友士灯―ともしび― 探求編
葉霜雁景
第一章 夜蝶街
夜蝶の志乃
「道具にだけは成り下がるなよ」
必要なものとして与えられた家具以外、何もない空っぽの室内に、重苦しさを
両頬に傷を持つ厳しい顔を、さらに険しくして言う男に、部屋の主となった子どもがこてんと首を傾げた。合わせて、結い上げた黒髪も揺れる。
「なにゆえですか? 俺は楽しく喧嘩をさせていただいて、それは人の役に立って、用が済んだら処分していただける。悪いことではないように思えます」
のほほんと
「それが道具の扱いと同じだからだ。お前は道具じゃない。だから考えないとならねぇんだよ、何のために、自分が生きているのかってことを」
「何のためと言われましても……人のためではないのですか?」
「それは他の言葉をなぞってるだけだろ。お前が見つけて、お前が語れる言葉で言えるようになれ。何のために力を振るうのか、何のために敵を
子どもが、反対方向に首を傾ける。何を言われているのか分からないという顔は、男を
「まあ、糸口は教えてやるよ。つっても、これも受け売りだがな」
不思議な前置きに続けて告げられ、与えられた言葉たちは全て、部屋より空虚な子どもの胸裏にかすかな引っ掻き傷を残していった。そうしてできた窪みに、疑問を育む土壌ができた。
壊し傷つけることしかできない自分は、それ以外に、何ができるというのだろう。
■
――否。静寂に支配された大通りに、一つだけ人影があった。
街の中央に
紺色の小袖に
「お客さんがいないのはよろしくないことですが、歩きやすくなったのは良いことですねぇ」
発せられた
独り言の通り、いつも混んでいる大通りをスタスタ歩いて行けるのは爽快だ。少女が閑寂を気にすることなく、楽しそうな笑顔で歩いていくのも当然。
ところが、微笑ましい様子は長く続かなかった。
「……ん?」
ぴたり。少女の足が止まり、丸くなった目が瞬く。青みがかった黒を抱く双眸の先に、もう一つ人影が現れていた。
「拾い物でもなさっている方でしょうか」
疑問をこぼす間に、人影はこちらに気づかず進んでいく。首を傾げつつも、少女は人影の後を追った。少しばかり駆け足で。
近付くにつれて見えてきた後ろ姿は、老いた男性のもの。灰色の髪を緩く結び、肩から前方へと流している。庶民ではないことが一目で分かる
男性は何にも気付かず歩いているのか、気付いた上で歩いているのか。どちらにせよ、少女のやることは変わらない。自分の役目を果たすだけ。
手を伸ばせば背に触れるところまで距離を詰めると、少女は地面を蹴って、真横から飛び出てきた異形を殴り飛ばした。男性に噛みつこうとしていたそれは、『ギャウンッ!』と犬のような悲鳴を上げて転がっていく。
「さほど危なくはない大きさでしたねぇ。……お怪我はありませんかぁ、お客さん」
拳を開いたり閉じたりしながら、少女はのんびりと男性を振り返る。男性は十徳姿に相応しく、温厚そうで穏やかな顔つきをしているが、異形の化け物に襲われたのにもかかわらず微笑んでいた。
「ああ、この通り無傷だ。どうもありがとう、見回り番のお嬢さん」
襲撃は承知していたのだろう。その上で他者に始末をさせた。老いた男性の行動を読み取りつつ、少女は「いえいえ」と笑う。
「ところで、お客様が夜蝶街へいらしたのは最近のことでしょうか」
「そうだね。二日ほど前から、宿場町に泊っているよ」
「では、夜蝶街がどういう状況下にあるか、ご存知なのでは? ああいうのがたくさんいて、腕に覚えが無ければ容易く殺されてしまいますよぉ。実際、亡くなられた方もいらっしゃいます」
消える気配のない笑みを浮かべる少女が指した先では、殴り飛ばされた異形が頭を振り、二人の方を睨んでいる。犬のような姿をしているが、その目は毒々しいまでに赤く、剥き出しの牙は普通よりずっと鋭い。殺意を犬の形にしたかのようだ。
その正体は、人の力が及ばないもの。獣とも異なるもの。人間に無尽蔵の殺意を向け、ただ殺しつくそうとするもの――〈物の怪〉と呼ばれる化け物の影響を受け、〈成り損ない〉と名付けられた異形の怪物である。
突如として、犬の姿の成り損ないが遠吠えを上げたが、少女も男性も何ら反応を見せない。少女の方はむしろ納得したような顔をして、次にはまた笑顔に戻っていた。
「散り散りになっておられましたか。召集を掛けたんですねぇ」
彼女の呟きを証明するように、路地裏に通じる細道から、小さな黒い影が犬の元へ這い寄ってくる。集まれば集まるほど犬の大きさは増していき、ついには少女の目線の高さにまで巨大化した。
どぎつい赤の目は四つに増え、牙と同様に手足の爪も鋭く伸び、唸り声は地響きかと聞き間違うほど大きくなっている。成り損ないの姿は、怪物としか言いようのないものへと変わり果てた。
「おぉー、俺が見た中では一番大きいですねぇ。兄貴たちだけなら手こずったかもしれませんが……残念ながら、俺との一対一ならそうはいきませんよぉ」
のほほんとして緊張の欠片もない声が、挑発めいた言葉を紡ぐ。対して、異形は忌々しげな唸り声を上げていた。一見すると怒りを煽られているようだが、じりじりと後退している四肢からは恐れが
が、少女は相手の動きなど意に介せず、再び男性を振り返った。
「失礼ながら、お客さん。これは俺とあちらの喧嘩ですので、手出しは無用でお願いいたします」
「分かった。私は観戦させてもらうとしよう」
なんてことない音色で返された言葉に、はて、と。少女の首が傾げられ、結い上げられた髪が揺れた。喧嘩をすると言うと、彼女のことを知らない他人ならば止めてくるのだが、このお客は違うらしい。新鮮な反応に、少女はにっこりと嬉しそうな笑みを咲かせる。
「ありがとうございます。観戦していただくのは一向に構わないのですが、あまり楽しめるような喧嘩にはならないかと」
「それはまた、どうして?」
「すぐに終わってしまいますから」
あっさり言ってのけると、全身から嬉しそうな雰囲気を滲ませたまま、少女は異形に向き直った。緊迫するはずの状況下で、暢気を貫くどころか喜びさえ纏い始める姿からは、異常な性質がはみ出ている。
「お待たせいたしましたぁ。さあ、どこからでもどうそ」
笑顔のまま数歩前に出て、無防備に両腕を広げて見せる彼女に、異形は唸って後退る。やはり少女を警戒しているようだが、当の本人からは「あれ?」と間の抜けた声が落ちた。
「おかしいですねぇ。こうしたら、出遭った成り損ないは全員、襲い掛かって来たのに。……あぁ、さすがに、俺を相手にするのは分が悪いと認識されたのでしょうか」
にたり、少女の笑みが不気味な色を帯びる。弧を描いた口から、人間が持ち得ないような牙が覗いていた。
「でも、襲い掛からないと、一方的にやられるだけですよぉ。そういうの、お嫌ではないのですか?」
細められた目が、青白く変化する。ただの少女ではなくなった顔に、異形は己を奮い立たせるような
だが、少女は横に飛んで余裕たっぷりに
「では、さようなら」
軽い別れの挨拶が、宙に浮く異形の上からかけられる。先ほどまで下界にいた少女は、一瞬で上空へ跳び上がっていた。
跳躍の際に体を回転させたことにより、威力を増した
動かなくなった異形の傍らに危なげなく降り立つと、少女は
「お見事。この程度には全く苦戦しないんだね、君は」
未だ青白い目を光らせ、口からは牙を覗かせる彼女に、観戦していた男性は穏やかに語り掛ける。拍手すら送って来るのを見て、少女はまたも首を傾げた。
「お客さんは俺を恐れないのですねぇ。珍しい」
「君のような子は、普通の人よりたくさん見てきたからね。それに、私は君にも用があって、この街を訪れたんだよ、『夜蝶の
まだ名乗っていないのに、男性は少女の名を呼んだ。二年前から各地の花柳界に
花柳界では人間もそうでないモノも騒ぎを起こすため、両者を抑えられる者が強者とされる。そんな強者の中でも、義侠心を持つ者たちは治安維持のために集まり、自警団として活動するのだ。
一人一人の能力が高い強者が集まる中では、一目置かれるような実力者は猛者と見なされて名が広まり、決闘を挑まれることもある。この少女はまさに、そんな実力者の一人だった。
「俺に用となると……もしや、お客さんは喧嘩をご所望で?」
ぎょろり、不気味な輝きを沈めた双眸が、悪寒と熱狂を含む視線を放つ。捉えられた男性は、寒気にも怖気にも震えることなく、笑いで肩を震わせた。
「あはは、それは違うよ。詳しい話は、第一
「おや、屯所にご用がおありだったのですかぁ」
夜蝶街には、見回り番の屯所が五つある。男性の言った屯所は、正式名称を第一屯所兼
「でしたら、ご案内いたしますよぉ。先ほど人を呼びましたから、この場の後始末はちゃんと為されますし」
「あの花火はそのためだったのか。それじゃあ、安心して頼めるね」
はみ出ていた不気味や異常はどこへやら、明るく笑い自信満々に胸を張る少女に、男性も柔らかな笑みを返す。異形の襲撃どころか、街の閉鎖さえ忘れさせるような場違いの
「あぁ、そうそう。ご存知とは思いますが、俺は『夜蝶の志乃』こと、
「分かった。私は
沈黙した異形を置き去りにして、にこにこと笑顔のやり取りがなされる。二人が放つのほほんとした空気が静かに広がるそこへ、「おーい!」と切り込む声が飛んできた。志乃が投げた花火を見てやって来たらしい青年が一人、通りに並ぶ店の屋根を伝い、二人の方へやって来ていた。
「お待たせ、志乃。これまた大きいのを仕留めたねぇ」
駆け寄って来たのは、志乃と同じ見回り番の組み合わせを身に纏った青年。腰に差した刀があまり似合わない柔和な顔立ちをした仲間に、志乃は笑顔で頷いた。
「おそらく、出遭った中では最も大きいかと。すぐに仕留められましたよぉ」
「そりゃすごい。では、兄貴が褒めて進ぜよう。偉いぞー」
兄貴を自称した青年は、志乃の頭を遠慮なくわしゃわしゃと撫で回す。笑い声を立てる志乃に目を細めたのち、青年は一度手を止め、直武にぺこりと頭を下げた。
「失礼しました。えーっと、お客さんで合ってます?」
「はい、兄貴。第一屯所にご用があるそうで、これからご案内するところです」
代わりの答えに首肯が続く。堂々と答えた志乃と、全く気にしていないらしい直武に、青年は柔らかな困り笑いを浮かべた。
「志乃が答えちゃ駄目だろー、まったく……お客さん、うちの志乃は暢気ですけど、夜蝶街でも屈指の実力者なんで、護衛としては最適ですよ」
「そのようだね。先ほど拝見させてもらったよ。そう言う君も、かなりの
「おっ、分かります? お目が高いですねぇ。ちなみに俺は
人懐っこく、親しみやすい笑みで言うと、山内はもう一度志乃の頭を撫でた。自然と妹分の頭に手を伸ばすあたり、常日頃から志乃の頭を撫でているのだろう。志乃も志乃で、撫でられることを当然とばかりに受け入れている。
「じゃ、志乃。後始末は兄貴に任せて、お客さんをちゃんと送り届けるんだぞ」
「もちろんですとも。また後ほど会いましょうねぇ、兄貴」
ひらひらと手を振り、志乃は直武の前に立って歩き出す。二人を見送った山内は懐から札を取り出し、異形に直接触れないようにして置いた。途端、異形の体が音もなく崩れていく。
「で、あとは守遣兵の連中を……、ん?」
不意に、山内は周囲を見回した。誰かに見られている気配を感じ取ったのだが、探りはしない。だいたい予測はついている。物の怪などそうそう出現するものではないため、腕に覚えのある者が、物見遊山をしているのだろう。
「ま、いっか。志乃が反応しなかったってことは、敵じゃないんだろうし」
何より、自分より気配の探知に長けた者が反応しなかったのなら、気にする必要もない。
呟いて、山内は腰に提げていた袋から、後始末のための小道具を色々と取り出していく。――そんな山内から離れるようにして、人影が一つ、路地裏を駆け去って行った。
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