〈解放の儀〉
通りを抜けた先にあったのは、田んぼでも畑でもなく、黒々とした森。獣道らしいものはあっても、人間が通れるような道はない光景に、志乃は目を丸くする。
「……幽世、には……人間の、営みが、無い、から……田んぼも、畑も、無いよ」
「あぁ、なるほど。……あれ? それでは、町があるのは何故ですか」
「娯楽さ。妖怪は大体、人間の街が好きだからな。遊びにだって行くし」
足を止めて振り返った団史郎の答えに、「そういえば」と志乃は思い出した。人間と見分けがつかない妖怪たちも、居酒屋や妓楼に立ち入っている。志乃にとって馴染みがあるのは、問題を起こして暴れていた妖怪たちの方だが。
「さて。ここから儂の屋敷に行くまでには、この森を長いこと歩かねばならんが、客人に苦労を掛けさせるわけにはいかない。そういうわけで、再びこいつを使う」
団史郎が懐から取り出したのは、海上でも使っていた紙きれ。それが今度は森に入り口を開ける。
「さっきも思ったのだけど、それ、
「昔、
珍しく直武が微妙な顔をし、「君ねぇ……」と呆れたような声を出した。後ろでは、志乃は再び芳親に問いを投げている。
「芳親さん。転送陣というのは、
「そう。……術式、が、特別だから……他では、使われてない、はずなんだけど、ね」
「旦那が呆れ顔なのはそのせいですか」
こくこく、と首肯が返された。
転送陣とは、ある地点に描かれた陣の中にいる人や物を、別の地点に描かれた陣へと移動させることができる術の名称。便利だが膨大な呪力が必要になるため、一度に一往復分しか使えず、その往復も日を空けなければ成せない。
夜蝶街にやって来た井本たちも、この転送陣で
「これを抜ければ、我が屋敷の門前だ。儂がくぐると消えてしまうから、先に行け」
「了解。それじゃあ三人とも、行こうか」
隣と後ろにそれぞれ目をやり、返事を受け取ると、直武は迷いなく入り口をくぐる。紀定、芳親と続き、最後に志乃がくぐった。
草に覆われていた地面が、花びらに覆われた石畳の道に変わる。さわさわと風に揺れる枝の音がして、さらに花びらが舞い落ちてきた。
「……桜?」
呟いた志乃の眼前に、薄紫のそれがひらりと舞う。柔らかく握り込んでみると、確かに桜の花びらだった。出所を見上げてみれば、夜桜が咲き誇っている。
空を覆う満開の花々は、
「見事だろう。我が屋敷は、沢綿島の幽世では一番の桜の名所だ。とは言っても、この桜も
全員が通ったのを確認し、さっさと入り口を閉じると、団史郎は先頭に立って歩き出す。石畳の先には立派な門が口を開けて
「先に〈解放の儀〉をやってしまおうかと思ったのだが、良いか、直武」
「訊く相手を間違っているよ」
「志乃は
きっぱりと言われたが、志乃は反論することなく笑っていた。全くもってその通りだったので。彼女の様子を見ずとも、「そうだね」と直武も苦笑している。
「やってくれ、団史郎。早いに越したことは無い」
「おう。では志乃、儂について来い。芳親、お前もだ」
直武と紀定の案内を双岩兄妹に任せ、団史郎は妖雛二人を連れ、
彼の足が止まったのは、また別の門の前。こちらは固く閉ざされていたが、主がゆっくり手を振っただけで、バンッと勢いよく開け放たれる。
「桜が囲う自慢の庭よ。呪力の満ちるここでなら、大抵の儀式が行える。が、それはそれとして美しさも一級品だ。存分に眺めよ」
自信に満ちた紹介を受けた庭は、確かに壮麗だった。
紅より紫が強い灯光を放つ妖桜が、庭を孤島のように浮かび上がらせている。花びらは自ら放つ光と月明かりに
勿論、美しいのは桜だけではない。緩やかな
「貴族の屋敷にあるようなお庭ですねぇ」
「だろう。で、儀式はあそこでやる」
さらりと示された場所は、橋の向こうではなくこちら側。庭石に紛れて、鉄製の棒が数本突き立てられている。近寄ってみると、人ひとりが入れるくらいの円陣が描かれているのも見えた。棒の一本は、その中央に刺さっている。
「じゃ、早速だが。志乃は円陣に入って、刺してある棒をしっかり握れ」
「はい。……こんな感じでよろしいでしょうか」
自分の胸のあたりまである棒を、志乃は両手で握り締める。団史郎は頷くと、向かいに刺さっていた二本の棒のうち片方を握った。残る一本は芳親が握る。
「これからお前に呪力を注ぎ込む。儂の呪力、芳親の呪力、そして庭を囲う桜の呪力だ。それが一気に、お前が握っている棒と、お前が立っている円陣から、手足を伝って入ってくる」
「それに耐えればよろしいので?」
「そうだ。そう長くは掛からんが、吹っ飛ばされないように踏ん張れ。棒は離さず、足は浮かせず、気は途切れさせず、歯を食いしばって耐えろ。負ければ死ぬ」
「えぇ、存じ上げております」
平然と掛けられた重い言葉に、志乃は笑って答えた。
緊張も恐怖も皆無な態度は、志乃が特に何とも思っていないと証明している。今さら思うことなど無いのだ。死の危険を
「場所が違うだけで、俺がしなければならないことは変わりません。耐えられれば
屈託のない笑みで、自身の生死を平然と語る姿は、到底正気とは思えない。けれど紛れもなく、志乃という妖雛の姿だ。
へらへらと笑ったままの彼女に、団史郎はため息をつく。
「本当に無頓着な娘だの。……では、始めるとするか」
一転して厳かな声で言うと、団史郎は目を閉じ、棒を握る手に力を籠める。志乃と芳親もそれに倣った。すると、棒同士を繋ぐように地面に光の線が走り、円陣をなぞって浮かび上がらせる。仄かだった桜の光も、
直後、ドッという音と共に地面が揺れ、轟音と共に竜巻が表れる。
「ッ――!?」
竜巻は円陣から発生し、志乃はその渦中に閉じ込められた。強風にぐいっと上げられた顔を戻し、一層強く手足に力を籠める。閉じた目も、食いしばった歯も同様に。一瞬でも緩めれば、本当に吹き飛ばされて地面に叩きつけられる。
「ぐ、ぅ……っ!」
耐えるのはそれだけではない。体内で激流と化した呪力にもまた、耐えなければならなかった。
今にも体を突き破ってしまいそうなそれは、痛みを伴って体の隅々まで流れていく。力を込めている場所では、痛みがどんどん増していた。
「うぁ、あ、ぐっ……」
金槌で打たれているような痛みが絶え間なく生じ、代償のように感覚が無くなっていく。
逆巻く強風の中、志乃は
「あ、がっ……あぁぁぁッ!!」
『――あぁ、志乃』
……ふと。
『こっち側での君の姿は、どんな風になるんだろうねぇ』
あははは、と空虚な笑い声がして。霧が晴れたように、声の主の姿が見えてくる。
結い上げてもなお長い濡れ羽の髪、
「あ……」
――琵琶、箏、鈴、どこまでも哀しい色をした音。
ごちゃ混ぜになっても美しい音がして、がくんと膝が折れる。強風はいつの間にか止み、竜巻も消えていた。
「……あの方、は……」
力の抜けた腕が、ずるずると地面に落ちていく。纏われる手甲や袖が、旅装束とは別のものに変わっていたが、持ち主は気付かない。
未だに音がしている。あの男が奏でる楽器の音がする。途中、
調和がとれた音の海上を、哀しくも美しい音色が一条、鮮やかに駆け抜けた。
『俺は雷雅。君の親代わりだよー』
暢気な声を最後に、全ての音が消える。途端に
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