第7話 母の行く先 ②

「どうしたの?」

母がいなくなって、三日。

もう三日。

まだ三日。

あれから朝は美由紀か幸一のどちらかが実家に寄り、夜はそろって実家で晩ご飯を食べ、父が風呂に入っている間に後片付けをしてから自宅に戻る。

今夜もふたりでキッチンに立って、茶碗洗いと明日の父の食事を用意してたが、美由紀の手が止まってしまったのを見て、幸一が声をかけてくれた。

「え……」

どうしよう。話そうか。話したい。話した方が………いいんだろうか。

「あ……」

あのね、と言いかけて、美由紀は口をつぐんだ。

まだ憶測でしかないけれど、美由紀があの封筒に書いてある住所に行きたいと言えば、幸一はたぶん反対はしないだろうし、頼む前から父の世話もやってくれる気がする。


かもしれない───けれど。


しれないけど、どうしても言い出せない。

簡単に言えば、『怖かった』のだ。

父にも自分にも何も言わずに出て行ってしまった。

本当にあの封筒の住所へ?

聞いたこともない別れた元夫の家へ?

それとも、父や自分に何か不満があって、だから何も言わずにどこかへ行った?

単に散歩に行っただけで、ひょっとして事故か何かに合って、人知れず連れ去られてしまった?

誰か父や自分には言えない、知らない『友人』と旅行に行っただけ?

たった2日分の着替えを持って出たのだから、今日帰ってくるはず。

今日は帰ってこなくても、明日には帰って来るかも。

洗濯ができれば、ひょっとしたらもう少し長く旅行に出ているだけかも。

三日…四日…ううん、一週間ぐらい待っていれば、ひょっこり帰って来るかも。

でも───


帰ってこなかったら、どうしよう。


「ううん…なん、でもない……もうそろそろ、私のレパートリーも無くなっちゃうなぁ~って。お母さんに作ってもらってばかりだったから、食べ専だったし。もうちょっと、ちゃんと勉強しておけばよかったな~……って……」

「ああ……そうですね。僕はけっこう大学の研究で泊まり込みすることも多かったし、勤めてからも社員寮入っちゃったから、けっこう自炊はしましたけど…やっぱり簡単な物しか作れませんし」

「………それでも、私より美味しく作れるよね?」

思わず恨めしそうな口調で、美由紀は夫に絡むような目つきをする。

そうなのだ──恋愛より仕事に比重が偏る美由紀は、実家の気楽さで『手伝う』レベルでしかキッチンに立ったことがなかった。

逆に幸一は経済的な問題ではなく、家族──特に母親との折り合いが悪いということで、かなり早くから独立を決めて生活していたらしい。

おかげで長男という立場でありながら、ひとり娘しかいなかった天野家へ入り婿として入ってくれた。

まあ、父も母も長子ではなかったので別に守らなくてはいけない墓というのがあるわけではないし、わざわざ天野の姓を継いでもらう必要も無いといえば無かったのに、どうしてもと幸一が譲らなかったのである。

「まあ…本を見れば、それなりに……あ、じゃ、一緒に何か作りますか?リクエストなんかありますか?」

褒められたと思ったのか、夫はにこやかに次の献立を考えようと話してくれているのに、美由紀の思考はまた母の行方へと傾いてしまう。


そう──母も、何となく母の実家には居心地悪くしていた気がするし、美由紀が小学高学年になる頃にはずっと疎遠になって、年賀状のやり取り以外は関わりが無くなってしまった。

ましてや父と一緒に母方の家に行った覚えはほとんどない。

ああ……だから、かも……

美由紀は夫に対しても、母が訪れ、今も滞在しているかもしれないその場所を相談できないのは、そのせいかもしれなかった。


だって、その『住所』は、母の実家に近かったから。


だけど───でも───


「やっぱり、行く」

「え?」

美由紀がそう告げたのは、その夜だった。

すでに寝ようと常夜灯を灯した暗い部屋の天井を見つめ続け、ポロリとこぼしてしまった美由紀のその声を、隣の布団で寝ていた幸一は訊き返す。

娘婿が毎晩実家に来て晩酌に付き合ってくれるのが嬉しいと、母の不在を何とも思っていないらしいほろ酔いの父を見て、そう決意した。

「明日、お母さんのところに行ってくる」

「え?美由紀さん、お義母さんのいるところ、知ってたの?!」

幸一がギョッとしたように声を大きくしたのを、美由紀は慌てて身振りと表情で否定する。

「ち、違う違う違う!!それと、静かに!」

ふたりがいるのは夫婦の寝室ではなく、実家の一室である。

この部屋は美由紀自身が実家にいた頃から使っていた洋室だったが、念願だったという和室にリフォームされた客室になっていて、これまた美由紀自身が願っていた『畳に布団を敷いて寝る』が叶っていた。

それはともかく、同じ二階とはいえドアはキッチリ絞められているし、廊下を挟んだはす向かいにある父たちの寝室には聞こえないだろうけれど、深夜の静けさは思っているようにも大きく聞こえている気がして、思わず声を潜めてしまう。

「………これ」

常夜灯から最小限の蛍光白色に電灯を点けかえると、美由紀は見つけてからずっとカバンの中に隠していた三枚の封筒を夫の前に並べた。

何も言わずに幸一は一通ずつ封筒を取り上げ、裏を確認する。

そして、美由紀と同じように三通目で手を止めた。

「これ……」

「中を見てもいいよ。私も読んだから」

戸惑うように何度も表と裏を見返す夫に、美由紀は許諾の声をかけた。

どうせもう美由紀も触ったのだから、今さら幸一が広げても問題はない──はず。

指紋がどうとかテレビドラマや小説で仕入れた知識がチラリと頭を掠めたけれど、見つけた時点で父や警察に連絡していないのだから、今さらである。

それでもなるべく慎重に三通目の手紙を広げ、内容を読んでいく夫が眉をひそめて何度もその目と手が手紙を読み返すのを、美由紀も息が詰まる思いで見続けた。


「……で」

「うん」

「行く、と?」

「うん」

「ひとりで?」

「………うん」

確認するように幸一が問うと、美由紀はわずかに間を置きながらそう答えた。

ひとりは心細い。


いなかったらどうしよう。

いたらどうしよう。


そう思っても、父をひとりにするのも心配である。


どうしよう。

どうしたら。

いっそのこと……父もつれていく?

ううん。そんなことはできない。

できない?

どうして?

いなかったら、母の実家を避けている父から何か嫌なことを聞かされるのかもしれない。

いたら、父と自分が見たくないものを見るかもしれない。

どうしたらいい?


「どうしたら……いいと思う?」

行くと決心したはずなのに、考えすぎた美由紀は意気地がないと思いながら、ついそう訊き返してしまった。

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