第八章 遠雷
罅割れ
言葉を成さない雑音が、ずっと耳に蓋をしている。ぐにゃりと曲がった、奇妙な色合いの世界を
自分は何をしていたのだったか。ぐるぐるして、思い出せない。だが、呼び声が杭のように打たれるたび、頭に熱と痛みが走って、胸がめちゃくちゃに混ざり合って、叫び出したくなる。苦しくてたまらないのに、抜け出そうと
「志乃」
名を呼ぶ声に、
「志乃」辻川忠彦の声で。
「志乃」双岩史継の声で。
「志乃」いつかの名も知らぬ遊女の声で。
「志乃」双岩史緒の声で。
耳元で
「楽しいですかぁ、志乃殿」
どこからか、利毒の嘲笑が聞こえてくる。
「楽しいでしょう、楽しいでしょう! 壊すのも、殺すのも、踏み
違う。――叫んだつもりだが、言葉になっていただろうか。
「何が違うの」「何も違わないわ」「笑ってただろう」「楽しかったんでしょう」「どうせそういう奴なんだ」「信じてたのに」「裏切ったね」「期待外れ」「ゆるさない」「逃げるな」「苦しめ」「罰を」「報いを受けろ」
「志乃」
■
「――ァァァアああああああアアッッ!!」
「動きが荒くなったな。加えて無茶苦茶、手当たり次第に破壊しまくっている」
離れた場所、まだ森の姿を保っていられる場所から、晴成と芳親は様子を窺っていた。二人が引き寄せ、麓まで誘導してきた志乃は、つい先ほどから暴走し始めている。
「……幻覚、とか、幻聴……が、原因、かも」
「同意見だ。あれでは
不敵に笑う晴成に、芳親も首肯した。
これから二人が達成しなければならないのは、志乃を正気に戻す下準備。即ち志乃を
志乃を麓へ下ろしきる前、今のように様子見をしていた際。
「……晴成。分かってる、と思う、けど」
「ああ。今の志乃と己には、単純な力の差がありすぎる。強大な攻撃は迷わず避け、なるべく速攻を心掛ける。其方の支援があろうとも、油断はしないさ」
いくら晴成が
「ああぁぁあああぁァァアアア!!」
咆哮と雷鳴、雷光が近くまで迫ってきている。藍色と牡丹色の目を見合わせたのち、二人は茂みから飛び出した。
焦げ臭さと煙が漂う中を駆け抜けて、志乃が
「こちらだ! 志乃!」
名を呼んだ途端、青白い目がぎゅるりと晴成を捉える。たった一蹴りで宙を飛び、声の主へ肉薄する。常人にその速さは視認すら難しいが、晴成と芳親は応えてみせる。
ギンッ、と甲高くも鈍重な
「志乃!」
晴成の消耗を避けるため、芳親もまた名を叫ぶ。ちょうど志乃の背後に移動していた芳親の声に、鬼はすぐさま反応した。
「おおおォぉォオッッ!!」
重い横薙ぎの一撃で晴成を跳ねのけ、勢いを使って方向転換すると、志乃は低い姿勢のまま地面を蹴った。刺突の構えで飛んでいく姿は、投擲された槍のごとし。芳親が展開した八重咲の、花群の盾に突っ込んでいく。
突き出された刃は砕散の音を奏で、花吹雪を生み出した。華麗な風景の中に、なおも一閃が
「もう、追いつけない、の! 志乃!」
挑発を交えた呼び声に、青雷の鬼女は止まらない。けれど、無尽蔵に湧いては後方へ流れていく花吹雪に
「そこ、でっ……止まれ!!」
まだ花の盾が残る先で、芳親が笑って腕を交差させる。途端、志乃を取り巻いていた花びらが、
半透明の花びらでできた蛇は、のたうって志乃を呑み込む。高い密度の花びらは、たちまち志乃の視界を埋め尽くし、研ぎ澄まされた五感を妨害した。
「ぁぁ、ぁぁァアアアア――」
「そうはさせんぞ」
大規模な雷撃で、周囲丸ごと吹き飛ばす。そんな思考など見え透いているとばかりに、忍び寄っていた男の声が
「ふんっ!」
ろくな態勢も取れていない志乃の
反撃の余地など許さないとばかりに、花びらの蛇は守るように晴成へ纏わりつき、彼と鬼を引き離す。吹き飛ばされた志乃は、受け身も取らず地面に叩きつけられて転がった。
蛇を解いて、芳親は晴成と合流する。二人とも、まだ油断していなかった。人間ならば生死が危ういような一撃を加えたが、妖雛にとってそれが決定打になるとは限らない。現に、まだ志乃は意識があるようで、何とか起き上がろうとしている。
「とどめ、任せて」
志乃から目を離さないまま、隣で晴成が頷いたのを気配だけで察し、芳親は腕を上げる。まずは動かないよう拘束を、そして。
「――ッ!!」
追撃を、と。思考の前に全身の毛が逆立ったのを感じ取り、芳親はほとんど感覚に任せ、晴成の胴に腕を回して飛び退った。
直後、轟音と
「なんという……」
あの雷撃は、志乃の身には有り余る。大きすぎる力の行使で傷ついた彼女は、しかしそれでも殺意を
このままでは死んでしまう。明白な危機に
「晴成ッ!」
青白の目が、藍色の彼を狙い定めている。逃げてと声が届く前に、切っ先が届きそうなほど近づいている。晴成では避けられない、牡丹の障壁も貫かれてしまう、どちらも傷ついてしまう。何とかできるのは自分しかいない。守る力があっても間に合わない。間に合わない、間に合わない何もかも!
焦燥で焼き切れそうな芳親は、しかし。次の瞬間には冷水を浴び掛けられていた。こちらを一瞥し、微笑んだ晴成に。
嫌な予感を頭が理解する前に、藍色の彼は踏み出し、左腕を突き出すように持ち上げていた。
■
雑音が、酷くなる一方だった。
責め立てる声が、四方八方から絶えず聞こえ続けている。もう嫌だ、苦しい、逃げたい、黙れ、黙れ、黙れ黙れやめろやめろやめろ――。
やめないのなら、斬り捨ててやる。
斬って斬って斬って斬って斬って、どうしてやめてくれない。斬り捨てたい、斬りたくない、俺はそんなことを望まない。望まなくても、斬らなければならない。どうして? 自分のために。そんな浅ましい理由で誰かを。
……ああ。
もう限界だった。もう何も考えられなかった。ただ、藍色の星が見えていた。ただ、美しい牡丹が咲いていた。それを、見ているだけしか。
……、あ、れ?
星が、近づいてくる。違う、自分が星に近付いている。どうして。斬るために。嘘だろう。そんな。だって、あの星は、あの藍色は、間違えようもなく。
「志乃」
答え合わせの呼び声が聞こえる。何かを斬った手ごたえがした。
あれだけ晴れてほしかった視界に、晴れるなと願った。無駄だった。見知った藍色の若武者が現れる。こちらに伸ばされていたらしい腕が、手を無くしている。
そこには、嘘など何もない。そこには、真実しかない。
俺が、誰かを傷つけるだけの化け物だという、真実しか。
結局、向けられた信頼など無駄にしてしまう、本性しか。
■
斬り飛ばされた晴成の左腕が、血を撒き散らして宙に舞う。元の持ち主は視線で追うこともせず、見開かれた鬼の双眸を見ていた。
人ではない青白の中に、一瞬の正気と絶望が見えて。けれど晴成は止まらない。痛覚が体を麻痺させる前に、刀を捨てていた右手で
「――芳親ァァァッ!!」
咆哮に、牡丹が咲いた。
鞘と、鬼の体の間に咲いた牡丹は、開花と共に破裂して、鬼の意識を奪う。一撃を放った後の、隙が生まれた体を吹き飛ばす。またも地面に叩きつけられた鬼は、今度こそ気絶していた。
終わったのだ、と。ささやかな安堵が、晴成の緊張を緩めていく。だが、芳親には
二人の役目は達成された。晴成の左腕を代償に。下手をしたら、彼の命が代償になっていたかもしれなかったと。想像しただけで、芳親は酷い寒気に襲われる。
「……ふうぅ……終わった、な。芳親」
血の気が失せた顔に笑みを浮かべて、晴成はその場に崩れ落ちる。駆け寄った芳親も、つられるように崩れ落ちながら、震える手で止血をした。何も考えてなどいなかった、ただ手が動いていた。
「すまない。一歩、間違えば。死ぬような、真似をした」
「ちが、う」
僕が、何もできなかったから。
出そうとした声は、
「僕、が」
ろくに回らない頭と口で、芳親が何を言おうとしているのか。幼さを増した表情から、晴成は何となく察していた。けれど、「責めるな」という単純な言葉さえ、自分もまた
せめて欠片でも伝われと、晴成は芳親の肩に頭を預けた。――
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