明鏡
昼食を終えると、一行は案内役二人が泊まっていた宿に向かい、五頭の馬を連れて検問を抜けた。そのまま次の宿場町へ直行……とはいかず、近くの野原で馬に
その道中、一度目の休憩を、丸石で埋まった川原にて取ることとなった。
「さて。我が愛馬の乗り心地を聞かせてもらおうかな、志乃?」
じゅるじゅると川の水を飲む相棒の黒鹿毛、
しかし、そんな声で問われたのにもかかわらず、志乃は中谷から説教を受けた後と似た顔で、彼の隣に座り込んでいる。一応、笑みは浮かんでいるものの、引きつっているそれに生気はない。
「……。……とても……揺れました」
「ははは! だろうなぁ。いくら妖雛とて、不慣れであれば
時間の流れもゆったりと感じられる空気を、晴成の笑い声が高らかに、気持ちよく突き抜けていった。
旅路から逸れた森の中、快いせせらぎが響く川辺で、一行は上下に分かれて休んでいる。志乃と晴成、そして少し席を外している芳親は川下で。直武と紀定、
「申し訳ありません……俺が馬に慣れていれば、手間取らずに済んだかと」
「それは仕方なきこと故、気にするな。むしろ、警戒される見積もりを誤っていたこちらに非がある。まさか、本当にどの対応も効かず、志乃に対して平然としているのが弦月だけとは、思いもしなかったからなぁ」
自分の名前に反応して、額に
獣は妖雛を警戒する。馬のように
「まあ、弦月は大丈夫だろうと自信はあったが。こいつは冷静沈着というより
「そうでしょうか」
「そうとも。なあ、相棒」
ちら、と弦月は一瞥だけで答えたが、確かに警戒するような雰囲気は感じられない。それでも志乃は緊張感を拭えないでいた。
妖雛だから近寄れない以前に、志乃は動物が苦手だった。妖獣相手なら遠慮なく接せられるが、普通の動物は言葉を交わせない。不快にさせたらどうすればいいか分からないし、触れるにも加減が分からない。失態をしでかした際、バレているのかいないのか、怒っているのかいないのか不明で恐ろしい、中谷を前にした時の気分になってしまう。
「ん? どうした、志乃。顔が引きつっているようだが」
「いえ、何でも、ありません」
「お。芳親が戻って来るようだな」
「志乃の警戒されようには驚いたが、芳親の
「芳親さんは動物に好かれるようですからねぇ、何故か」
やがて、豪快に川遊びをしていた一人と一頭が岸へ戻って来た。芳親が降りると、黒鹿毛は甘えるように鼻を
「本当に懐かれているな、芳親」
「……うん。……もう、志乃、にも……気、許してる、と思うし……志乃、撫でて、みない?」
一旦、黒鹿毛の顔をやんわりと押しのけて手招いてくる芳親に、志乃はぶんぶんと首を横に振った。馬を
芳親から「黒」と何の
「では、その……黒さん、失礼します」
恐る恐る伸ばされた手が、黒の首に触れる。志乃がそっと撫でてみても、黒は大人しくされるがまま、目を細めてすらいた。
「……僕と、晴成が……志乃と、仲良くしてる、から……悪い奴じゃない、って、分かってくれてる……と思う。……それにしても」
黒の落ち着きぶりが予想通りだったからか、芳親は微笑を浮かべていた。ところが、不意にそれを消したかと思うと、じ、と志乃を凝視する。
「……志乃、何だか……ちょっと、臆病になった……ね」
「臆病、ですか」
撫でていた手を下ろすのにつられて、志乃は頭を少し
「そうかもしれませんねぇ。馬に対しては、近寄ったことも無かったからというのもありますが……接することに対して、少し
「沢綿島でのことというと、
問いかけに是と答えかけ、しかし志乃は閉口した。
誰かと接する時、躊躇がちらつくようになったのは、鼬のことより
相手の傷心を理解せず、さらに傷つけた。「沢綿島でのこと」とはこれだが、詳細を晴成に話すか、迷った。
以前の志乃なら、何も気にせず笑って話しただろうし、結果として、
けれど、既に彼女は知ったし、気が付くようになっていた。それでは寒い方へ、寂しい方へ行くばかりなのだと。
「……。晴成さんからすると、不快なお話をすることになるかと思うのですが。聞いて下さいますか?」
「無論。問うたのはこちらだからな。それに、其方にとって重要なことなのだろう。であれば、聞かない方が無礼というものだ」
晴成も立ち上がり、凛然とした姿勢で志乃と向き合った。
威圧感はあまりない晴成だが、正面に立たれると、嘘偽りを口にするのが
「沢綿島で、俺はとある方のお身内が重傷を負ったことに対し、不謹慎な態度を取ってしまい、その方の心を傷つけてしまいました。そして、それを察することができず、さらに傷つけてしまいました」
「以前にも、他の方の心を傷つけたことはあったのですが、気にしたことはありませんでした。俺には、心の傷など見えていませんでしたし、何かを傷つけた結果、畏怖や嫌悪の目を向けられるのは、当然のことだと思っていましたので」
ぴく、と。
「この一件以降、俺は、他者の内情を読み取れずに傷つけてしまうことを、おそらく気にするようになれたかと。だから、以前より臆病になったのかもしれません」
話し終えると同時に、志乃の視線が下がる。微動を終了の合図と受け取って、「なるほどな」と晴成は呟いた。
「つまり、自分の行為で相手が傷つくかもしれないと考えるようになったから、接し方に気を付けるようになったと。それを芳親の感覚で言うのなら、『臆病』なのだな」
「……晴成、は……どう思う、の?」
藍色の目は偽を許さなかったが、牡丹色の目は黙秘を許さない。志乃の後ろから視線と共に投げられた問いに、晴成は「ううむ」と
「
「……僕が、悪者、みたいに……言わないで、ほしい……」
「ははは、すまぬ。そう聞こえてしまったか」
じと、と晴成を睨んだ芳親だったが、晴成の笑顔が明快だったからか、そもそも気にしていなかったか、機嫌を悪くする素振りはなかった。
「……形が、どうあれ……志乃が、変わろうと、してる。……それは、良い、こと」
「うん? 志乃は何か、改めようとしているのか」
「ええ、はい。そのために
こくこく、と芳親が頷くと、黒も真似をするかのように首を振るった。何故か弦月も真似して、ぶんぶんと首を振るっていた。
「先の話から考えると、他者の内情を
「それも変えなければならない点の一つだと、沢綿島でのことで分かりました。最大の目的は、何のために力を振るうのかを考え、何を人生の道標にするのか探し当てることですが……それ以外にも、俺たちには問題がありますし、それについても知らなければなりません」
「うん。……志乃も、僕も……やっと、気にする、ところまで……来たばっかり、だけど」
知ることから始めなければならないと、直武は二人に言っていた。異常を気にかけてはいても、実情を知らず、知ることもしなかった妖雛二人は、今やっと、道の始まりから一歩踏み出したあたりにいる。
「ふむ、まずは自らを知り、
「? 晴成さんには、あまり必要が無さそうですが」
揃って不思議そうな顔をする妖雛たちに、「そんなことはない」と晴成は胸を張る。
「我が身を知り、省みることは基礎。基礎を
「はい。何でしょうか」
ついでに頼もうとしていたことを思い出した、というような晴成の表情は、しかしどこか深刻なものへ早変わりした。
「先の話で、其方は己が不快になるかもしれぬと前置きしていたな」
「あー。やはり、気分を害されましたか」
「うん、少し不快になった。畏怖や嫌悪の目を向けられることを当然と思う姿勢がな」
「……はへ?」
目を瞬かせたのち、志乃は間抜けな声を出す。思ってもみなかったと言わんばかりの表情に、晴成は眉を
「畏怖や嫌悪を向けられることを、当然と思ってはならぬ。それは我が身を低く見るということ、自らの基礎を見誤ることに繋がる。卑屈になるでも
強すぎず、けれど痕跡は残すような声と言葉で作られた
晴成の言葉に、自分が何を思ったかまでは分からない。だが、空虚が広がる胸の奥で、何かが揺さぶられたような気がして。そんな感覚は初めてで、志乃はただ
「それに、まだ顔を合わせて数刻ほどしか経っていないが、己は其方らを気に入っている。其方らにはどこか、うつろで、底の見えぬ陰のようなところがあるが……何か心に置いているものを話すときなどは、目に光を宿す。その光を見ると、其方らと己たちは同じ場所に立ち、笑い合えると分かるのだ」
い、と口で弧を描き、晴成は無邪気に笑った。からりと晴れ渡った空を思わせる、清々しい笑顔だった。
「故にこそ。
「友、人」
唖然としっぱなしだった志乃は、やっと声を出した。出したというより、ひとりでに
「そう、友人だ。嫌だったか?」
「いえ、その……友人ができるのは、何だか、初めてのような気がして」
「待って。僕とは友人じゃないの」
呆けた調子の志乃に、芳親が鋭く問いかける。非難するような牡丹色の目を、何故か志乃は直視できず、思いっきり目を泳がせた。
「もちろん、芳親さんも友人です。ですが……芳親さんは友人というよりも……ええと」
中谷や山内のような、同僚であり身内といった感じに近いと言うはずが、言い
目に見えて焦り始めた志乃に、芳親は顔を見る見る不満げに
「……そう。……友だち、だと……仲、良いって、思ってた、の……僕だけ、だったんだ……」
「いえ、断じてそういうわけではなく」
「何だ、裏切りか? 人を
「違います! えぇと、その……弁明! 弁明の余地をください!」
にやにや笑う晴成と、黙って黒の手綱を引いて離れていく芳親。双方に慌ただしく顔を向けつつ、志乃は芳親を呼び止める。
「芳親さん、お待ちください芳親さん、黒さんに乗らないで」
「さよなら」
「さよならではなく!」
悲痛な訴えもむなしく、芳親は黒を駆り、見る間に遠ざかってしまった。志乃が芳親を呼び叫ぶ声と、高らかな晴成の笑い声がこだまし、空に消えていく。
「よし、追うか。先に乗れ、志乃」
「うう……申し訳ありません……」
晴成へ向けた言葉に、ぶるる、と弦月が反応する。「何やってんだお前」と言っているかのような彼の素振りに、思わず志乃は「ご迷惑をおかけします」と頭を下げていた。
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