友士灯―ともしび― 探求編

葉霜雁景

第一章 夜蝶街

夜蝶の志乃

「道具にだけは成り下がるなよ」


 必要なものとして与えられた家具以外、何もない室内に、重苦しさをまとった一言が落ちる。開けられた窓から入ってくる遠い喧騒も、熱を先取りした晩春の夜風も拾えず、掻き消せない一言が。

 両頬に傷を持つ厳しい顔を、さらに険しくして言う男に、子どもはこてんと首を傾げた。合わせて、結い上げた黒髪も揺れる。


「なにゆえですか? 俺は楽しく喧嘩をさせていただいて、それは人の役に立って、用が済んだら処分していただける。悪いことではないように思えます」


 のほほんとつむがれる声が、男の顔に不愉快を刻んでいく。彼の苛立いらだちはやがて、舌打ちとなって表れ消えた。


「それが道具の扱いと同じだからだ。お前は道具じゃない。だから考えないとならねぇんだよ、何のために、自分が生きているのかってことを」

「何のためと言われましても……人のためではないのですか?」

「それは他の言葉をなぞってるだけだろ。お前が見つけて、お前が語れる言葉で言えるようになれ。何のために力を振るうのか、何のために敵をほふるのかを考えろ。それが灯火となって、いつかお前を照らす」


 子どもが、反対方向に首を傾ける。何を言われているのか分からないという顔は、男を微笑ほほえませた。かげっていて、明るくはない微笑みだった。


「まあ、糸口は教えてやるよ。つっても、これも受け売りだがな」


 不思議な前置きに続けて告げられ、与えられた言葉たちは全て、空虚な胸の内にかすかな引っ掻き傷を残していった。そうして、一つの疑問を育む土壌となった。

 壊し傷つけることしかできない自分は、それ以外に、何ができるというのだろう。


 ■


 現世うつしよ四大花街に数えられる夜蝶街やちょうがいは、至る所に吊り下げられた提灯ちょうちんの光と、夜店や酒場の賑わいに満たされるのが常。しかし三日前から、街の至る所を飾り立てる提灯は半分ほどしか灯されていない上に、夜店や酒場も一つ残らず閉まっている。通りを出歩く人すらいない。


 ――否。静寂に支配された大通りに、一つだけ人影があった。


 街の中央にそびえる豪奢な妓楼ぎろう華蝶館かちょうかんの真正面に続く華蝶通り。平常時は最も賑わっている分、静けさも不気味さも濃く感じられるそこを、中性的な風貌の若者が一人歩いていく。高い位置で結い上げた黒髪を揺らしながら、散歩でもしているかのように。

 紺色の小袖に舛花色ますはないろはかまという、街の自警団〈見回り番〉の組み合わせを纏った若者。服装や歩き方から判断すれば、男性としか見えないのだが。


「お客さんがいないのはよろしくないことですが、歩きやすくなったのは良いことですねぇ」


 発せられた暢気のんきな声は、完全に少女のものである。

 独り言の通り、いつも混んでいる大通りをスタスタ歩いて行けるのは爽快だ。彼女が閑寂を気にすることなく、楽しそうな笑顔で歩いていくのも無理はない。

 ところが、微笑ましい様子は長く続かなかった。


「……ん?」


 ぴたり、少女の足が止まり、丸くなった目が瞬く。彼女の視線の先に、もう一つ人影が現れていた。


「拾い物でもなさっている方でしょうか」


 疑問をこぼす間に、人影はこちらに気づかず進んでいく。首を傾げつつも、少女は人影の後を追った。

 近付くにつれて見えてきた後ろ姿は、老いた男性のもの。灰色の髪を緩く結び、肩から前方へと流しているらしい。庶民ではないことが一目で分かる十徳じっとく姿で、杖を突いている。しかし姿勢は綺麗で、足を悪くしている素振りなども見受けられない。

 手を伸ばせば背に触れるところまで距離を詰めると、少女は地面を蹴って、真横から飛び出てきた異形を殴り飛ばした。男性に噛みつこうとしていたそれは、『ギャウンッ!』と犬のような悲鳴を上げて転がっていく。


「さほど危なくはない大きさでしたねぇ。……お怪我はありませんか、お客さん」


 拳を開いたり閉じたりしながら、少女はのんびりと男性を振り返る。男性は十徳姿に相応しく、温厚そうで穏やかな顔つきをしているが、異形の化け物に襲われたのにもかかわらず微笑んでいた。


「ああ、この通り無傷だ。どうもありがとう、見回り番のお嬢さん」

「いえいえ。ところで、お客様は最近、夜蝶街へいらっしゃった方ですか?」

「そうだね。二日ほど前から、宿場町の方に泊っているよ」

「では、夜蝶街がどういう状況下にあるか、ご存知ないでしょうか。ああいうのがたくさんいて、腕に覚えが無ければ容易く殺されてしまいますよ。実際、亡くなられた方もいらっしゃいます」


 消える気配のない笑みを浮かべる少女が指した先では、殴り飛ばされた異形が頭を振り、二人の方を睨んでいる。犬のような姿をしているが、その目は毒々しいまでに赤く、剥き出しの牙は普通よりずっと鋭い。殺意を犬の形にしたかのようだ。

 その正体は、人の力が及ばないもの。獣とも異なるもの。人間に無尽蔵の殺意を向け、ただ殺しつくそうとするもの――〈物の怪〉と呼ばれる化け物の影響を受け、〈成り損ない〉と名付けられた異形の怪物である。

 突如として、犬の姿の成り損ないが遠吠えを上げたが、少女も男性も何ら反応を見せない。少女の方はむしろ納得したような顔をして、次にはまた笑顔に戻っていた。


「散り散りになっておられましたか。召集を掛けたんですねぇ」


 彼女の呟きを証明するように、路地裏に通じる細道から、小さな黒い影が犬の元へ這い寄ってくる。集まれば集まるほど犬の大きさは増していき、ついには少女の目線の高さにまで巨大化した。

 どぎつい赤の目は四つに増え、牙と同様に手足の爪も鋭く伸び、唸り声は地響きかと聞き間違うほど大きくなっている。成り損ないの姿は、怪物としか言いようのないものへと変わり果てた。


「おぉー、俺が見た中では一番大きいですねぇ。兄貴たちだけなら手こずったかもしれませんが……残念ながら、俺との一対一ならそうはいきませんよぉ」


 のほほんとした、緊張の欠片もない声音で言う少女。対して、異形は忌々しげな唸り声を上げていた。まるで、彼女を恐れているかのように。

 が、少女の方は意に介した様子もなく、再び男性を振り返る。


「失礼ながら、お客さん。これは俺とあちらの喧嘩ですので、手出しは無用でお願いいたします」

「分かった。私は観戦させてもらうとしよう」


 はて、と少女の首が傾げられ、結い上げられた髪が揺れた。喧嘩をすると言うと、彼女のことを知らない他人ならば止めてくるのだが、このお客は違うらしい。新鮮な反応に、少女はにっこりと嬉しそうな笑みを咲かせる。


「ありがとうございます。観戦していただくのは一向に構わないのですが、あまり楽しめるような喧嘩にはならないかと」

「それはまた、どうして?」

「すぐに終わってしまいますから」


 あっさりと言ってのけると、全身から嬉しそうな雰囲気をにじませたまま、少女は異形に向き直った。緊迫するはずの状況下で、暢気な態度を貫き続ける彼女は、異常の一言に尽きる。


「お待たせいたしましたぁ。さあ、どこからでもどうそ」


 その笑顔のまま数歩前に出て、無防備に両腕を広げて見せる彼女に、異形は唸って後退る。警戒するようなその素振りに、「あれ?」と間の抜けた声が落ちた。


「おかしいですねぇ。こうしたら、出遭った成り損ないは全員、襲い掛かって来たのに。……あぁ、さすがに、俺を相手にするのは分が悪いと認識されたのでしょうか」


 にたり、と少女の笑みが不気味な色を帯びる。その弧を描いた口から、人間が持ち得ないような牙が覗いていた。


「でも、襲い掛からないと、一方的にやられるだけですよぉ。そういうの、お嫌ではないのですか?」


 細められた目が、青白く変化する。ただの少女ではなくなった顔に、異形は己を奮い立たせるような咆哮ほうこうを上げて襲い掛かった。

 だが、少女は横に飛んで余裕たっぷりにかわし、間髪入れずに重い蹴りを放つ。まりのように腹を蹴り上げられた異形は、口をぱっくり開いて空気のかたまりを吐き出した。


「では、さようなら」


 軽い別れの挨拶が、宙に浮く異形のかけられる。先ほどまで下界にいた少女は、一瞬で異形より上空に跳び上がっていた。

 跳躍の際に体を回転させたことにより、威力を増したかかとが鈍器となって落とされる。ずどん、と鈍重な音を立て、異形の体は地面に叩きつけられた。

 その傍らに危なげなく降り立つと、少女はふところから何かを取り出し、自分の真上に投げる。真っすぐ飛び上がったそれは、簡素な花火を上げて散っていった。


「お見事。この程度には全く苦戦しないんだね、君は」


 未だ青白い目を光らせ、口からは牙を覗かせる彼女に、観戦していた男性は穏やかに語り掛ける。拍手すら送って来るのを見て、少女はまたも首を傾げた。


「お客さんは俺を恐れないのですねぇ。珍しい」

「君のような子は、普通の人よりたくさん見てきたからね。それに、私は君にも用があって、この街を訪れたんだよ、『夜蝶の志乃しの』君」


 男性が呼んだのは、二年前から花柳界にとどろいている少女の名だった。

 花柳界では人間もそうでないモノも騒ぎを起こすため、両者を抑えられる者が強者とされる。そんな強者の中でも、義侠心を持つ者たちは治安維持のために集まり、自警団として活動するのだ。

 一人一人の能力が高い強者が集まる中では、一目置かれるような実力者は猛者と見なされて名が広まり、決闘を挑まれることもある。この少女はまさに、そんな実力者の一人だった。


「俺に用となると……もしや、お客さんは喧嘩をご所望で?」

「あはは、それは違うよ。詳しい話は、第一屯所とんしょでさせてほしい」

「おや、屯所に御用だったのですか」


 夜蝶街には、見回り番の屯所が五つある。男性の言った屯所は、正式名称を第一屯所兼白灯堂はくとうどうといい、少女が属している場所でもあった。


「でしたら、ご案内いたしましょう。先ほど人を呼びましたから、この場の後始末はちゃんと為されますし」

「あの花火はそのためだったのか。それじゃあ、安心して頼めるね」


 自らが知っている場所への案内であるため、少女は「お任せください」と自信満々に胸を張った。


「あぁ、そうそう。ご存知とは思いますが、俺は『夜蝶の志乃』こと、花居はない志乃と申します。下の名の方が呼ばれ慣れておりますので、どうぞ志乃とお呼びください」

「分かった。私は麗部うらべ直武なおたけという。好きに呼んでくれて構わないよ。よろしくね、志乃君」


 沈黙した異形の前方で、にこにこと笑顔のやり取りがなされる。今までのやり取りも含めて、二人は場違いな暢気さと明るさに包まれていた。


「おーい!」


 と、そこへ投げ掛けられる声が一つ。志乃が投げた花火を見てやって来たらしい青年が一人、通りに並ぶ店の屋根を伝い、二人の方へやって来ていた。


「お待たせ、志乃。これまた大きいのを仕留めたねぇ」


 駆け寄って来たのは、志乃と同じ見回り番の組み合わせを身に纏った青年。腰に差した刀があまり似合わない柔和な顔立ちの彼に、志乃は笑顔で頷いた。


「おそらく、出遭った中では最も大きいかと。すぐに仕留められましたよ」

「そりゃすごい。では、兄貴が褒めて進ぜよう。偉いぞー」


 遠慮なく頭をわしゃわしゃと撫でられ、志乃は嬉しそうな笑い声を立てる。そのやり取りをにこにこと眺めている男性に気付くと、青年は一度手を止め、慌てたようにぺこりと頭を下げた。


「失礼しました。えーっと、お客さんで合ってます?」

「はい、兄貴。第一屯所に御用があるそうで、これからご案内するところです」


 代わりの答えに首肯が続く。堂々と答えた志乃と、全く気にしていないらしい直武に、青年は苦笑した。


「志乃が答えちゃ駄目だろー、まったく……お客さん、うちの志乃は暢気ですけど、夜蝶街でも屈指の実力者なんで、護衛としては最適ですよ」

「そのようだね。先ほど拝見させてもらったよ。そう言う君も、かなりの手練てだれと見受けられるけれど」

「おっ、分かります? お目が高いですねぇ。ちなみに俺は山内やまうち富太とみたというんで、良ければ憶えておいてください」


 人懐っこく、親しみやすい笑みで言うと、山内はもう一度志乃の頭を撫でる。自然と妹分の頭に手を伸ばす様子は、彼が常日頃から志乃を撫でていることを証明していた。


「じゃ、志乃。後始末は兄貴に任せて、お客さんをちゃんと送り届けるんだぞ」

「もちろんですとも。また後ほど会いましょうねぇ、兄貴」


 ひらひらと手を振ると、志乃は直武の前に立って歩き出す。二人を見送ると、山内は懐から札を取り出し、異形に直接触れないようにして置いた。途端、異形の体が音もなく崩れていく。


「で、あとは守遣兵の連中を……、ん?」


 不意に、山内は周囲を見回した。誰かに見られている気配を感じ取ったのだが、探りはしない。物の怪などそうそう出現するものではないため、腕に覚えのある者が、物見遊山をしているのだろうと予測がつく。


「ま、いっか。志乃が反応しなかったってことは、敵じゃないんだろうし」


 何より、自分より気配の探知に長けた者が反応しなかったのなら、気にする必要もない。

 呟いて、山内は腰に提げていた袋から、後始末のための小道具を色々と取り出していく。――そんな山内から離れるようにして、人影が一つ、路地裏を駆け去って行った。

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