第14話 母の過去
母の前の結婚については、父も知っていた。
というか、その件があったからこそ、父は母と再婚しようと決めたらしい。
ドメスティック・バイオレンス。
父が新入社員として入社した会社で働いていた母は、当時『飯田 吾郎』という男性と結婚していたが、いわゆるDVを受けていたらしい。
時折り歩きづらそうに足を引きずっていたり、腰や腹部を庇うような様子に、父は母のことを病弱な人だと思っていたということだ。
実際、母は突然休むことが多くて、会社からの評判もあまりよくなかったらしい。
『あまりに欠勤が多いようだと、進退を考えてもらうことになる』
そう上司に告げられた次の日には母は突然風邪を理由に休み、三日間ほど音沙汰がなかったという──
「それ……って……」
「うん……」
言いづらそうに口籠った幸一だが、義父から聞いたことを全部話そうと決めていたのか、ひと息吐いてから次の言葉を続けた。
「お義母さんはその間、ずっと暴力を振るわれるか、暴言を吐かれてほとんど寝かせてもらえなかったらしい……化粧でも隠せないほどの青あざを頬につけられて、しかもそれを『自宅でふらついて転んだから』と言い訳したって……」
美由紀の頭にぼんやりと浮かんだ、母の身体にわずかに残る引き攣れ──
「あれ…って……」
「お義父さんがお義母さんに教えてもらったところでは、タバコの火を押し付けられた跡らしいよ……同じところや治りかけのすぐそばに何度も。服に隠れて見えないところには火傷だけじゃなく、痣や骨折の跡も……」
母や父が若い頃は、妻が家庭内暴力を受けているということを救い上げてくれる場所の情報が少なかったり、『女が我慢すべき』という風潮が強かった。
母がどれくらいその『結婚期間』を続けていたのかはわからない。
とにかく父が、母と仲の良かった女性社員と説得してその日から家に帰らせないようにした。
そこから病院への受診や、会社から母の実家への連絡、当時の夫やその実家──いろんな人を巻き込んでの家庭裁判にまで及んだということだ。
「それでも『今でもはらわたが煮えくり返るほど憎いから話したくない』ってお義父さんが言うほどだったから詳しくは聞けなかったけど、時間的にはずいぶんかかったみたいだよ」
「え?でも待って?じゃあ……父は、母を略奪婚したのっ?!」
「……言うと思った」
ふっと幸一が笑う。
嫌な笑いではなく、子供をあやすような笑い方に、思わず美由紀はカチンときた。
「なっ、何よ!お父さんのことはそりゃ……絶対的に正しいとは思わないけど、そんな非常識な人じゃないって思ってたのに!」
「あっ。いやいやいや!そこは合ってる!お義父さんはちゃんと常識的にお義母さんが落ち着くまで待ったって。離婚の話が出てから実家じゃなくて女子社員寮に移って、ちゃんと離婚の手続きが終わって……やっぱりそういう時って、本当は実の親が娘を守るべきなんだろうけど……」
「え?」
「お義母さんのご実家の方は『離婚なんて体裁が悪い』って言って、離婚しようとしたお義母さんの我慢が足りなかったって責めたらしいよ。だからお義父さんがずっと拠り所のなかったお義母さんを支えて……三年後に再婚したんだって」
「はぁ………」
美由紀の知らない話ばかりだった。
なんせ父と母の馴れ初めを聞いても
「会社で知り合って……」
「三年間お付き合いして……」
「で、結婚して」
そんなふうに、あっさり語られたことしかない。
でも──
父は母の実家へは、冠婚葬祭があっても送迎はしても、絶対足を踏み入れない。
その理由が分かった気がする。
でも──母は──
「だ、だったら……どうして…お母さんは、あの家に……」
「何らかの暴力や暴言なんかで、また過去に引きずり戻されたかもしれないけど……そういう様子はなかったんでしょう?」
「そう……なんだけど」
あの家で、母に怯えたり誰かのご機嫌というか様子をうかがう感じはなかった。
むしろ──誰もいないからこそ、あんなに自由に、不自然なほど『自由に』娘の美由紀を招き入れてもてなしたのかもしれない。
だからといってあの話の噛み合わないちぐはぐな様子は、実家にいた時もなかったとは言えないけれど、ひどくはなかった。
「あと、ちょっとおかしいことなんだけど………」
「何?」
夫の声に微妙なトーンを感じて、美由紀はグルグルと同じところを巡ってしまいそうな記憶の掬い上げをいったん止めてそちらを見る。
『飯田 遥香』という子供は、あの夫婦には産まれていないんだ。
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