第16話
更衣が、後宮に上がってのち、三月ほど経ってから、お上は、秘庫にご所蔵であった王羲之の真筆や、橘逸勢、また、空海の書などをお手元にお取り寄せになり、更衣にお見せになった。
この時、件(くだん)の女房両名にも、特別なお計らいで、それらをよくよく目にすることをお許しになった。
その際、一番の若輩が、空海の文字を「まるで、このままほうっておくと、天高く飛び去ってしまいそうであります」と表現したのこそ、のちのちまで、一同の記憶に残っていたものである。
そして、それらの内数点を、「皆で、手習いの手本に供せよ」とのご沙汰があり、まことにかたじけないと、一旦は更衣がご遠慮申し上げたのであるけれども、お上は、「遠慮することはない」と尚もお勧めになるので、更衣としては、結局、ご厚意をありがたくお受けになったのであった。
三者はともに緊張しながら、臨書を始めた。
更衣はもちろん、残る両名も、この国に生まれた者であって、かかる光栄至極な目に遇っている己れというものを、“空恐ろしい(ことである)”と思わずにはいられなかった。
そして、“粗相はするまいか”と始終気が気でなかったものである。
そんな中で、彼らがものし行く手を、お上は、微笑みをお顔に浮かべつつ、興味深そうにご覧になっては、何やら、お一人で頷(うなず)かれるご気配なのであった。
一しきり、皆が、自分のものをやりおおして、お互いのを見比べたりしていると、お上からお言葉があったのである。
「時に、皆は、自分で真名を詠んだりするものなのかね。」
三人は、同様に、お互いの顔を見合いながら、不思議な感情にとらわれた。
更衣が、お答えになる。
「とんでもないことでございます。」
「けれども、その方達は、女ではあるものの、よく漢籍に通じており、その思うところは、大きな声では言われぬが、大学寮の博士の講釈などよりよっぽど聞き応えがあることは、余もすでに存じておる。そちらは、未だ自覚せぬのかもしれぬが、その道においても、自然と素養がついているのではあるまいか。」
そう、お上はおっしゃって、三人の顔を覗かれたのである。
「ものは試しじゃ、難しいことは言うまい。題も自由でよいから、何か、賦でも何でも拵(こしら)えて認(したた)めてはどうかな。」
三人は、突拍子もないお上のご提案に面食らう一方で、自分達の心の中で、“これを、まるで無理である”とする気持ちが起こらない現実の方を、予想外であると、めいめいが驚いていたのであった。
そして、お互い、取りあえず着想を何に得ようかと、早くも夢想し出していたのこそ、驚くべきことであるのであった。
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