曇る思い

 十一年以上前の空白に、鮮やかな色をした記憶の波が流れ込んでいく。余白さえ無くなったところで志乃は目を開けたが、しばらく呆然と天井を眺めていた。


 ――雷雅という鬼。夜蝶街に来る前、自分を育ててくれた妖怪ひと


 すとん、と。事実がどこかにはまるのと並行して、気を失う前の記憶も戻って来る。〈解放の儀〉を行い、呪力の竜巻に耐え、直後に楽器の音を聴いて倒れたという記憶が。


「……生きている、ということは。成功したと見て良さそうですねぇ」


 呟いて上体を起こす。解かれていた髪が流れ落ちてくるが、彼女の目は、自身の腕へと向いていた。身にまとう衣服が、旅装束ではなくなっているのだ。

 上着は金糸の刺繍が施された、黒と白の片身替わりに変わっている。ひじまでだった手甲は長くなったらしく、肩まで覆われている感触があった。布団をめくれば、すそに向かって徐々に明るくなるなまり色の袴と、黒い足袋たびに包まれた下半身が現れる。雷雅の衣服とほとんど同じ色彩だ。


「……もしや」


 視点は下へ落としたまま、志乃はひたいに指を這わせる。まもなく何か固い異物に触れたが、撫でる手を止めず、それの形を確かめた。


「つ……の」


 異物の名前が、小さな声でこぼれ落ちる。――角。紛れもない異形の証。

 幼い頃に見た旅芸人が付けていた般若はんにゃの面や、夜蝶街で見た角を有する妖怪たちの姿が浮かんだ。まさにそれらのごとく、彼女の額からは二本の角が伸びている。

 さすがの志乃も、容易く呑み込むことは出来ない変化だった。派手になった服装も含め、一度鏡にでも映して確かめなければならない。

 そうと決めれば、と。志乃は立ち上がるなり布団を畳み、改めて部屋を見回した。

 ほとんど家具の無い六畳間は、空き部屋であるらしいことが窺える。縁側の障子戸は開け放たれており、妖桜あやかしざくらを眺められたが、志乃の視線は目当てのものへと向けられた。

 彼女の意図などお見通しと言わんばかりに、布が掛けられた姿見が控えている。歩み寄り、素早く布を取り払ってしまうと、一人の鬼の姿が現れた。


「……おぉー」


 気の抜けた声と共に、青白い瞳が丸くなる。

 目で確かめた通り、着物は黒と白の片身替わりで、鉛色の袴は裾に向かうにつれて薄くなっている。色鮮やかでないながらも派手なそれに、金糸の刺繍が華を足していた。額には触って確かめた通り、二本の角が生えている。


「本当に角が生えています……」


 まじまじと見ながら、また触れて角を確かめていた志乃だが、ふと、下ろされたままの髪に触れた。そういえば、髪紐はどこにあるのだろう。布団が敷かれていた場所を振り返ってみるが、見当たらない。

 きょろきょろ探していると、さっきは目を逸らした場所、姿見がある壁の真反対に、青白い瞳が吸い寄せられた。

 あったのは、衣桁いこうに掛けられた紺色の羽織。満月と棚引く雲が描かれ、裾には白くもやがかかっている。一度見て関心を引かれなかったのが不思議なほど、見事な一品だった。

 近くに寄ると、細やかにほどこされた意匠まで見て取れた。月には金糸が控えめにきらめき、裾の白い部分には、銀糸でかたどられた小さく華奢きゃしゃな花が咲き乱れている。同じく銀糸で、所々に蝶も描かれていた。


「ひぇ……」


 掛けられただろう膨大な手間暇を想像して、思わず志乃はか細い声を漏らす。高価な着物を汚しかけた前科がある彼女にとって、こういう類の品は絶対に触れてはならないものだったので。


「……志乃」

「へぁっ、はい!」


 ただ呼ばれただけなのに、何かをとがめられたかのように背筋を伸ばす。が、もちろん挙動を見ていない声の主は、「あー、起きてる、ね」といつもの調子で言って、障子戸を開けた。


「……おはよう。……どっか、悪いところ、とか……ない?」

「お、おはようございます、芳親さん。不調は特にないです」


 声音にぎこちなさが出ている志乃に、芳親は首を傾げる。しかし、無言で志乃が羽織を指さすと、合点がいったとばかりに一つ頷いた。


「……それ、志乃の」

「まさかそんなぁ、ご冗談を」

「……〈解放の儀〉、終わった時……志乃、それ、着てた、よ」

「やめてください信じたくないですそんなこと」


 逃げることを許してくれなかった牡丹色の瞳に、志乃は早口で抗議する。既に彼女の脳裏には、閻魔えんまの格好をした中谷の姿がちらつき、説教のために控えていた。想像の中とは言え、怒らせたら一巻の終わり。何としてでも回避しなければならない。


「い……いくらこれが俺の所持品であったとしても! こんな高価な物は着られません! というか芳親さんは、俺がこれを汚すことも破ることもなく着ていられると思いますか!?」

「思わない」


 ばっさりとした即答に、「でしょう!」と食いつく。けれど。


「……でも、それは……志乃の、羽織」


 やはり逃げ道を塞がれてしまった。志乃は情けないうめきを上げてくずおれる。


「無理です。こんな羽織着られません。高価な着物を傷つけたなんて知られたら、中谷の兄貴に怒られます」

「? ……妖怪の、姿の、時……着物は、破れても、すぐ、戻る、よ?」

「……、え?」


 呆けた、ついでにどこか救いを目にしたかのような顔で見上げてくる志乃に、再び芳親は首を傾げた。


「……理由、は、分かんない、けど……何か、直ってる」

「本当ですか、それ」

「うん。……僕も、何回も、破ったり、汚したり、した、けど……全く、そんな、面影……無い、でしょ?」


 袖を揺らして笑う芳親に、志乃は大きく息を吐いた。同時に、中谷閻魔もため息をついて消えていく。


「……志乃、中谷って、人のこと……好き、なんだね」

「んにぇ? ええ、はい。夜蝶街で世話になった方の中でも、山内の兄貴と中谷の兄貴にはたくさん世話を焼いていただきましたし、大好きですけれど……それが何か?」


 脳裏に中谷がいたことを見透かされたような指摘に、ぎくりとはせず、志乃は首を傾げる。人間として振る舞う第一の参考としていた、兄貴分や親方という存在が、脳裏に居座っていることなど当然だった。


「怒られ、たくない、みたい……だったから……。僕も……好きな、人から、怒られる……のは、嫌、だし」

麗部うらべの旦那や、紀定さんですか?」

「そう。あと茉白ましろ

「ああ、芳親さんのお嫁さんですよね」


 にこにこしながら平然と答えた志乃に、芳親は目を輝かせ、何度も頷きを返した。が、上下にこくこく動いていた首は、横へと傾けられる。


「……そういえば、志乃……髪、まとめない、の?」

「まとめたいのですが、髪紐が見当たらないのです」

「……あー、じゃあ、無いのか。……僕と、団史郎で、庭、探してみた、けど……無かった、から……」

「おや。それでは、新しいものを探さないとならなさそうですねぇ」


 立ち上がり、前に垂れてきた髪を払って、志乃は人間の時と何ら変わらない笑みを浮かべた。


「ところで、俺からも訊きたかったのですが」

「うん」

「芳親さんは驚かないんですね、これ」

「……別に」


 志乃が指をさして初めて、彼女の額に生えた角を認識したかのような雰囲気で答える芳親。次いで何故か、自分の口を指さす。


「……牙は、あった、から……そうかなぁ、って」

「そういえばそうでしたねぇ。俺自身のことなのに、すっかり忘れておりましたぁ」


 あははは、と志乃は空虚な笑い声を上げ、はたと我に返った。あの雷雅という鬼と自分は、笑い方がよく似ている。参考にしたのだから、似ているのは何らおかしくない。おかしくない、のだが。

 ――自分がいるべきは、あちら側なのでは?


「……、……志乃?」

「あ、すみません。えーっと」


 浮かんだ思考に、反応が鈍る。覗き込んでくる牡丹の瞳に、崩れかけた笑みが映り込んでいる。記憶が戻ったことから説明すべきか。志乃が口を開きかけた時、


 ――さり、さり、さり。


 玉がこすれているかのような音が、耳のすぐ傍ではっきりと聞こえた。

 弾かれたように、志乃は庭の方を振り返る。妖桜の仄かな光が照らすそこに、人影が一つ現れていた。


「……気付かなかった」


 瞠目した志乃の後ろで、芳親も人影を見つめる。睨むとまでは行かないながらも、視線には警戒の色が混ざっていた。

 人影はすたすたと縁側へと歩み寄って来ると、間近で足を止める。部屋の照明に照らし出された正体は、身軽な格好をした男性だった。少々長めの薄い金髪を後ろで束ねており、両手で箱を持っている。


「――お初にお目にかかります、志乃様」


 髪と同じ色の目が志乃に向けられ、無機質な声で挨拶が述べられる。


それがしは、貴女様を見守る命を受けた者にございます。いつもは産形紀定のように陰から見守っていますが、本日はお祝いの品をお届けするべく、御前に参上いたしました。この度は、〈解放の儀〉からのご生還、おめでとうございます」

「あ……りがとう、ございます?」


 能面のように表情を動かさず、書付を読み上げているかのように述べる様は、そういう仕組みの絡繰からくり人形のように見える。独特かつ異様なその雰囲気に、志乃は気圧されてしまっていたが、青年は気にも留めず縁側へ箱を置いた。


「主より、髪紐と佩飾はいしょくの贈り物です。中身を確認していただけますか」

「えっ」


 ちらと目だけで芳親を振り返ると、目線で行くように促される。頷き返し、そろそろと縁側へ歩いていく志乃に、芳親も続いた。

 少し大きめの箱はきりで出来ており、再び志乃に嫌な予感をもたらした。また高価な物かと警戒しつつ開けてみると、青年が言った通り、髪紐と佩飾が現れる。案の定、二つとも高価そうな代物だ。

 瑠璃るり色の髪紐は一見普通に見えるが、どうやら絹らしい。こちらにも金糸と銀糸で刺繍が施されている。同じ色の佩飾は言わずもがなの一級品だった。何せ、瑠璃そのものが使われていたので。


「……あの。これは本当に、俺への贈り物なのですか?」

「はい。お気に召さなければ回収し、もっと良いものをご用意すると主が」

「十分ですありがたく頂戴します」


 これですら扱うごとに中谷の説教がちらつきそうなのに、「もっと良いもの」など受け取れるはずがない。志乃は素早く蓋を閉じ、箱をがばっと抱え込んだ。


「……で。どこの、誰?」


 未だ名乗らない青年に、芳親が直球で疑問を投げつける。不躾ぶしつけな問い方だったが、青年は能面のような表情を微塵も動かさない。


「某はただの使者でございます、境田芳親。名乗るほどの者ではございません」

「……じゃあ、誰の、使者? ……それが、分かんないと……師匠に、これ、誰から貰ったのか、報告、できない」

「貴殿にはお答えできません」


 きっぱりと、しかし淡々と言い切る青年に、芳親は渋い顔をした。ところがすぐ、「うん?」と何かに気付いたかのように瞬く。


「……僕には、答えられない、けど……志乃に、なら、答える?」

「はい。志乃様も某の主ですので」

「俺は誰かに主と呼ばれるような者ではありませんが」


 不審一色の顔で言ったものの、「いいえ、志乃様も某の主です」と即答されてしまった。志乃は困りきった目線を芳親に向けるが、「早く訊いて」と言わんばかりの雰囲気で返され、諦めた。


「では、質問させていただきます。貴方のお名前と、貴方が仕えている方のお名前は?」

「某の名を認識していただく必要はありません。後者にはお答えしますので、どうかご容赦を。某の主は、鬼の雷雅様でございます」


 あっさりと答えた彼と答えの内容。両方に志乃は目を見開く。箱を抱える腕に変な力が入り、強張っていた。


「雷雅さんというのは、俺を育ててくださった方、ですか」

「左様でございます。雷雅様の血を飲み、育てられた貴女様は、雷雅様のご息女とも言うべきお方。雷雅様に作られた某からすれば、貴女様もまた、仕えるべきお方なのです」

「……血を飲んだ、というのは?」


 流れてくるままに聞いていた志乃だったが、不穏な言葉に眉をひそめる。嫌悪や不快感があるわけではないが、穏やかではない。


「志乃様は生まれて間もない頃、実母の乳すら飲んでいないような状態で、雷雅様に引き取られたと聞き及んでおります。そのため、血を飲ませることで食事を不要にしたと」

「あり得ないと思います、そんなこと。幼い時、空腹で倒れたことがありますから」

「それは人間の体に戻っていたからです。妖の体を取り戻した今の貴女様であれば、少ない食事で長く動き続けることができます。……他に、ご質問はありますか」


 ほんのわずかに、青年は首を傾げる。その微動と、時折ゆっくり瞬く目が、彼が人形ではないことを思い出せてきた。

 返される言葉が無いと分かると、「では」と薄金の目が志乃を見据える。


「志乃様。雷雅様に伝言などはございますか」

「え」


 予想外の問いに、志乃は思わず素っ頓狂な声を出していた。つい先ほど思い出したばかりの相手に言うことなんて、何も思いつくはずがない。そのはずだったのに。


「――お会いしたいです、と」


 口は、言葉をするりと零した。我に返って否定する間もなく、「かしこまりました」と受諾されてしまう。


「では、これにて失礼させていただきます」


 お辞儀をした後、青年の姿は風景の中に溶け、跡形もなく消えてしまった。白昼夢でも見たかのように呆然としていた志乃だが、芳親に呼ばれてやっと反応を見せる。


「……とりあえず……髪、結って、師匠の、とこ、行こう」

「はい。分かり、ました」


 芳親の独特な口調が移ったかのように、志乃の答え方はぎこちない。けれど、芳親のようにすぐさま切り替えることは、できなかった。


「あの、芳親さん。少し……本当に少しで結構ですので、一人にしていただけますでしょうか」


 こくん、と頷きだけ返し、芳親は何も問いかけず、すぐさま部屋を出る。外で待機してくれている彼に聞こえないよう、志乃は小さく息をついた。


 ――何故、会いたいなどと言ったのだろう。


 記憶が戻ったからなのか、戻る前にそう思っていたからなのか。けれど今、雷雅に会いたいのかと問われれば、「いいえ」と答えるほかにない。会ったところで、何をすればいいのかなど分からないのだから。


 ……本当に?


 本当は、分かっているのではないのか? だって、あの鬼は、自分と同じなのだから。自分と同じ空虚を持っていて、その上に人真似の仮面を被っている。

 夜蝶街の人々より、あの鬼の方が身近で。きらめく命の集う場所より、あの箱庭の方がしっくりくる。

 分かっているかは、明らかではない。けれど薄々、察してはいた。どんなに真似をしてみたところで、夜蝶街の人々とは同じになれない。自分が他所者よそものであることは、変わらないのだから。


 ぐっとかき上げた髪の束を、上等な髪紐で縛り付ける。ひんやりとした空気が、やけにはっきりとうなじに染み込んでくるのを振り払って、志乃は部屋を後にした。

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