麗部の術、産形の術
というのも。
「……不甲斐ないばかりです」
現在、貸し出された部屋に
床には畳が敷き詰められ、床の間には花と掛け軸が飾られた広い部屋は、この値が張る宿の中で一番高いという。志乃からすると入室が
宿の滞在費は晴成の兄が持ってくれたようだが、
「まさか、馬に乗るということが、こんなにも困難だったとは……皆さん、よくお一人で乗れますね」
尊敬の眼差しに、知らせに走って不在の宏実以外が、
乗馬の負荷に何とか耐えていた志乃の
「気に病むことは無いよ。兼久君もそうなる可能性はあるものとして考えていたから、こうして予定を変更できたわけだし」
机の傍から、直武が微笑と共に返す。志乃は四人が向き合って座っているのを、横から眺められる位置に臥せっていた。
妖雛は体の丈夫さ故、人間よりずっと強行には耐性がある。しかし、不慣れなことや相性が悪いことに対しては、もちろん弱い時もある。兼久は志乃が動けなくなってしまった場合も考え、いつでも佐和黒に部下を派遣できるよう態勢を整えていた。
「それに、茉白君が来るって言っていたからね」
「そう。茉白が来る」
半ば直武に被せて、かなり食い気味に芳親が言う。分かりやすいくらいにうずうず、うきうきと体を揺らし、にこにこと嬉しそうに笑み、牡丹色の目をきらきら輝かせている。祭りの始まりを心待ちにする子どものような素振りは、どう見ても上機嫌なものだ。
「芳親殿。分かっているとは思いますが、茉白殿は仕事のために出向いて来られます。邪魔をしてはいけませんよ」
「うん。会えるだけで、充分」
素直に即答したかと思うと、芳親は無邪気に、この世で一番幸せなのだと言わんばかりに笑った。周囲の呆然や苦笑を誘うほど
「そうだ、この先、もうみんなで集まって、長く時間を取れるのは今だけかもしれないから、私や紀定が扱う術について、志乃君に説明しておこうか」
「そういえば、聞いておりませんでした」
紀定の術については、
「音に聞く四大武家の妙術でございますか。渡辺の破邪、
「まあ、地味だからねぇ、うちに伝わる妙術は。もちろん、四大武家の名に恥じない術ではあるけれど、最後尾から支援する術だし」
直武に対しても、晴成は幾分か
「麗部家に伝わる妙術〈深影〉というのは、ある一定の空間に、下準備の術を張り巡らすものなんだ――と言っても分かりづらいだろうから、実践してみせよう」
傍らに横たわらせていた杖を手に取ったが、直武は立ち上がらずに続ける。
「術式を可視化するのは、志乃君が回復した時にまたやろうか。寝たままじゃ見られないものね」
とす、と
「いたた……旦那、何をなさったので? 穴でも開けたのですか」
「影に術を巡らせて、一種の空間にしたんだ。穴を開けたというよりは、影を海のような空間と
言いながら、直武は影の中に腕を突っ込み、杖を引きずり出す。何も無かったかのように戻って来た杖に、志乃と、無言ながら目を見開いていた晴成の視線が
「影ある場所に術を張り巡らせ、好きな時に起動させて効果を得る。これが麗部の術だ。罠を発動させたり、影に入った相手の武器や術を奪って無力化させたり――ああ、無力化は夜蝶街でも使っているよ。志乃君と芳親を気絶させるために。広範囲だったし、何より二人の呪力は強いから、久々に
直武は楽しい記憶を懐古するように言うが、迷惑をかけた側である妖雛二人は気まずい顔をする。直武に掛かったのは身体的な負担だけではないと、二人とももう、よく知っていた。
「
子に語り掛けるように言った直武に、紀定が
「
説明する直武の傍ら、触れるか触れないかのところで、先ほどの杖のように、紀定の姿が突如として下へ消えた。と思えば、直武が指さした床の間、飾られた花瓶の影から紀定が抜け出てくる。
あっさりと為された不可思議は、呼び水となった。志乃が芳親と共に、史緒の回収と大蜘蛛を始末してから戻った宝山で、何も無い場所から紀定が姿を現したように見えた記憶の。あのとき不思議に思っていたことも重なって、驚きは濃さを増した。
「入る時は一定の大きさがないと入れませんが、基本的に、出る時はどんな大きさの影でも抜け出て来られます。あまりに小さすぎれば、さすがに出られませんが」
「とまあ、こんなところかな。すごく簡単な説明しかしていないけれど、今の志乃君に、色々体感してもらうのは難しいからね」
「あうぅ……すみません」
「謝ることじゃないよ、そんな顔をしないで。……君はどうだったかな、晴成君。麗部の妙術、面白かったかい?」
「無論、大変興味深い術でございました。もう少し詳しくお聞きしたいところにござるが」
ちら、と晴成が
「
「ああ、そうだったね。志乃君、茉白君と二人きりにしても大丈夫かい?」
「大丈夫です。
茉白が過剰な褒めに慣れていないことは承知している。その他、いつも対面の際に気を付けていることを徹底すれば、問題はないだろう――紀定からの注意をしっかり覚えていたこともあり、志乃は自信満々で答えた。
「では、私たちはもう別の部屋にいた方が良いかな。机だけ壁側に避けて」
「そうしていただければ助かる、とのことでした」
「よし。芳親、紀定、運ぼう」
聞くや否や、晴成が二人に指示をして机を
「……そうだ、志乃」
「んぇ? はい」
さっさと部屋を出ようとしていた芳親が、急に
「……茉白と、志乃……仲良くなれる、と思う。……そうなって、くれると、嬉しい」
ずっと嬉しそうな顔が、更に喜色を深めた。想像だけでそこまで喜ぶのなら、実際に志乃と茉白が仲良くなった時、どうなるのか不安にすらなってくる。が、志乃は不穏な気配を感じることすらなく、純粋な思いを純粋なまま、真正面から受け取った。
「ええ、俺も仲良くなれればと思います。善処いたしますので、どうぞお楽しみに」
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