第二話 居酒屋 グラスが割れる

「ありがとう。」

 わざと関西のイントネーションを使うのはそれだけでモテるからだ。女の子は二十歳くらいだろうか。

 彼女は仕事モードから一瞬女に戻り、俺から目を泳がせ、照れた。少し手応えを感じたが、忙しい店内で直ぐに厨房から声がかかり行ってしまった。目で追うと、こちらを遠慮がちに振り返ったので、笑顔で対応した。

「やめろよ。」

 後藤がこちらを呆れた様子で見ながら、今来たばかりのハイボールを既に半分ほど飲み進めていた。

「何がー?」

 素知らぬ顔でポテトサラダを食べた。これだけ単品で頼んでも良いくらいに旨かった。なので、二口程度でなくなった。

「ポテサラ注文した?」

 後藤は自分の皿を俺の前に置き、俺の皿を自分の前に置いた。

 こいつが恋人だったら楽なのにな、と一瞬思ったが、全く想像が膨らまなかった。

「後藤が彼女やったら、俺幸せやんね。」

 少し変換して伝えてみて、顔をのぞき込む。

「田村、いい加減そういうのやめな。誰彼構わずそんなことしてると、いつか刺されるよ。」

「呆れて怒る気も起きないって感じの顔。やから好きやよ、お前のこと。」



 後ろの席からグラスが割れる音がした。ワイングラスか何かが割れる高い音が、煩い店内でも響いた。気になって後ろを振り向くと、甲高い声の男がいる席の女達がグラスを割ったようだった。男も酔っているようで、顔がピンクに染まっている。何を言っているのはさっぱり聞き取れないが、耳障りな音だけがこちらにまで届いている。

 先程の彼女ともう一人の店員が素早く駆けつけ、一人は箒で割れたグラスを手際よく掃き、彼女はテーブルを拭いて皿を片付けていた。テーブルに赤ワインがこぼれているのがカウンターからでも少し見えた。

 グラスを割ったであろう女達は、かなり酔っ払っているらしくキーキー声で謝り、笑っている。見ていて楽しい風景ではない。


 その中に一人、そのグループには不釣り合いな男がいた。上司にしては、部下全員が酔い過ぎな気がしたが、会社の集まりなのは察しがついた。女の服が汚れたのか、男はハンカチを手渡していた。そのおっさんだけは少しも酔っていない様子で、店員に平謝りし、おしぼりでテーブルを拭くのを手伝っていた。

 周りに気を使う少し草臥くたびれたおっさん。

 よく見れば整った顔をしてるな、と見ていると目が合った。彼は少し口角を上げ、眉毛を下げて、会釈した。

 煩くしてすみません、という意味だろう。躾くらいちゃんとしろよ、と思ったがそんなことを伝えることは出来ない。

 少しくしゃっとなった顔が年齢の割には幼く見えた。ぱっと見、四十過ぎだろうと思ったが、三十前半なのかもしれない。

 目が合った一瞬の瞳が、静かな哀愁を帯びていた気がして、彼だけがこの煩い店で際立って見えた。

 服が汚れた女が、空いた彼の隣の席にフラつきながら座り、何かを訴えている。この女は彼に気があるんだろうな、と瞬時に見抜くことができたが、この男からは一切性の気配が感じられない。

 彼は儚げな愛想笑いを浮かべ、ぎこちない手つきで女のブラウスの上からおしぼりで優しくシミ抜きをしてやっていた。自分でそれ位できるだろう、もう一人の女と一緒にトイレに行けば良かったのに、となぜか無性に腹が立った。

 見ているのが急に嫌になり、ハイボールを一気に流し込み、手を上げておかわり、ハイボールと叫んだ。酔いは回ってきていた。

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