じられても一蹴して、出奔していただろうけれど」


 それに、と。直武の顔が悲哀に染まった。


「そんな話が出ても出なくても。彼が黄都こうとを出ていくきっかけになった出来事は、起きてしまったからね」


 容易くできなかった話が始まる。誰でも分かる、重たくなっていく空気に、志乃は佇まいを直した。

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