藍の明星
新たな来客として、靖成は志乃の元を訪れる。彼は入室を許された後、遠慮なく志乃の隣に腰掛けて口火を切った。
「手間をかけて申し訳なかった、志乃殿。暗殺に駆り出された者たちは、あの少女で最後だ」
「いえ」
志乃は短く言って、弱々しさが目立つ微笑を浮かべた。靖成は笑んでいなかったが、
「元々は、兼久殿らを妨害する役割で差し向けられていた連中だが、晴成のことを受けて、貴殿の暗殺、もしくは傷害に
「……先ほどの方は。暗殺者にしては、気配の消し方をご存じないようでしたが。
沈黙が降りようとしたから、というよりは最初から気になっていたのか、少し間を置いて志乃が問う。靖成はまず、黙って首肯した。
「首謀者が人買いから買ってきたと。使い捨て、返り討ちにされることを前提に選抜されたとのことだった。だが、同情した者もいたようでな。彼女自身は一度も命を奪ったことはないと聞くし、できる限りの対処するつもりでいる。貴殿からすると不快かもしれないが」
「まさか。俺は殺されて当然のことを、またやってしまった身です。むしろ、不快なのは靖成殿ではないのですか」
にこり、さらに空っぽの愛想笑いを咲かせて、志乃は小首を傾げる。
「晴成の左腕を斬り飛ばしたことについて、いかなる罰も受けるつもりでいます。罵倒も、負傷も、いくらでも。俺は頑丈ですから、長く痛めつけられますよ」
「その必要は無い」
流れるような言葉を、靖成は瞬きの微動すらなく断ち切る。廊下で出会った、名無しの少女に答えたのと同じように。
「貴殿の暴走は、心理状態の操作に長けた敵によって強制されたもの。加えて、貴殿の精神状態は未成熟で不安定だった。それを育て矯正する旅の途中であるならば、この件について必要以上に咎めることは不適切だ」
「……ですが」
「晴成は既に貴殿を
口を挟む隙を与えず、つらつらと説明を終えてしまった靖成に、志乃は何とも言えない顔で固まるしかなかった。しかし、頭は言葉を噛み砕いて飲み込み続けていた。
内面を察していながら、靖成は早々に口を開く。彼女が今、
「我々は、貴殿に罪を重いものとして受け止め、省み続ける精神があると判断した。赦すことで、貴殿がこのことを忘れずにい続けると予測した。自らが戒め続けるのであれば、他者が更に縛る必要は無い。それに、罰されたいという願いを叶えないことが、裁きとなることもある」
反論を
この焦燥が罰だ、と。言われたのなら理解はできる。けれど、喉に冷たい感触が、胸倉に掴まれた感覚が蘇ってくる。
「おかしい、です」
笑顔が引きつった。引きつったと、志乃が自覚できるほどに。
「おかしいです、それは。否定することでは、ないかもしれませんが。おかしいです」
「いや、貴殿にはこうするのが正しい。その反応で確証も得られた。『赦されたという罪悪感』がある限り、貴殿は
「確かだと、言い切れることではないでしょう、それは」
「ふむ。では、貴殿は
かろうじて残っていた笑みが凍り付き、砕け散る音がする。志乃には聞こえていた。彼女だけでなく、靖成にも。
今度こそ何も反論できず、志乃の視線が下がっていく。終始、冷静に繰り出されていた攻撃に気を取られ、足元を
「さて。時間稼ぎはこのくらいで良いか」
小さな靖成の呟きを、志乃が
「私が言ったところで、説得しきれないことは想定していたのでな。後は、脱走してきた晴成に引き継ぐ」
「……はへ?」
「そう! 脱走してきた
ガサァッ、と。庭の茂みから飛び出してくる影が一つ。靖成に注意していた志乃は、察知できずに肩を跳ねさせて振り返った。
「おお、本気で驚く志乃は初めて見たかもしれん。すまんな、驚かせて」
もちろん、視線の先にいたのは晴成。彼の格好もまた、志乃のように寝間着のままだった。おそらく、安静を言い渡されたのも同じだったのだろう。脱走してきた旨は事実らしい。
「晴成。大声を出すと見つかるぞ」
「おっと、そうでございました。芳親という尊い犠牲を無駄にするわけにはいきませぬ」
「まあ、おれがしばらく時間を稼いではやるが」
「さすが兄上。尻ぬぐいをさせてしまい申し訳ありませぬ」
志乃が唖然としている傍らで、藍色の兄弟は日常が染み出す会話をしながら、流れるように席を入れ替わる。衝撃で相手の動きが鈍った間に準備を整えるという、いかにも手慣れた鮮やかな手腕。志乃でなくとも反応するのは難しかった、かもしれない。
「というわけで、志乃。まずは無事でよかった。己もこの通り無事だ。まだ安静にしていろと言われた身だが、芳親の手伝いもあって脱走してきた。其方にしっかり言葉を届けるために」
退室した兄を見送り、新たに妖雛の隣へ腰かけた藍色の男は、皐月に相応しい明朗な笑みを浮かべて見せる。明るすぎて、志乃は
「……俺を赦してくださったと、聞きました」
「赦したな、確かに」
「何故ですか」
当然の問いとして、舌に乗っていた言葉を吐く。志乃が発するのは、その一言だけのはずだった。ところが、
「どうして、俺を赦すなどと、言えるのですか。俺は早々に裏切ったのですよ、今まで傷つけるばかりだった俺を、それでも信じてくれた方々を。傷つけた史継さんたちを。利毒さんは俺が
貴方は、それでも。
震える声の流れを止めないまま、頭を上げた先に、藍色の瞳があった。
「答える前に、問いたいことがある。其方は何を目的として歩いているのだ、志乃」
激流など物ともせず、晴成はただ、まっすぐに問いかけた。
「目的、なんて、それは……何のために、力を振るい。何を、人生の道標に、するか、で」
「だが、其方らにはまだ、解決できていない問題があるとも聞いた」
波をかき分け、乗り越える舟のように。
「……他者の、内面を、
「その問題を自覚したのは何故だ」
流れの源を目指していく。
「……史継さんを、傷つけて、しまって。それを、気にしないと、いけないと、思って」
「思って、どう向き合い、解決しようと考えた」
導かれるようにして、志乃はたどたどしく、言葉を
「……俺が、俺自身を、知って……どこが、悪いのか、どう直さないと、いけないのか、考えて」
手探りで暗闇を進んで行くような問答は、同じく辿り着いて「うむ」と頷く晴成の声と、合わせられた温かな掌に到着した。
「そこを見失っているぞ、志乃。其方はまだ、歩き出したばかり。少しずつ受け入れるようなことを、悪意ある乱暴なやり方で叩きつけられてしまったから、器が悲鳴を上げているのだ。まずは落ち着け。そら大きく息を吸ってー」
言われるままに、志乃は大真面目な顔で空気を吸い込み、「吐いてー」の声と一緒に吐き出す。何度か繰り返すうちに、激流を生んでいた何かが消えていく心地がした。
「大丈夫か? 己が来たら取り乱してしまわないか、と思ってはいたから、己のせいでもあるかもしれんが」
「大丈夫、です。ありがとうございます」
「ならば良し。では元の話題に戻るとしよう。其方を赦した理由だが、聞けるか?」
志乃が首肯すると、晴成も笑みを保ったまま、再び頷き返した。
「まあ、もう言ってしまったし、兄上から聞かされたかもしれないが。其方はまだ歩き出したばかりなのだ、志乃。今回の件は其方の故意ではなく、利毒の悪意。其方は責められるのでなく、考えるきっかけにしなければならない」
「……ですが、貴方の命を危険に晒しました」
「あれは己も悪かった。他にやり方はあったと思う。芳親にも迷惑をかけてしまったしな。だが、其方の真正面から退きたくなかったのだ、あの時は」
初めて晴成が視線を外し、目を閉じる。彼の
「助けなければ……助けたいと思ったのだ。苦しんでいる者を、見捨てることはできぬ。左腕に関しては、その代金といったところだろう。お前は己より強大な力の持ち主ゆえ、
ゆっくりと開かれた瞼の先で、藍色の星が柔らかく輝く。否、輝いているのは晴成そのもの。暗幕でのみ姿を現す星が、青空の元に現れている。
「己は、星永晴成はお前の友だ、花居志乃。故に、助けるのは自明の理。お前が暗闇に迷い、惑うことがあるならば、己が道を照らし出そう。道を外れそうになったなら、声を張り上げて呼び戻そう。お前の友、その一人として。そして、お前に
にっ、と笑ってみせる晴成に、志乃はきょとんと瞬いた。「惚れたのですか」と間の抜けた声で訊き返せば、「惚れたのだ」と竹を割るように繰り返される。
「……、……なにゆえ、ですか」
「なにゆえと言われても。お前の精神に、惚れるに値する美しさがあったから、だな」
「そう……なの、でしょうか……すみません、俺はその方面にとんと疎くて」
眉を八の字にされても、晴成の顔は曇らない。
「構わぬ。そう言うかもと芳親に聞いた」と、
「惚れたというのは、何も色恋だけに使われる言葉ではなかろう。お前の姿勢に尊敬を示す、その意味だけでも受け取ってくれればいい」
「俺はそんな、綺麗な思いを受け取れるような存在では」
「お前に贈りたいと思ったから贈る想いだ。捨てる意志や、不快に思う気持ちが無いのなら、受け取ってほしい。理解が及ばないのなら、頭の片隅に置いておくだけでいい。受け取ってもらえるのなら、己にとっては至上の喜びだ」
握り続けている手に力を込めて、明星のごとき青年は断言する。揺るぎない眼差しに、気付けば妖雛は答えていた、「分かりました」と。
「貴方からの想い、ありがたく頂戴いたします」
「礼を言うのはこちらの方だ、己の勝手を受け入れてくれて、ありがとう」
告げる声も、咲かせ続けていた笑みも穏やかにして。藍色の星は、眼前のただ一人に光を注ぐ。
「話が少し逸れてしまったが、お前を赦したのはこういう理由あってのことだ。そもそも、己だって『赦す』などと、上から言えるようなことはしていない。お前が往く道の途中で、灯火へ近づく一歩を手伝えたと、勝手ながら思っている。お前が己に抱く罪悪感が、いつかお前が見つける灯火の
彼方をも照らせそうな輝きは、ただ一人の妖雛へ注がれた光は、確かに届けられた。
困った色を残しながらも、志乃が遅咲きの笑みを浮かべる。やっと開いた待望の花は、「うん、笑ってくれ」と、朗らかに歓迎された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます