沢綿島の狸・後
煙は史継の周囲に留まったまま、玉のように丸くなっている。そこから、にょきりと尻尾だけが姿を現した。ところが、毛の色は赤茶ではなく暗い焦げ茶で、あまりにも大きい。
掲げられるように上げられていたそれが振り下ろされると、煙が払われ、綺麗に消え失せる。
「――そうだな。ここにいる」
そこに
三十ほどと見受けられる男は、
「島に着いてから正体明かしてやろうと思ったのに、お遊びとはいえ、まさか来る時点で見破られるとは。直武はともかく、お前はどんな……いや、こちらから名乗るのが先だな。
芳親と直武以外、驚きを顔に浮かべている一同にそう名乗る。彼の声は外見通りにはっきりとしていたが、奥底には威厳が見え隠れしていた。
と、団史郎は表情を余裕の笑みから、何か思い出したようなものに変えて後ろを見る。視線の先には、
「紀定はともかく、お前は意外と気付かなかったな、史緒。勝手とはいえ、史継とは今朝から入れ替わっていたんだが」
「へ……、……えぇっ!?」
勢いよく頬を両手で包む史緒。奇しくもその動作は、
「えっ、え、じ、じゃあ、あたし、親分に」
「そうだな。鴎の時には儂の手に噛みついてきたし、姿が戻った時には馬鹿って言ってきたな」
「……、……っ、ぎゃああああああああああ!!」
一瞬で顔を真っ赤にしたかと思うと、史緒は叫び声を上げ、顔を覆って倒れ込んだ。団史郎は呆れた目でそれを見届けると、顔から驚きの色が引いた一行に向き直る。
「今は放っておいてやってくれ。さて……久しいな、直武。随分と老けたようだが、自ら苦労を抱え込む性格は変わらないと見える」
「ああ。久しぶりだね、団史郎。苦労性なのは昔からだけど、自ら抱え込んでいる覚えは無いよ」
「抜かせ。この二人、見ればそうと一発で分かるだろう」
直武と親しげに話しながら、尻尾で器用に直武の向かいを指す団史郎。彼の尻尾を猫のように目で追う志乃に対し、芳親は特に反応を示すことなく無表情でいる。
「で、いかにも苦労させられそうな二人。お前たちの名は何という。特に、儂を見破りおったお前」
つい、と尻尾の先を向けられたのは芳親。彼は目を瞬かせると、前髪の隙間から団史郎を見上げる。
「……境田芳親。職業は
「ついでの情報も重要ではないか。さてはお前、大事な話でも寝ている種類の奴だな?」
「そんなこと、ない。……多分」
顔は上げつつも、牡丹色の目は見事に逸らされる。あまりにも露骨な素振りに、団史郎どころか紀定まで呆れた顔をしていた。
「では、お前は」
まだ呆れの残る灰色の目が、今度は志乃へと向けられる。彼女は先ほどからきょとんとしていたが、いつもの暢気な愛想笑いを浮かべて立ち上がり、一礼した。
「お初にお目にかかります、団史郎殿。花居志乃と申します」
「ほう、礼儀はなっているな。お前の名は知らされておってな、名乗らせたのは確認のためだ。
「左様でございましたか。こちらこそ、よろしくお願い致します」
全く驚いた様子を見せない志乃に、団史郎は片眉を上げたが、すぐに戻す。「疑問に思うことではなかったな」とでもいう風に。
「ところで団史郎、どうしてわざわざ迎えに来てくれたんだい? 単に驚かせたかったというのもあるだろうけど、他にも目的があるんじゃないのかな」
「おう、ご名答。人間の足で儂の住処まで来るのは時間がかかると思ってな。縄張りに入ったら、そのままこちら側へ招待するために来た。こんなにも早くなるとは思っていなかったが」
「こちら側? 招待?」
何のことかと首を傾げる志乃に、「ん? お前は初めてか」と答えながら、団史郎は舵を取る。
「我ら妖の棲み処と言えば、
少し先の空中で止まったそれの、何も書かれていなかった紙面に、朱色で模様らしきものが浮かび上がる。そこに向かって、団史郎は船を進めた。
「揺れるぞ、掴まれ」
宙で静止する紙きれの真下に到達する、という一歩手前で注意が飛ぶ。果たしてその通り、乗客を振り落とさんばかりの大きな揺れが船を襲ったかと思うと、周囲が暗転した。
「え……あれ?」
上下左右、どこを見ても青かった世界が、すべて黒に塗り替えられている。間抜けな声を
いつの間にか紙きれを回収していた団史郎が、呆然と月を見上げる彼女を見て笑う。
「こちらはいつも夜、というか、夜の世界が即ち幽世なのさ。
「はあぁ、それは、存じ上げませんでした」
まだ若干呆けつつも、先ほどより速度を上げて進む船の先へ視線を戻した志乃だが、再び「え」と声を零して固まった。彼女の前方には芳親がいるのだが、先ほどまでと姿が違っている。
志乃と同じく旅装束を着ていたはずの彼は、銀糸で牡丹が刺繍された白い
「芳親さん、そのお姿は?」
「……あー、これ、は……こっち側、での、姿。……志乃は、まだ、目の色が変わって、牙が見える、だけ、だから……姿まで、は、変わらない、けど」
「え、俺の目の色、変わってます?」
訊いておきながら、志乃は海面を覗き込んで確認していた。確かに、彼女の目は青白く輝き、牙も見えている。
「妖雛には、人間の姿と妖怪の姿とがあるからね。完全に幽世へ入ると、妖怪の姿になるんだよ」
穏やかな直武の説明に振り返ると、彼の隣にいた紀定の表情に、
「そういった反応をされるのは久々です。俺の目は、夜蝶街ではさほど珍しくなくなっていましたので」
「っ、すみません」
「? 謝っていただくことではないかと。お気になさらず」
牙を覗かせつつも、声と同様に暢気な笑みを浮かべる少女。異様な目と牙を持ちながらも、至って普通の若者に見えるはずの笑みは、完全にそうとは言い切れない謎の引っ掛かりを持っている。
「もうそろそろ到着だ。起きろー、史緒。島に着くぞ」
「……はい……」
消え入りそうな声で答え、史緒がゆらりと身を起こす。その間にも船は速度を緩めることなく進み、影色を青から黒に変えた島へと向かって行った。
***
「さすがに史継はいないか。まあ、想定よりずっと早まったからな」
言いながら、団史郎は史緒と共に船を着けた。他に船の姿は無く、賑やかな陸に反して海は静かである。
「では、島の狸の代表として歓迎しよう。ようこそ沢綿島へ」
軽やかに船を降りた団史郎が、恭しく一行に頭を下げる。様になっているが、人の真似をして嘲っているかのような感じが滲み出てもいた。
「このまま儂の屋敷へ直行しても構わんが、それではあまりにも味気ない。史継を探すついでに、町を歩こうではないか」
彼の提案に異は唱えられず、一行は縁日かと思われるほど賑やかな町へ、足を踏み入れた。
左右とも様々な飲食の店で埋め尽くされた通りは、人間が作った夜の街と大差ない。相違点と言えば、絶対に人間用ではない怪しい食べ物が散見されることと、
「おぉー、絵巻の中にいるようですねぇ」
出歩いている者たちの姿である。
志乃が顔を輝かせ、物珍しげに声を上げたのも無理はない。人間のように二本足で歩く狸や、人間の姿ながら狸の尻尾と耳を持つ者、被り物をしているかのように、顔だけ狸で体は人間という奇怪な姿の者といった、奇怪な姿の者たちが
彼らは団史郎とすれ違うと、気さくに挨拶をしたり、逆に恐縮といった風にお辞儀をしたり、様々な反応を見せていた。直武たちのことは皆、興味深げにまじまじと見ていたが。
「それにしても、現世とそう変わりませんねぇ。もし夜蝶街にあったとしても、違和感は全くなさそうです」
「……
視線をあちこちへ忙しなく向ける志乃に対し、芳親は今度こそと言わんばかりに、天麩羅の串を品定めし始めている。直武は苦笑していたが、英崎の時とは違って止める素振りを見せない。
「ああ、心配は無用だろうが、人間用ではない食べ物もあるからな、気を付けろ」
「それはどんな……いえ、答えていただかなくて大丈夫です、見えました」
志乃の目が捉えていたのは、
視線をあちこち向け始めた志乃と入れ替わるように、芳親は一つ頷いたあと、ぐるりと団史郎を振り返った。
「……団史郎。通貨、決まりとか、ある?」
「この島は現世と同じだ。
「いいの? じゃあ、ちょっと来て」
「え、ちょっ、何してるの!」
早口に言うなり、がしっと団史郎の腕を鷲掴み、目を付けた露店へ連れて行く芳親。礼儀も遠慮もないその行為に、しおらしく静かだった史緒が声を上げるが、団史郎が片手を上げたのを見て引き下がった。
「うう……っていうか、何で親分のことを呼び捨てにしてるのよ、あいつは」
「すまないね。どうしても使わなければならないという場面以外、相手に敬称を付けることすらしないんだ、芳親は」
困ったものだと受け取れる半面、だからといって、敬語の使用を強要するつもりは無さそうな笑みと声音で直武が言う。途端、史緒は「直武様が謝られることでは」と慌てて首を横に振った。
「何と言いますか。大人しくなられましたねぇ、史緒さん」
「ぐ……だ、だって、親分がいるんだもの」
「なるほど、察しました」
要は、中谷に怒られないよう、細心の注意を払う時の心境と同じだろう――勝手に察して一人頷く志乃を、史緒は怪訝な顔で見ていたが、不意に視線を行く先へ向ける。
「どうしたのかな、史緒君」
「ああ、その。兄の気配がしましたので、おそらく」
言葉の続きは、「おぉーい」という声に遮られた。声の主らしい人影はすぐに見え、大きく手を振ってこちらへ走ってくる。
「お兄ちゃーん、こっちー」
「やっぱり史緒かー!?」
驚いてはいるが、どこかのんびりとした感じが抜けきらない声が返ってくる。その声色は、直武たちが一度聞いたものだった。
「はあ、はあ……やっぱり史緒じゃないか。それに」
駆け寄って来たのは、史緒と同じ赤茶の髪に、狸の尻尾と耳を持った青年。本物と思われる双岩史継だった。彼は直武の姿を見るなり、慌てたような顔で一礼する。
「し、失礼しました。えーっと」
「初めまして、君の名前は聞いているよ。史継君で合っているかな」
まず何を言ったものか迷っているらしい史継を落ち着かせるように、直武が穏やかに笑んで問いかけた。すると、忙しなく泳いでいた青年の視線が、温厚な老紳士に定まる。
「はい、そうです。皆さまをお迎えする予定だったんですが、どうやら失態をしてしまったようで」
「それについては大丈夫。団史郎曰く、予定より早まったとのことだったからね。君が対応できないだろうということは、知らせてもらっていたよ」
直武の微笑につられて、史継もふにゃりとした、いかにもお人好しといった笑顔を浮かべる。ところが史緒に脇腹を殴られ、すぐに歪んでしまった。
「いってぇ! 何するんだよぉ」
「それはこっちの台詞! お兄ちゃんも親分も、入れ替わってるなんて知らなかったのに!」
「それは親分が勝手に……あー、さてはお前、何かやらかしたんだな?」
「やらかしてない!」
言葉にならない声を上げながら、史緒はポコポコと兄を殴る。史継は抵抗することなく、困ったように「何なんだよぉ」と眉を八の字にした。
「史緒さん、八つ当たりはよろしくないかと」
見かねてというよりは、「どうしてそんなことを?」と不思議がっている様子で、志乃が史緒の肩に手を置く。八つ当たりというものを知ってはいるが、やったことはない彼女から見ると、史緒の行為は良いものとして映らない。
とりあえず史緒を落ち着かせる少女に、史継の目がまん丸くなったかと思うと、史継に化けていた団史郎と全く同じように「えっ!?」と仰け反った。一瞬、何事かと志乃も目を見開いたが、すぐに合点がいったような顔をする。
「あぁ、そうでした。あれは団史郎殿でしたねぇ。初めまして、史継殿。ご存知かとは思いますが、花居志乃と申します。こんな成りではありますが、女です」
「あ、貴女が志乃殿でしたか。失礼しました。その、女には見えなくって……すいません」
正直に言ってから謝るのも、浮かんでいる表情も団史郎と同じ。史緒が見破れなかったという事実があるものの、団史郎の変化の技術は本当に高いらしい。
「お兄ちゃん。そうとは見えなかろうが、女性をじろじろ見るなんて失礼でしょ。鴎の姿だったら噛みついてたところよ」
「鴎?」
「う、あ、何でもない! 忘れて!」
再び顔を赤くして、史緒は腕を大きく上下に振る。鴎の時にしていた翼の動きと全く同じ動作だった。
「史継。来たか」
「あ、親分……ん?」
お人好しな笑みが横へ向き、固まっる。彼の視線の先には団史郎がいるが、斜め後ろには、左手に十本ほどの串が入れられた袋を持ち、右手に三本の串を持った芳親がいた。
「おや、芳親。天麩羅だけじゃなくて、串焼きまで買ってもらったのかい?」
「うん。美味しい。……でも、昼ご飯、あるから……二十本に、した」
静かに目を輝かせた芳親は、大きな天麩羅だけでなく、四角い焼肉も食べ進めていく。さらりと言った二十本という数字は、直武と団史郎以外の全員を困惑させた。
「はい、志乃」
「んぇ?」
ずい、と。串焼きの肉と天麩羅を差し出され、志乃は間抜けな声を出してしまう。戸惑いつつも受け取ると、芳親は他の串も、その場にいる全員へ分けて回った。
「美味しい、から……みんな、にも……食べて、ほしい」
「金を払ったのは儂だからな。儂の奢りでもあるぞ、お前たち」
どこか誇らしげな芳親と、ひひひ、と笑う団史郎の落差が凄まじい。しかし、どちらにも悪感情はなく、食べ物を楽しむ分には問題ない。
「どう、志乃。嬉しい? 美味しい?」
「いや、俺に美味しいは分かりませんので……」
食べる最中でもぐいぐい寄ってくる芳親に、志乃も苦笑せざるを得ない。美味しいは分からないが、嬉しい状況なのは確かで、故に頷いておいた。
「親方や兄貴たち、姐さんたちにも、こうして分けていただいたことを思い出しました。ありがとうございます、芳親さん。貴方のご厚意を、とても嬉しく思います」
丁寧に答えたのが功を奏したようで、芳親は目の輝きを増幅させながら、満足げにこくこくと頷き返す。志乃はいつも通り、空虚の付き纏う愛想笑いを返していた。
「もうすぐ昼だから、ここら辺も混む。ちっと足早に行こう」
話を切り上げ、団史郎が歩き出す。彼の言った通り、明るい音楽が少し聞こえにくくなるほど、いつの間にか雑踏が多くなってきていた。
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